雨に咲く花、恋に散る。

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 それから晴れの日が続いた。  いつ見てもそこに彼女の姿はなく、時折手を繋いだカップルを見かけるくらいだった。  気がつけば傘についた花びらもどこかへ消えていて、やっぱり夢だったのかと思い始めたころ、数日ぶりの雨が降った。  忙しない未来に向けての、短すぎる春休み。  とくに用事もなかったけど、僕はあの桜の下へと足を向けていた。  彼女はそこに立っていた。当たり前のように。  やっぱり、傘はさしていなかった。 「なんで傘ささないの?」  今日も紺色の障壁がリズムを刻む。一定の、早いテンポで。 「んー? こうしてたらまた君が、話しかけてくれるでしょ?」  別にさしていたって、晴れていたって、話しかける気はしていた。だけどそうは告げずに、体ごと木陰に潜り込み、二人と花の間にコウモリを掲げた。 「次は話しかけないよ」  濡れたければ勝手にすればいい。  彼女の左側、桜の木に背を向けて、彼女と同じ景色を見る。そこには白だか黒だか曖昧な街があった。 「そっか、残念」  せっかく五分ほどまで開いた花が、冷たい雨に打ち落とされていく。三寒四温の"四"の方は、まだ本気を出す気がないらしい。 「ねぇ、キスしてくれる気になった?」  右から放たれる声が、口が、視界をわずかに揺らす。その端っこに花びらが見える気がして、僕は左に顔を背けた。 「ならないよ」 「残念だなぁ」  彼女が前を向く気配がしたから、僕も正面に向き直って言う。 「見ず知らずの人と、キス、するなんておかしいでしょ」  初めて口にした言葉だけ、文章の列からはみ出すように飛び跳ねた。 「でも知ってるよ? 君のこと」 「え?」  驚いてうっかり振り向いた。  彼女の顔が、唇が近い。  慌てて定位置に顔を戻すと、ちぇっ、という声が聞こえた。 「いつも、私のこと見てたでしょ?」  目の前の通りを、自転車がサーッと駆けていく。  彼女の白が、あるいは赤が、僕の顔に移る気がして、左に半歩体を寄せた。 「それは、君が傘ささないから」  うん、と頷きながら、二人の距離が元に戻る音がする。 「だから、キスしない?」  接続詞が役割を果たしていない。そもそも二人の唇を繋ぐための枕詞なんて存在しない。 「しないよ」  こんな天気じゃなかったら、もっと離れるのに。  境界線を握る右手が、頼りなく震える。  そうなって初めて、傘をもう一本持ってこれば良かったと思った。  雨はなかなか止まなかった。  天気予報を確認しようとして、左のポケットに手を入れる。スマホを家に置いてきたことに気がついた。  それほど急いで出てきたことが恥ずかしくなって、八つ当たり気味に問いかける。 「そもそもここで何してるの?」  雨の日に限って。ただ立っているだけ。 「君がキスしてくれるのを待ってるんだよ」  そんなの僕じゃなくてもいいし、雨の日じゃなくていい。  呆れて何も返せないでいる僕に、彼女が続ける。 「なんていうか私、桜の木の妖精みたいなものなんだよね。多分」  人はあまりに理解を超えると、理性を手放すらしい。あんなに避けていた顔をまじまじと見つめる。俯いた横顔には、手で触れて確かめたくなる儚さがあった。 「もしくは地縛霊、みたいな? そんな感じ」  反射的に足元を見る。ワンピースから生えた脚は赤い靴を履いていて、地面に"立って"いるというよりは、"接して"いた。その曖昧さの源は、彼女の質量のなさかもしれないし、現実味の薄さかもしれない。濡れた地面のせいかもしれなかった。  自分でもよく分からないけど、と彼女は笑った。 「雨の日だけ。この場所だけ。私の存在範囲」  桃色が足元を飾っている。彼女の"存在範囲"を指し示すように。  嘘だか本当だか分からない話だったから、一笑に付すのはやめて、半信だか半疑だか分からない相槌を打った。  いつまでもこうしていたいと思ったけど、ずっとそうしているわけにもいかないから、僕はまた傘を差し出した。  別にいいよと断る彼女に、半ば強引に突きつける。  彼女の手が境界線に触れる。  柄を握る僕の右手と、シャフトに添える彼女の左手。間接的ではあるけれど、確かに触れた。感触があった。  それが彼女の存在証明にはならないかもしれないけれど、「いるじゃん」と誇らしげに告げた。 「うん、いるよ。私はここに」  彼女の顔がほころんで、新しい花びらが宙を舞った。  それが向かいのアスファルトに降り立つのを見届けると、僕は二人の接線から手を放し、濡れた世界へと戻っていった。  立ち止まって振り返ると、靄の向こうに彼女が見える。もしそれが、春の雨が映し出す幻影だとしたら、それは切ないけれど、綺麗だとも思った。  そう、彼女は綺麗だった。  人だか花だか曖昧な彼女だったから、僕は彼女を好きになった。
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