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 しばらくの時間が経過して、観客たちが手持ち無沙汰になってきたころ、ふいに塔から煙がにじみ出し始めた。  火がかけられたのだ。  煙は壁や窓の隙間から白く立ち昇り、しだいに黒々と勢いをまして壁全体を包み込んでいく。  おそらく地上階の窓を破って松明を投げ入れたのだろう。  塔の外壁は石造りだが、内部の床や柱は木を組み上げてできているし、保管された備蓄品も燃えやすい。  塔それ自体が巨大な煙突となり、内部では炎がごうごうと燃えさかっているにちがいなかった。  観客たちの気楽な気持ちは吹き飛んだが、その場から避難したがる者はいなかった。  南風が煙の流れを城から遠ざけ、火の粉が及ぶ危険性は感じられない。  それにあの様子では、きっと魔物も中で焼け死んでしまうにちがいない。  だが、しばらくして黒煙が塔の円錐形の屋根まで覆いつくしたとき、人々の間から悲鳴があがった。  最上階の窓部分が突然砕け、魔物の頭部が飛び出してきたのだ。  外壁の破片をはね上げながら首をもたげるように伸び上がり、大きな胴がそれに続く。砕けた石が、煙の中を次々に落下していくのが見えた。  細長い形に作られた窓のはずなのに、そこから押し出されてきた胴体は、粘土のように膨れてべったりと壁に広がった。  青灰色のひらべったい身体が黒煙の中で動いている。四肢をのばして壁面に吸いつき、上へ、屋根へと這いのぼる。  煙を嫌っているようだが、単に嫌っているだけとも思える力強い動きだ。  もしかしてあの魔物は、炎にまかれても死なないのだろうか。  熱さを感じないのだろうか。  遠方にもかかわらず、煙の間から見え隠れする、幾本にも枝分かれした角が確認できた。  それが角であるということだけが、チルという名で呼び起こされる生き物の、最後の名残り。  塔に囚われていた罪人たちをすべて取り込み巨大化した、あれがインキュバス本体。  そのとき。  下方に広がる木立から、場違いに白いものが舞い上がって塔の屋根へと向かい始めた。  大きくはばたく天馬の翼が、陽光に輝いている。  またがっている剣士の姿は、やっと人だとわかるくらいに小さい。  だがふいに銀の光が日差しに強く反射して、彼が剣を抜いたことをわたしたちに教えた。  天馬は屋根と同じくらいの高さまでのぼり、そこでゆるいはばたきに切り替えて、空中にとどまっていた。  そして、それ以上近づこうとせず、別の方角を向いている魔物の身体と向かい合った。  煙はかからない位置にいたが、熱波で近づけないのかもしれない。  剣士はおそらく抜き身の剣を下げた状態なのだろうが、あんなに離れていては剣が届くはずもない。  あまりに動きがないので観客たちが不安になったとき、屋根にいた魔物の首が剣士のほうに向きを変えた。  魔物が自分のほうを向くのを、わざわざ待った──そんなふうに感じたのはわたしだけだろうか。  もっと早く攻撃することもできただろうに。  だが、その後の勝負は一瞬といってよかった。  剣がひらめき、放たれた白光が空を裂いて一直線に伸び、刀身から離れすぎていると思えた魔物の首まで達して炸裂した。  屋根にへばりついていたインキュバスの身体が、銀色に燃え上がった。  大きな胴体が白光に包まれながら屋根から立ち上がり、黒煙を巻き込みつつも、さらに上に逃げようとする。  けれど、そこまでだった。  なぜなら、いちだんと白く燃え立ったその直後、まるで雪の彫刻が崩れるように、魔物の全身が崩れて砕け散り始めたからだ。  それは、晴天の空に突然あらわれた吹雪にも似ていた。  輪郭を失った肉体が大量の雪となって吹き上がり、熱波にまかれて乱れ散っていく。  吹雪は徐々に勢いを落としながら粉雪に変わり、粉雪は空に散り溶け、そしてついにはすべてが……消えた。 「浄化」と呼ばれるものの、それが終わりだった。  身動きもできないような沈黙のあと、うって変わった歓声が窓辺でわきおこったのは、当然の反応だっただろう。  と同時に、北の塔のほうからもかすかに歓声が聞こえてきた。塔の下で待機していた兵士たちのものにちがいなかった。  歓声の中、わたしはひとりきびすを返して部屋を走り出た。  階段をおりて外に飛び出し、庭園を横切って塔へと走る。  けれど、わたしがたどりつく前に、息せき切ってこちらに駆けてくる侍女の姿が目に飛び込んできた。 「姫さま!」  まりが転がるように駆け寄ってくると、メイナはわたしにすがりついて泣きじゃくった。 「姫さま申し訳ありません、あたし……あたし……」 「メイナ、怪我はない? 大丈夫?」 「あたし、見世物小屋の裏口からチルを中に入れて、ひとりで帰ってきたはずだったんです。ついてきていないかどうか、何度も後ろを確認しながら。それなのに……もっとちゃんと確かめればよかった。まさかお城に戻っていたなんて」 「もういいのよ。終わったんだから」 「でもあたしが」 「あなたが悪かったなら、わたしも同じように悪かったんだわ」  メイナが驚いたように、くしゃくしゃになった顔を上げる。 「そんな。姫さまはなんにも」 「それならあなたも、もう言わないで。無事でいてくれただけでうれしいわ」 「剣士さまが来てくださったんです。あたしもう、こわくてこわくて……荷物の影にかくれてふるえていたら呼ぶ声が聞こえて。返事をしたら剣士さまがいきなり」 「首ねっこをつかんで、あなたを外に放り出したのね?」  メイナは一瞬きょとんとした。それから、泣き笑いをしながらうなずいた。  
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