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10
しばらくの時間が経過して、観客たちが手持ち無沙汰になってきたころ、ふいに塔から煙がにじみ出し始めた。
火がかけられたのだ。
煙は壁や窓の隙間から白く立ち昇り、しだいに黒々と勢いをまして壁全体を包み込んでいく。
おそらく地上階の窓を破って松明を投げ入れたのだろう。
塔の外壁は石造りだが、内部の床や柱は木を組み上げてできているし、保管された備蓄品も燃えやすい。
塔それ自体が巨大な煙突となり、内部では炎がごうごうと燃えさかっているにちがいなかった。
観客たちの気楽な気持ちは吹き飛んだが、その場から避難したがる者はいなかった。
南風が煙の流れを城から遠ざけ、火の粉が及ぶ危険性は感じられない。
それにあの様子では、きっと魔物も中で焼け死んでしまうにちがいない。
だが、しばらくして黒煙が塔の円錐形の屋根まで覆いつくしたとき、人々の間から悲鳴があがった。
最上階の窓部分が突然砕け、魔物の頭部が飛び出してきたのだ。
外壁の破片をはね上げながら首をもたげるように伸び上がり、大きな胴がそれに続く。砕けた石が、煙の中を次々に落下していくのが見えた。
細長い形に作られた窓のはずなのに、そこから押し出されてきた胴体は、粘土のように膨れてべったりと壁に広がった。
青灰色のひらべったい身体が黒煙の中で動いている。四肢をのばして壁面に吸いつき、上へ、屋根へと這いのぼる。
煙を嫌っているようだが、単に嫌っているだけとも思える力強い動きだ。
もしかしてあの魔物は、炎にまかれても死なないのだろうか。
熱さを感じないのだろうか。
遠方にもかかわらず、煙の間から見え隠れする、幾本にも枝分かれした角が確認できた。
それが角であるということだけが、チルという名で呼び起こされる生き物の、最後の名残り。
塔に囚われていた罪人たちをすべて取り込み巨大化した、あれがインキュバス本体。
そのとき。
下方に広がる木立から、場違いに白いものが舞い上がって塔の屋根へと向かい始めた。
大きくはばたく天馬の翼が、陽光に輝いている。
またがっている剣士の姿は、やっと人だとわかるくらいに小さい。
だがふいに銀の光が日差しに強く反射して、彼が剣を抜いたことをわたしたちに教えた。
天馬は屋根と同じくらいの高さまでのぼり、そこでゆるいはばたきに切り替えて、空中にとどまっていた。
そして、それ以上近づこうとせず、別の方角を向いている魔物の身体と向かい合った。
煙はかからない位置にいたが、熱波で近づけないのかもしれない。
剣士はおそらく抜き身の剣を下げた状態なのだろうが、あんなに離れていては剣が届くはずもない。
あまりに動きがないので観客たちが不安になったとき、屋根にいた魔物の首が剣士のほうに向きを変えた。
魔物が自分のほうを向くのを、わざわざ待った──そんなふうに感じたのはわたしだけだろうか。
もっと早く攻撃することもできただろうに。
だが、その後の勝負は一瞬といってよかった。
剣がひらめき、放たれた白光が空を裂いて一直線に伸び、刀身から離れすぎていると思えた魔物の首まで達して炸裂した。
屋根にへばりついていたインキュバスの身体が、銀色に燃え上がった。
大きな胴体が白光に包まれながら屋根から立ち上がり、黒煙を巻き込みつつも、さらに上に逃げようとする。
けれど、そこまでだった。
なぜなら、いちだんと白く燃え立ったその直後、まるで雪の彫刻が崩れるように、魔物の全身が崩れて砕け散り始めたからだ。
それは、晴天の空に突然あらわれた吹雪にも似ていた。
輪郭を失った肉体が大量の雪となって吹き上がり、熱波にまかれて乱れ散っていく。
吹雪は徐々に勢いを落としながら粉雪に変わり、粉雪は空に散り溶け、そしてついにはすべてが……消えた。
「浄化」と呼ばれるものの、それが終わりだった。
身動きもできないような沈黙のあと、うって変わった歓声が窓辺でわきおこったのは、当然の反応だっただろう。
と同時に、北の塔のほうからもかすかに歓声が聞こえてきた。塔の下で待機していた兵士たちのものにちがいなかった。
歓声の中、わたしはひとりきびすを返して部屋を走り出た。
階段をおりて外に飛び出し、庭園を横切って塔へと走る。
けれど、わたしがたどりつく前に、息せき切ってこちらに駆けてくる侍女の姿が目に飛び込んできた。
「姫さま!」
まりが転がるように駆け寄ってくると、メイナはわたしにすがりついて泣きじゃくった。
「姫さま申し訳ありません、あたし……あたし……」
「メイナ、怪我はない? 大丈夫?」
「あたし、見世物小屋の裏口からチルを中に入れて、ひとりで帰ってきたはずだったんです。ついてきていないかどうか、何度も後ろを確認しながら。それなのに……もっとちゃんと確かめればよかった。まさかお城に戻っていたなんて」
「もういいのよ。終わったんだから」
「でもあたしが」
「あなたが悪かったなら、わたしも同じように悪かったんだわ」
メイナが驚いたように、くしゃくしゃになった顔を上げる。
「そんな。姫さまはなんにも」
「それならあなたも、もう言わないで。無事でいてくれただけでうれしいわ」
「剣士さまが来てくださったんです。あたしもう、こわくてこわくて……荷物の影にかくれてふるえていたら呼ぶ声が聞こえて。返事をしたら剣士さまがいきなり」
「首ねっこをつかんで、あなたを外に放り出したのね?」
メイナは一瞬きょとんとした。それから、泣き笑いをしながらうなずいた。
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