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 塔の内部で燃えさかる赤い炎は、浄化の白炎とはちがい、溶けるように消えるというわけにはいかなかった。  だが強固に積み上げられた石壁は炎を外に逃さなかったし、幸いなことに昼前からにわかに空が暗くなって、雨雲が恵みの雨を運んでくれた。  あらかた内部を焼き尽くされた北の塔は、冷たく激しい雨に打たれて煤を洗い流しながら、しだいに温度をさげていきつつあった。  城内から見守っていたわたしたちは胸をなでおろし、魔物が滅んだ喜びをあらたにしあうのだった。  自分たちの命が永らえたのもうれしいが、何よりもありがたかったのは、僕と化していた人々が元通りの姿を取り戻したことだ。  インキュバス本体よりも、ある意味厄介だったといえるのが、この僕たちの存在だった。  もともとが魔物ではなく、罪もない城の住人たちなのだから。  しかも本体が死ねばもとに戻れるわけなので、できる限り傷つけたり殺したりしたくない。  魔法剣を自在にあやつる剣士さまが、本体を城から逃走させるほどてこずったのも、邪魔してくる僕たちに剣をふるうのを避けようとした結果なのだ。  避けたかわりに何をしたかというと、彼は剣の柄で僕を殴って気絶させ、手近にあった(しゃ)のドレスで──たまたま衣裳部屋だった──縛りあげた。  そういう方法を兵たちにも指示し、縛った者たちを一階すみの酒蔵にまとめて閉じ込めた。  炎で浄化するのにくらべると、なんて手間のかかる仕事だろう。  そういうわけで、わたしには剣士さまに捧げなければならない感謝の言葉が山ほどあった。  その半分程度は、女王陛下や姉姫たちといっしょの席で伝えることができたのだが……問題は残りの半分だ。  侍女の件を、ほかの人がいる場で話すわけにはいかない。  ふたりきりになる機会を得たのは、中庭に面した側をめぐる二階の回廊に、彼の姿をみつけたときだった。  激しかった雨が霧雨に近い小降りにかわり、けむるようにしっとりと中庭をぬらしている。  夕暮れにさしかかった空は、小雨を残しながらもほのかに明るかった。  彼は回廊のはしに立ち、庭をはさんだ向かい側にある大広間のほうを眺めていた。  声をかけようとしたわたしは、近づきかけて、ふとためらった。  ぼんやりと広間を見ている、ととのったその横顔に、ちょっと声をかけにくいほど静かな雰囲気がただよっていることに気づいたからだ。  それは、夜の庭で口をふさがれたときに感じた荒っぽさ、あるいは魔物を成敗したときに感じた圧倒的な強さとは、ほとんど対極に近い雰囲気だった。  腕っぷしの強い剣士というのは猛々しいものなのだろうと、勝手に思っていたのだが……。  でもそういえば、天馬とじゃれていたときの笑い方は静かだった。  それに荒っぽいと感じたときでも、怒鳴ったり騒々しかったりしたわけではない……。  ふいに興味がわいてきた。  この人は、いったいどんな人なのだろう。どちらの雰囲気が本当なのだろう。  そのとき、視線を感じたらしく彼が急に振り向いた。  わたしは不しつけにみつめてしまったことに気づき、いそいで歩み寄った。  「剣士さま」  呼びかけると、彼は明らかに迷惑そうな顔をした。 「さまはやめてくれよ。名前だけでいい。敬語って苦手なんだ」  荒っぽい感じに雰囲気が切り替わってしまったため、少しひるむ。   けれど呼び方が嫌だっただけで、わたしと話すことが嫌なわけではなさそうだ。 「ラキスさま」 「さまはやめろって」 「では、あの……ラキス、どうもありがとう。メイナを助け出してくれて」  それからわたしは居住まいをただし、侍女の命を救ってくれたことに対する感謝を正式に伝えた。  無視されてもしかたのない願いだったのに、聞き届けてくれた恩人だ。  それにふさわしい感謝と賛辞の言葉を、最大限の心をこめて送ったが、恩人の返事はそっけなかった。 「たいしたことはしてないよ」  「でも、塔の中にわざわざ入って探すなんて余計な仕事を」 「中を探したわけじゃない」 「え……じゃあどこを?」 「塔のそばの穀物倉庫」  封鎖された塔に女の子が忍び込むなんてできっこないし、できるようなら封鎖とは言わない。  けれどもし近くまで来たとしたら、たぶん倉庫あたりにかくれているだろうと見当をつけた。  ラキスはそんなことを、淡々とした声で説明した。  それから「あの子、どうなる?」とたずね返した。 「メイナなら今は部屋にいるわ。でも明日には里に返すつもりよ。絶対に口外しないという誓いをたててから」 「そう。それならいい」  なんらかの処罰をされるのかと思ったようだが、そんなことできるはずはなかった。  そこのところを説明しようとしたが、ラキスはわたしから視線をはずして、ふっと中庭のほうに顔を向けた。  先ほどから聞こえていたリュートの調べが曲調を変え、そちらに気をとられたようだった。  中庭をはさんだ向こう側の回廊には楽師たちが集い、人々の心をいやす音楽を静かに奏で続けていた。  回廊に接した大広間は兵士や下働きの者たちに解放されて、大きな暖炉に火がはいり、温かい食べものと飲みものが用意されている。  女王陛下の心づくしだ。もちろん厨房の働き手たちの負担にならないように、ごく最低限の用意ではあったのだが。  おそらく一階のどこかで繭を破ったインキュバスは、同じ階で休む召使いたちの大部屋を最初に襲撃したのだった。  王族や廷臣たちのいる上階にあがる前にまず何人かを取り込み、何人かを僕に変え、衛兵たちを巻き込みながら進撃していったらしい。  取り込まれたり人間に戻れなかったりした犠牲者は、すべてが終わってみれば数人だった。  たとえば南の塔で浄化された者──。  ただ、もとに戻れたたくさんの仲間たちとの再会が大きな喜びだったため、大広間の雰囲気は暗くはないようだった。  薄絹の雨のとばりの向こうから、リュートの音色とともに深い安堵感が伝わってくる。 「きれいな曲だな」  目を伏せたラキスが、ひとりごとのように呟いた。  それからわたしに向けて、自分の部屋に戻ってもいいかとたずねた。  彼は広間から自分用の客室に戻る途中だったのだ。 「ごめんなさい、引き止めてしまって」  わたしはあわててあやまった。 「魔物にとどめを刺すのも大変だったでしょう。ゆっくり休んで」 「そう大変でもなかったよ。煙で弱っていたから一発ですんで、むしろ楽だった。ただ……」  彼はふとため息をついた。 「あの子が魔物の名前を連呼するから、なんだか調子が狂って。名前をつけられた魔物を討つのは、はじめてだったから……」 「え?」 「なんでもない。じゃあこれで」  しゃべりすぎたと思ったらしく、彼はわずかに苛立ったように話を打ち切った。  歩み去っていくその後ろ姿を、わたしはぼんやりと見送った。  大柄な兵士たちとくらべると華奢な若者の背中に、最初は気づかなかった濃い疲労が透けて見える。  おだやかな弦の響きに細い横笛の音色がからんで、流れてくる調べは美しくも、どこかもの哀しげな旋律だ。  きれいな曲……。  ふいに、わたしは申し訳なさで胸がいっぱいになった。  彼の痛みが正しく理解できたわけではない。ただ、自分の頼みごとが彼に何らかの負担を強いたことだけは、はっきり理解できた。   「待って」  思わず追いかけ、走り寄って引き止めたわたしの手を、ラキスがだるそうな動作で振り払う。 「まだ何か?」 「待って。ごめんなさい、わたし……わたし自分のことしか考えていなくて」 「なんの話だ」 「本当にごめんなさい」 「だからなんの」 「こんなことしかできないけれど」  そしてわたしは彼の前にまわりこみ、言葉だけではない精一杯の謝罪とお礼を……。  しようとしたが、できなかった。仰天したラキスに突き飛ばされたからだ。 「何すんだよ、いきなり!」  ほとんど青ざめてあとずさりしながら、彼が叫んだ。 「何って約束したでしょう。接吻と抱擁」 「してねえよ、そんなの」 「したわ、あなたが言い出したんじゃないの。だからわたし」 「冗談のことか?」 「冗談?」  今度はわたしが仰天する番だった。  そんな軽はずみな口約束をする娘だと思われていたなんて、魔物襲来につぐ衝撃といっていい。 「いくらはねっかえりの末姫でも、冗談で引き受けたりなんかしない。約束をたがえることもないわよ」 「よせ、近づくな」 「受け取っていただくわ。わたしにはこれしかできないんだし、約束は約束」  はからずも、もみあいになる。 「わかった、おれが悪かった。これからは真面目にしゃべるようにするから」 「これからじゃなく今の話よ」 「よせってば……わっ」  勢いあまって足がもつれ、わたしたちは回廊の壁にぶつかりながら倒れこんだ。  重なりあった姿勢のまま、おたがい呆然としてみつめあう。  リュートがあらたな曲に入り、その妙におどけた音色だけが、沈黙したふたりの間を長々と流れた。 「……誰かに見られたらどうしましょう」  と、わたしが呟いた。 「まずいな。おれの首が飛んじまう」  と、ラキスが呟いた。 「わたしが上になっているから平気よ」 「………早くどいてくれない?」 「動けないの。あなたがドレスの裾を踏んでいるから……」  わたしたちは再び長い間みつめあった。  それから、ふたり同時に吹き出した。  誰も来ないのをいいことに、そうしていつまでも笑いあっていた。  
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