斬・雨月

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 1858(安政五)年に江戸幕府はアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダと五か国条約を締結し、それらの国々に対し横浜・神戸・長崎・新潟・函館の五港が開港された。日本と海外との貿易拠点となった開港地には外交官や貿易商人が暮らするための居留地が建設される。鎖国体制下においても出島にオランダ人が滞在し唐人屋敷では清国人(中国人)が生活していた長崎以外の土地の居住者にとって、それは大きな衝撃だったと思われる。今日の感覚だと宇宙人が隣に引っ越してきたようなものだろうか? いや、それほどでもないか。  まあ、最初の衝撃は大きかったろうが、そのうち人は慣れていく。そして新しい環境に適応するようになる。異国人も食事が無ければ生きていけないことを知ると、食べ物を売って儲けようと考える者が現れた。外国の貿易商が絹製品を求めていると知ると、近隣からの生糸を買い集めて売り込みを図るようになる。外国語の習得を志す若い侍の姿が開港地に目立ち始めた。以前は蘭語(オランダ語)の学習を目的に長崎へ留学していた学生たちが、今度は英語やフランス語その他を学ぶために外国人居留地の門を叩くようになったのである。  そういった勉強家の中に某藩の下級武士を名乗る若者がいた。語学と医学の勉強をしたいのだという、眉目秀麗で聡明な美男子だった。人間嫌いを自認する某国の外科医エフ氏は、その日本人武士の知性と真面目さを買って弟子入りを許した……とエフ氏当人が周囲に語っていたのだけれど、彼の同国人たちは別の見方をした。評価したのは見た目だ、というのである。  エフ氏には同性愛者の疑惑があった。それが事実なのか、日本にいる同国人の誰も分からない。ただし、その種の醜聞で本国にいられなくなったのは事実なので、その噂を皆が信じた。  大きなお世話としか言いようがないが、真相は如何に?  真だった。  曇り空を見て、傘を持ってないと青年武士は言った。エフ氏は思った――どうか雨よ降れ、そしたら私の傘に誘えるから。  エフ氏は二人の距離を少しでも縮めたいと願っていた。同国人たちが自分の性癖を知っており、そのために彼らが自分を軽侮していると彼自身、気付いている。  だから何だというのか? あいつらのことなど、知ったことか! 自分は、この日本人青年を愛している。二人で一つの傘に入れば、それだけ距離が近くなる! その積み重ねが、やがて愛情となっていく……とエフ氏は信じている。  信仰心の篤いエフ氏は愛の成就を願って、神への祈りを欠かさずにいた。  その願いが神に届く――愛が完成したのではなく雨が降っただけだが。  今日の講義が終わったので公館を去ろうとする青年武士をエフ氏が呼び止めた。 「雨が止むまで待ったらどうかね?」  勉学に励んでいる青年武士は外国語の簡単な日常会話ができるようになっていた。 「いえ、暗くなる前に失礼します」  そう言って外に出た青年武士の後を、傘を持ったエフ氏が小走りで追いかける。速足で歩く青年武士が居留地を出る寸前で追いつく。 「宿まで送るよ」 「そのようなご面倒を先生にお掛けすることはできません」 「なに、散歩のついでだから。もうじき日が暮れるから、すぐに帰るさ」  そう言われると、教え子の青年武士は断れない。二人は相合傘で居留地を出た。季節は六月、梅雨時である。エフ氏の故郷には、梅雨がない。そんな話をしながら歩く。嬉しくて声が弾むエフ氏の横で青年武士は黙り込んでいる。無理やり相合傘の入れてしまったので、気を悪くしたのかも……と恋する男エフ氏の心は乱れた。しかし沈黙の理由は別にあった。 「傘に入って歩くのは、生まれて初めてです」  青年武士は武士階級の人間だが、下士と呼ばれる低い身分の人間だった。彼の藩では傘の差せるのは上士といわれる高い身分の特権であり、その階層の武士以外の者が傘を差していたら、問答無用で殺されるのだという。 「ですから私は今まで傘を差して歩いたことがないのです。そのせいで緊張してしまっています。ふふ、こうして濡れずに歩けるのは素敵なことですね。これも先生のおかげです。本当に嬉しいです」  笑顔で語る青年武士の隣でエフ氏の心は悲しみに濡れた。理不尽な差別に負けず向学心に燃える、この好青年と二人で暮らしたい、と心から思う。それが無理だとしても今は二人、雨の中を相合傘で歩き続けたいと願った。  そんなこととは露知らず、青年武士は笑ったまま恐ろしいことを告げた。 「立ち止まらず、大声を出さず、頷いて下さい……私たちは刺客に尾行されています。隙を見て襲ってくるつもりでしょう。恐らく、攘夷を唱える者たちです」  思いもかけぬ青年武士の言葉を聞いてエフ氏は驚いた。だが、その危険性はかねてから外国人の間で噂になっていた。自分たちの命を狙う過激派が外国人居留地の周辺をうろついていると。  攘夷つまり外国人排斥を唱える過激派は、開国後の物価高騰と歩調を合わせるかの如く勢力を強めている。経済の混乱は外国人が悪い! というのである。半分は当たっているだろうが、残りの半分は江戸幕府のミスだった。日本に不利な不平等条約を天皇の許可なく締結した井伊大老が悪い! と考える者たちが桜田門外の変を起こすわけだが、それは本稿と無関係である。  青年武士は、さりげない仕草で刀の鯉口を緩めた。呟く。 「もうすぐ敵は仕掛けてきます。私が振り返ったら、貴方は路傍の紫陽花の陰に隠れて下さい」  言い終えると青年武士は振り返って駆け出した。エフ氏は傘を放り出して言われた通り路傍の紫陽花の陰に隠れた。  青年武士は敵中に突進した。虚を突いて襲い掛かるつもりだった攘夷派の刺客たちは、逆に虚を突かれる格好となった。剣戟が始まった。青年武士の剣技は見事だった。数名の襲撃者が立ちどころに斬り倒された。生き残った者の大半が「わっ!」と叫んで逃げ去った。青年武士の腕前を見れば当然の選択だった。  だが、それでも逃げない侍がいた。  その男は強敵だった。凄腕の青年武士と互角に渡り合っている。二人の果し合いは、殺し合いというより、息の合った剣舞のようだった。剣道を知らぬエフ氏も、巻き添えを恐れ民家に逃げ込んだ町人たちも、恐怖を忘れ驚嘆の眼で眺めた。  雨脚が次第に弱まってきた。日没まで時間はわずかだった。薄れてきた雲が茜色に染まる。しかし美しい梅雨の空を気にする者は、今そこにいない。美しい死闘に目を奪われているのだ。  やがて青年武士と攘夷派の刺客は背後にパッと飛び退いた。  刺客の武士が言った。 「腕前は衰えておらぬようだな」  青年武士が答える。 「おぬしも」  刺客の武士は、ぐすりと笑った。 「異国人の男に心を惑わされ、俺への愛情を捨てただけでなく、攘夷の契りまでも失ったお前に褒められても嬉しくはない。俺は今ここで、愛するお前を斬る。攘夷のために愛を斬り捨てるのだ」  青年武士は刀を上段に構えた。 「どちらが勝るか、ここで決めよう。おぬしの攘夷と俺の愛情……いざ勝負」  二人は一気に間合いを詰めた。互いの刀が交錯した瞬間、両者の動きが止まった。雨が止み、雲間から月が顔を覗かせた。この戦いの行く末を見届けるかのように。  雨月の下、立ったまま動かぬ二人の武士を異国人エフ氏や町人たちは声もなく、ただ見つめ続けている。
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