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12
ラキスは女王陛下と契約を結び、レントリアの王城に滞在する身分となった。
わたしはあまり知らされていなかったのだが、レントリアにおける魔物の討伐状況は、つねに女王陛下や廷臣たちの悩みの種となっていた。
跋扈する魔物の群れはインキュバスに限ったことではなく、魔法炎の力を借りなければ太刀打ちできない局面も珍しくなかったようだ。
もっともラキスは、国内ではなく他国で稼業をするつもりで、旅に出かける途中だったらしい。
よその国も面白そうだから、ちょっと足をのばしてみよう。
そんな軽い気持ちで旅支度して、たまたま王城の上を通ったときに、濃厚な魔物の気配を感じて驚いたそうだ。
「旅の途中?」
その話を聞いたときに、一瞬首をかしげてしまったのは、お城育ちの悲しさというものだろう。
旅といえば馬車に乗り護衛に守られ、荷馬車までついて移動する様子しか思い浮かべられなかったのだ。
「旅でなければ何だと思った?」
ラキスが苦笑しながらたずね返した。
「明け方から散歩? 夜の中庭と同じくらい時間外だよ」
「でも荷物は……」
「本当に必要な持ち物なんて剣だけだ」
軽そうな背嚢ひとつの身支度で、天馬にまたがり夜明けの空を渡る人。
わたしにはどうしようもなく高く思える城壁を、いとも簡単に、まるで存在しないものみたいに越えていく人──。
彼はどんな人なのだろう。回廊で抱いたそんな興味については、いっしょにいる時間がいくらふえても満たされた気がしなかった。
というより、ひとつ満たされてもすぐに次が知りたくなるといった具合で、おわりが見えなかっただけかもしれない。
結局、闘うときは荒々しいが無関係な場所では静か、ときには笑ったり冗談を言ったりもする若者だという、あたりまえとしかいいようのない結論にたどりついた。
その結論は姉たちにしても同じだったらしい。
姉たちは剣士の雰囲気の落差について「剣士さまって思ったよりも無口なかたなのね」という言い回しで表現していた。
けれど、彼と過ごす時間が多かったわたしの感想は、それとは少しだけちがう。
たしかに口数少ない人ではあったのだが、それが静けさの原因なのではなく、たとえば……どこかでいつも弦を張りつめているような静けさ、とでもいえばいいのか──。
ただ、だから気さくに話ができなかったかといえば、そんなことはない。
声をかければすぐに応えてくれたし、例の「冗談」の件が示すとおり、軽口をまぜこんだ会話を楽しむことも、ちゃんとできた。
したがって、内側に抱え持っている緊張感は、剣士という職業上、身についたものだろうというのが、わたしの解釈だった。
いつ襲われても対応できるように、自然に身構えているのだろうと。
最初のうち彼はずっと城内にいて、警備の役を担っていた。
恐怖の記憶も生々しかった住人たちが、それを望んだからだ。
だが、しばらくして皆の気持ちが落ち着いてくると、討伐隊の面々とともに外にも出向くようになった。そして勇者さまの名にふさわしく、いつも成果をあげて城に戻ってきた。
彼を勇者さま扱いしていないのは、わたしひとりだった。
心の中の境界線がうすれてしまったわたしには、もう彼を特別な英雄だとあがめることが難しかったのだ。
彼のほうも英雄扱いにうんざりして、わたしの態度を歓迎していたと思う。
侍女や兵士たちからラキスさま、ラキスさまと呼ばれるたびに、困ったようにわたしを見ながら呟いていたから。
「あの呼び方、どうすれば直してもらえるのかな」
そんなときの彼は、少年を通り越して子どもっぽいと言いたくなるような顔をしている。
「気にしなくてもいいと思うわ」
「エセルは慣れてるから平気だろうけど、おれはどうにも……」
──エセル。
ごく何げない呼び捨てに、わたしがどれほど心を動かされていたかなんて、きっと彼は思いつきもしなかったにちがいない。
姫君でもなく王族でもなく、ひとりの娘として見られることが、どれほど心地よかったかなんて。
そして呼び捨てが城内でとがめられもしないのは、彼が勇者さまとして扱われていたおかげなのだ。
のちに起きた出来事の数々を思ってみると、このころがどんなにのどかな時期であったのか、身にしみて感じられる。
わたしには、城の中で剣士と一番親しい人物が自分であるという自信があった。そしてもちろん、実際にもそうだった。
実を言えば、彼のほうから進んでわたしのそばに寄ってきたことは、一度もなかった。
けれど遠征から帰ってきたとき、出迎える人々の中にわたしの姿をみつけると、淡々とした彼の表情が、いつも微妙に変化するのがわかった。
それがなんの変化なのかはよく考えていなかったのだが、あるとき、帰還した隊列を迎えていたわたしのとなりで、ふいに誰かが言った。
「エセル、呼吸したほうがよくてよ」
振り向くと、二番目の姉姫がおかしそうにこちらを見ている。
わたしは知らないうちに息をとめて、彼をみつめていたらしい。
赤面したわたしに、姉はさらに楽しそうに続けた。
「剣士さまはその逆ね。あなたをみつけると、いつも呼吸なさるわ。ほっとしたみたいに」
ほっとした……そういうふうに言えばいいのか、あの表情のことを。
それ以来、ぼんやりしないように気をつけながら彼を見るようになった。
だから見過ごしがちだったことも、しっかり確認できるようになったはずだ。
厩舎の馬にしか興味がなかった末姫が、殿方に会いたくてそわそわしている。
そんなふうに、城のあちらこちらでからかわれても、おかげで気にしなくてすんだ。
ふたりが落ち合うことの多かった場所で、約束したわけでもないのに彼が待ってくれていることを、わたしはちゃんと知っていた。
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