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水の祭典
服の上を這いずるスライムは冷えていて心地いい。自宅に着く。アトリエにスライムを隠しておこうかと考えたが、それより早く玄関が開いた。
「まこちゃん、お帰りなさい。……なぁにそれ」
「ただいま、エリカ。実は――」
リビングで居住まいを正し、スーパーを巡る最中の騒動とスライムを拾った経緯を洗いざらい話す。気分はエンマ大王の前に引きずり出された亡者そのものだ。ボブカットの髪をくるくると指で回しているときの彼女は、思考の整理中だからむやみに話しかけないほうがいい。
俺と、そしてスライムを穴が空くレベルで見つめられる。スライムも少し居心地が悪いのか、俺の背中から腰にかけて張り付き、ゆっくりと往復していた。
「お水の件は人助けだから、素敵だと思うよ」
「うん」
「スライムは……それは……」
地球外知的生命体、つまり地球で幻想種と言われる類の物は苦手だったろうか。去年竜に乗ってはしゃいでいた、あの彼女がまさかスライムを軽蔑するとも思えない。
長い沈黙が耳を突き刺して痛さすら感じる。
「いいわ。許可します。アタシの魔力量ならその子の体積分のお水くらい問題ないし」
さすが一流の魔法使いなだけある。頼もしい。
「ありがとう」
「貴方は優しいものね」
「当たり前の事をしているだけだよ」
スライムも空気の変化を感じ取ったのか、テーブルの上に置かれたコップに身体の一部をつけた。そうして飲んでいるらしく、水がみるみるうちに減っていく。エリカが俺にも水を勧めてきた。
「貴方もちゃんと飲んでね。暑いなか、お疲れさま」
「ありがとう。いただきます」
氷の浮いた水をゆっくりと飲み干していく。暑さに耐えていた身体へ水分と冷気が染みわたっていく感覚が心地良い。
「美味しい……」
「おかわり、いる?」
「もう一杯欲しいな。お願いします」
差し出したコップを彼女が優雅に掴む。逆再生のように水で満たされていく現象は、何回見てもため息が出るほど綺麗だ。
純度の高い魔力から作り出された水は天然水に勝るとも劣らない。魔法使いの総数からして、むしろ貴重な飲み物だろう。誰かを助ける余裕があるのも、聡明な妻あっての事だ。そうでなければ俺は何をやらかしたか分からない。あの父親のように家族のため、なりふり構わず飲み物を求めないとも限らないのだから。
「休んでばかりもいられないな。アトリエで作業するよ」
「気をつけてね」
「うん。水は定期的に飲みに来るから」
家に併設されたアトリエ――どちらかというとアトリエのオマケとして家がくっついている――へと向かっていると、足元にスライムが柔らかく絡みついてきた。ずいぶん人懐っこい個体らしい。撫でてやると、くすぐったそうに身体を震わせている。
「おいで」
ひんやり気持ちいい身体を抱きかかえて作業場へと入り、パソコンを起動する。打ち合わせを昨日のうちに終わらせておいてよかった。図面作成ソフトで細かいところを修正してプリントアウトする。次は下準備だ。
図面を見ながら木工魔法で木材を動かし、接着し、削っていく。スライムが、ふいに泡立つような音を立て始めた。
足元で沸騰するように湯気が出ている。
「なんだ、どうした? 暑いのか?」
「――ァ……おれ、も、おしごと、する」
喋った。
スライムが。
いやいやいやいや、偏見はよくない。事実をありのままに見よう。湯気はおさまっている。そして発話機能を獲得した。
「まこちゃ、てつだう」
たどたどしいが、確かにこれは日本語だ。知的生命体ゆえの吸収力の高さ、いや、声帯を創ったのか。地球外知的生命体の奥深さはすごいな。
「ありがとう、助かるよ。じゃあ、練習も兼ねて木工の練習をしてみようか」
「うん。なに、する?」
「君のために図面を描くから、少し待って」
スライムは嬉しいのか、周辺をゆっくり跳ね回っている。内心の動揺は悟られなかったらしい。まずは丸いもの、そうだな……彼自身のミニチュアを彫ってもらおう。
図面を印刷し、彼に見せる。うっかり等身大で作ってしまったが、木材はたくさんあるし大丈夫だろう。
「君はなにか魔法を使えるのかな?」
「まこちゃんの、見て理解した」
「すごいなぁ。じゃあお願いするよ。よろしくね」
「がんばる!」
スライム君はもう発音が滑らかになっている。吸収力がすごい。スポンジが水を吸うように、というのは覚えの良さを比喩したものだが、彼はそれ以上かもしれない。
一人と一体がいるアトリエはクーラーの稼働音がしている以外は静かだった。俺は町から委託された仕事の案件を、彼は自分の木彫りを、黙々と加工していく。だんだん物音が聞こえなくなっていき、木材の香りすら薄らいでいく。集中したなぁ。どこか他人事のように思いながら、視界の隅の図面と今作っている巨大てるてる坊主を眺める。本体は八割完成したようなものだ。土台にはめこみ、全体の接着部分を魔法でやすりがけしていく。やりすぎても接続部の強度が落ちてしまうので、塩梅が本当に難しい。
あとは。
「お昼ごはん、できたわよ」
「お手伝いの練習終わったよ、見て見て!」
彼らの声で現実に引き戻される。
まずは「ありがとう、すぐ行く」とエリカに言葉を返す。
「ねぇねぇ、まこちゃん。おれの傑作、見て」
足元には二体のスライムが鎮座している。木彫りだからすぐに見抜けるが、色を塗ったらわからないかもしれないな。
「すごいぞ。君には素質がある!! 俺と一緒に木工をやらないか?」
「やるーー!!」
大ジャンプして肩に飛び乗ってきた彼は、肩を支えに後頭部に張り付いたらしい。頭が絶妙に冷たくて心地いい。ほてっていた身体が冷えて――「あっ」やらかした。
魔法で俺と彼の身体に付着した汚れを落としたあと、静かにダイニングへと顔を出す。そこには少し不機嫌そうなエリカがいた。水分補給を忘れていたな。
「エリカ、その、ごめんね」
「別に。アタシがもう少し気を配ればよかっただけだし」
「君にも仕事があるだろう」
「まあね」
そこで一息ついた彼女が、眉根を下げてこちらを見る。
「倒れてるんじゃないかって、心配したんだから」
「ごめん」
いつもより重い頭を下げる。「エリカ、ごめんね」とスライムも俺の頭上で謝っていた。とてもかわいい。
エリカがスライムに鋭い視線を投げかけ、なにか言いたげに口を開く。家のチャイムが鳴った。外からは子供の鳴き声がする。
「なにかしら」
「俺も行くよ」
二人と一体で玄関を開ける。そこには、数時間前に関わった親子が立っていた。
「あっ、さっきの」
「津田さんのご家族だったんですか。先程はお世話になりまして……」
二人して頭を下げあっていると、妻が僕の足を柔らかく踏んできた。
「賢木さん、どうなさったんですか? ミカちゃん具合が悪そう。どうぞ、あがっていってください」
「すみません、お邪魔します」
有無を言わさぬ雰囲気がすごいな。エリカに先導され俺達はダイニングへと連れて行かれる。
予備の椅子を出すのは俺の役目だ。
「ミカちゃん、お水飲める?」
コップが瞬時に水で満ちていくのを見たミカちゃんが「のむ! おねえちゃん、ありがとう!」と言うが早いか美味しそうに飲み始めた。
「賢木さんもどうぞ。お疲れでしょう」
「ありがとうございます。……いただきます」
クーラーのついた涼しいダイニングには、キッチンからいい匂いが漂っている。
エリカが俺を見る。わかっているとも。
食事を人数分、皿によそって配膳する。
「皆でご飯にしましょう。妻の料理はどれも絶品ですよ」
「いえ、そこまでしていただくわけには――」
ぐぎゅごごごごご。地鳴りのように空腹感を訴えてくる腹の虫は賢木さんから聞こえた。
妻が賢木さんの食事を差し出す。
「どうぞ、遠慮なさらないで。困ったときは助け合いです。でもこれは今日だけですよ」
「ありがとうございます」
「アタシ、明日から政府主導の炊き出しに招集されているんです」
おっと、それは俺も初耳だな。
「近くの公民館でお水とか食べ物を配る予定なんですよ。賢木さんも、もちろんウチの旦那も利用できます。気兼ねなく来てくださいね」
「重ね重ね、ありがとうございます」
「魔法使いはこういうときこそ世の中に奉仕すべきですから。どうか気になさらないでくださいな」
魔法使いは世の中に奉仕すべし、か。いい言葉だ。
先の見通しが立ったおかげだろう、食事は終始穏やかな雰囲気で進んだ。たまには大人数で食卓を囲むのも悪くないな。スライムは空気を読んだのか、ときおり仔猫のように鳴くだけだった。
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