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 インキュバスと呼ばれる魔物が夜ふけの王城を襲ったとき、わたしはいつにもまして深い眠りの底に落ちていた。  隣国の王族を招いての舞踏会に向け、一日中踊りの練習に精を出したあとだったので、くたびれはてていたのだ。  隣国で人気だという旋律は、心が浮き立つ軽やかさだったが、踊るとなると聴いたときほど軽やかなわけではなかった。  足さばきがうまくいかず、楽師たちに同じ部分ばかり何度も奏でてもらった結果、夢の中までそれがつきまとってきて、わたしをうんざりさせていた。  だから姉姫たちに揺り起こされたときも、もっと練習するよう促されるのかと身構えたくらいだった。  わたしが苦労しているステップを、姉たちは早々にものにしていたからだ。  なんてのんきだったことだろう。  起き上がってあたりを見れば、天蓋つきのベッドが三つ並んだ大寝室も、侍女たちの脚の低いベッドが入った小寝室も、すべての燭台にあかりがともされている。  全員が緊迫した様子で扉を──ちょうど塔の扉をみつめるように──みつめている。  その向こうから、ときおり叫び声と大きな物音が聞こえてくる。  その音がいまはじまったものではないことが、皆の様子から伝わってきた。  けれど、わかったことといえばそれだけだった。息をつめ身動きとれないままでいると、音がふいに静まった。  自分の気楽さを考えれば、扉を細く開いて外をのぞこうとした侍女を責めることはできない。  様子を確認するのが侍女のつとめでもあるのだから。  だが内側に開いた瞬間、扉はいきなり激しく全開し、魔物と組み合う衛兵が転がりこんできて、皆を恐怖の底に叩き落とした。  魔物は不気味にぬれた青黒い体表をもつ怪物で、衛兵の倍も大きく、二本の腕と直立する二本の足を持っていた。つまり人間の形をしていた。  顔さえもまだ人間のものだった。たとえ両目が眼窩から飛び出しそうでも、口から牙がむき出していても、ひたいから二股に分かれた大きな角が突き出ていても、人の片鱗は残されていた。  どうしてそう言えるのかといえば、次なる魔物が生み出される瞬間を目撃したからだ。  むき出しになった魔物の肩あたりが突然波立ち、青灰色の粘液をしたたらせながら長く伸びると、下敷きにしていた衛兵の首に食い込んだ。  悲鳴と絶命のかわりにもたらされたのは、悪夢としか思えないような変化だった。  衛兵の全身がたちまち青黒く膨れ上がり、鎖帷子の鎧をはじき飛ばしながら膨張していく。  もがいている手が変色する。顔かたちが変形し、ひたいが割れて角が突き上がってくる。  化け物たちの脇を抜けて駆け込んできた別の護衛が、わたしたちの腕を引っぱり、なんとか部屋から脱出させた。  そのまま走って階下に逃げようとしたところで新たな化け物たちと鉢合わせし、下ではなく上に逃げざるをえなくなった。  狭い螺旋階段を、姫たちも侍女たちも死に物狂いで登って逃げた。  絹の夜着が足にからまり、幾度となく転びそうになる。寝室の上階はそのまま南の塔に続いていたが、いつもは時間をかけて登る階段をこんなにも駆け上がれるとは、思いもよらないことだった。  やがてわたしたちは塔の最上階まで行きつくと、扉を閉ざして閂をかけた。  かけないわけにはいかなかった。  部屋を出るときに導いてくれた衛兵たちは複数いたような気がするのだが、最上階までついてきた者はひとりもいない。  わたしたちを逃がすため列の後尾につけていたから、途中で登れない状況になったのだろう。  そしてもう一度登れるようになったとき、その生き物はもはや衛兵ではないのだ。  閂をかけたところで、わたしたちは逃げのびたとはほど遠いのだった。  狭い空間に追いつめられ、袋のねずみになっただけ。扉を破られてしまえば、すべてが終わる。  死ぬだけならまだいいのだと、ふるえながら誰もが思っていた。いまの姿、いまの心のままで息絶えることができるなら。  だがインキュバスの放つ呪力に絡めとられて、忌わしい魔物の(しもべ)に変わるのだけは……。  さらに激しい音がして、扉が再び大きく揺れた。  ひびが入り広がっていく、ぞっとするような音がした。  懐剣を握る姉姫の手に力がこもった。息を止めて目を閉じる。 「待って!」  その手に飛びついて私は叫んだ。この場に及んでも、叫ばずにはいられなかった。 「お願い、もう少しだけ待って」  姉姫から剣を奪い取ると、部屋中からあがる抗議の声を無視して、わたしは転がるように窓辺に走り寄った。  石壁の厚みを利用して造られた小空間の向こうに、はめこみのステンドグラスではない開け放しの窓がある。  両開きの鎧戸をひらけば、完全に外の景色が見渡せる窓だ。  そこを開けたからといって、逃げることなどできないのはわかっていた。  バルコニーがあるわけでもなく、足場になるような突起物もひとつとして見当たらない塔の上。  壁伝いに脱出できる可能性などまったくない。  それでも、何かしたかった。あきらめたくなかった。  しがみつくようにして、木製の鎧戸を手前に引いたとたん、戸外の光と冷えきった風とが同時に部屋に流れこむ。  わたしは窓辺に両手をついて身を乗り出し、そして──息を呑んだ。  朝陽がさしそめる明け方の空。  たなびく雲とあふれ出す光を背景に、真っ白な翼をひろげた天馬が浮かんでいる。  その天馬にまたがって、ひとりの若者がこちらを見ている。  吹きさらしの風に褐色の髪をそよがせ、まるで草原にでも立っているような様子で、わたしのほうをみつめている。  やがて彼は天馬を前に進めると、ひょいと首をのばすようにして、部屋の中をのぞきこんだ。  そして明るくなった室内に、驚きのあまり硬直している姫たちの姿を見出すと、このように言ったのだった。 「なんだ、死ぬところか」
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