老紳士とてるてる坊主

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「今日は逆さか」  窓の外にふと目を向けた年配の紳士がつぶやいた。  雨は降っていない。ただただ忌まわしいほどの昼の熱気が、オゾン層を突き抜け、大気を特別急行列車のごとく通過し、青紫のアスファルトに突き刺さっている。そんな平和な昼下がりだった。  そこには赤い瓦の古ぼけた家が、木目の荒い壁ともに、すぐ手の届く場所に建っている。いわゆるお隣さんだ。お隣さんの窓枠は赤錆びて歪み、銅板のひさしはほとんどが緑青に覆われている。薄紫のカーテンからうっすらと覗く部屋の片隅にはいつもどこかしらを向いた、てるてる坊主がかかっていた。  あの家のだれが作っていて、いつつけているのか? そんなことを紳士は気にも留めない。そもそも彼は見たことがない。確かに、見ようと思って監視することはできた。紳士は先月定年を迎え、時間なら現役時代の10倍ほどある。令和の時代なのだ、”すまーとふぉん”に”すたんど”を付けて窓際に置けば、件の人物を特定することはできただろう。もしくは有り余る時間と痛む腰を使って、窓際に掲示ドラマのように張り込みして、一昼夜明かせば第一発見者になれたかもしれない。  ただ、年齢に反比例して、てるてる坊主に注げるほど情熱は残っていなかった。ただ、脳というハードディスクに入れておくにはちょうどいい無駄さを誇る日常の一コマとして、彼はいつも楽しみにしていた。 『ピー...ピー...ピー...』  そのまま彼は手元の本に目を落とす。ヒメアリのような文字がビッシリと、新任の自衛官の整列のように並んでいる。彼自身、タバコと同じぐらい本が好きであるが、かといって仕事ほど重要ではなかったため、読むに読めなかったという事情がある。 『ピー...ピー...ピー...』  482頁かけて紡ぎあげられた、一片の詩はついに峠へと差し掛かろうとしている。ナポレオンでいうところの大陸封鎖、ロシア皇帝でいうところのピョートル大帝、日本でいう関ケ原の合戦。それは西陣織で仕立て上げられた一枚の絹のように滑らかで、それでいてT800がショーンコナーを扱うように激しい 物語 『ピー...ピー...ピー』 の最終盤であった。手にはまるで大雨でも降ったかのように汗が溜まっている。そして顔からも... 「あれ?」  紳士はふと我に返り窓際のアルコール温度計に目をやった。 「32度...?」  木製のクーラーの方を見ると、赤いランプが息絶える前のセミのように点滅している。老紳士は玉のような汗を流しながら口を開け、呆然とその光の明滅を数分眺めた後、眩暈を起こしながら椅子から立ち上がり、この部屋のありとあらゆる外気との遮断を断ち切る。そして急いで上着を脱ぐと、やせこけた体があらわになる。箪笥から何年も前の扇子を取り出し、  その時、もう一度窓にかかった逆さ向きのてるてる坊主が目に入った。 「雨よ降れ」
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