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「中に人がいるのに……?」
ティノがかすれたような声を出した。
うわずった調子なのは、しだいに上り坂がきつくなってきたからかもしれない。
「そうよ。でもしかたなかったの。もし魔物が塔に入らず城壁を越えて外に出てしまったら、大変なことになる。都に出るのだけは、なんとしても避けなければいけなかったから……」
「……もしかして、わざと塔に入れたの?」
誘導した。あとからラキス自身がそう言っていた。
弓矢で魔物の行く手をはばみ、塔の扉を開いたと。独断ではなく、それが女王陛下の御意志でもあったのだと。
それを聞いたときのわたしは、たぶんいまのティノと同じ顔をしていただろう。
たとえ非道な囚人相手だからといって、何をしてもいいとは思えない。
ただその思いは、女王陛下やラキスにしても同じだったはずだ。
ちがうのは、守られているだけのわたしと異なり、決断する立場、手をくだす立場にある人たちの覚悟の重さ──。
「たとえ囚人だからって……」
ティノがおそらく無意識に呟きながら、足元のぬかるみを飛び越えた。
わたしはあとに続いたが、予想より早く着地しすぎて、またもや盛大に足をすべらせるはめになった。
泥の中に尻もちをつき、泥はねのごほうびをもらい、なんだか一生分のどろんこ遊びをした気分だ。
「あっ」
ティノがあわてたように振り返る。
「急ぎすぎちゃった。ごめんね、気をつけなくて」
小さな案内人が、いままで同行者に最大限の注意を向けてくれていたことが、確認できた。
そういうわけで、わたしは差し出されてきた細い手をとるのをためらった。
親切な少年の手を泥まみれにするわけにはいかない。
自力で立ち上がったわたしの全身を眺めながら、少年が思いついて提案した。
「沢のほうに寄っていこうか。ちょっと回り道だけど」
方向を変えてしばらく行くと、せせらぎの音が心地よく耳をくすぐりはじめた。
音の出所である水の流れを目にしたとたん、思わずほっと吐息がもれる。ちっとも気がつかなかったが、かなりのどがかわいていたらしい。
せせらぎはごく浅くて狭い小川で、くぼみを流れ下る雪解け水がかたち造ったもののようだった。
水辺を縁取る岩々は案外大きく、この森がなだらかなだけの土地ではないことを示している。
身軽に岩場に近づいたティノが、苔のなさそうな足場をみつけてしゃがみこみ、水をすくっておいしそうに飲んだ。
それからわたしのほうに戻ってくると、あの場所がすべらないよと教えてくれた。
ありがたく助言を受けながら、わたしも同じ足場にかがみこみ、まず第一の仕事として汚れきった両手を洗った。
あまりの水の冷たさにあぜんとしたが、ほかに選択の余地はない。
しびれそうな掌でお椀をつくり、冷水をすくいあげてのどをうるおすと、これもあぜんとするくらいおいしかった。
ひといきついて次の仕事を思い出したため、今度は泥はねで汚れた顔を洗った。
腰につけていたポーチから亜麻布を取り出して、顔までしびれてこないうちにしっかりとふく。
そのあと髪にからまる枯れ葉を落とそうとしたが、編み込んだ髪までいっしょにほどけてしまい、なかなかうまくいかなかった。
しかたない──面倒になったわたしは、編み込みを全部ほどいて手櫛で髪を梳き上げた。
ゆるやかに波打つ金髪が肩の先からすべりおち、背中から腰へと流れていく。
旅の途中もずっとひとつにしばっていたから、髪を解放するのも実にひさしぶりだ。
ふと視線を感じて横を見ると、大きく目をみはったティノが、穴があくほどまじまじとわたしの顔をみつめていた。やがて少年は呟いた。
「エセルってほんとにお姫さまなんだ……」
「そう言ってるでしょう?」
「……うん」
やっぱり小間使いだと思っていたのだろうか。それを口に出してからかおうとしたとき、少年が怯えたような声で問いかけた。
「ティノのこと、こわい?」
こわがっているのはティノのほうに見える。
それに同じような質問を出会った当初にもされて、すでに回答済みだ。口を開きかけたわたしを制して、ティノが続けた。
「こわくなくても、ほんとは気持ち悪いんじゃない? こんな目や耳の人なんて都にはいないんでしょ? 都では魔物を徹底的に取り締まってるって聞いたことがある。都だけじゃない。レントリアのあちこちで討伐隊が魔物を全滅させようとしているって。ティノはこわい魔物じゃないけど、区別してもらえるのかな。村では平気でも、都の人たちには見分けなんてつかないんじゃないのかな」
この子はこわくないんです。必死にそう訴えていたメイナの声がよみがえった。
人に害を与えようなんて思っていない。ただ怯えているだけなんです。
似たようなことを、ラキスの口からも聞いたことがある。
女王陛下は魔物狩りをしすぎかもしれない。あまり狩りすぎるせいで、かえって相手が獰猛になっているんじゃないだろうか。
もっとも魔物狩りがなくなったら失業だから、おれは別にいいんだけどね。
彼が女王陛下を批判的に見ていたかといえばそんなことはなく、城内の危険よりも城下の民を優先した陛下の決意を、彼はちゃんと理解していた。
そういう女王の下でなら働けると思ったから自分も契約に同意した、と、そんなふうに言っていた。
「ティノ、本物の歌い手になりたいの」
少年が真剣そのものの口調で呟いた。
「村にいたらできないの。歌う技術も竪琴も笛も、まともに教えてくれる人がいないんだもん。だから都に行かないと」
「ティノ……」
「ティノの歌、都の人たちにもわかってもらえると思う? それともわざわざ村を出ていく価値なんかないと思う?」
「わかってもらえると思うわ」
わたしは答えた。心からそう思っていたので、嘘をつくことはできなかった。
「あなたみたいにきれいな声で歌う子は、都にもいない。吟遊詩人たちの歌ならお城で何度も聞いたけれど、あなたの歌ほど心を打たれたことは一度もなかった。本当よ」
答えながら、ラキスだったらこうは言わないにちがいないと思った。
苦労するのは目に見えている、どんなに歌がうまくてもばかげた夢はやめておけと、突き放したことだろう。
気休めになるようなことは一切言わない人だったから。
わたしがそばで泣いていたときも。
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