3人が本棚に入れています
本棚に追加
それから晴れの日が続いた。
いつ見てもそこに彼女の姿はなく、時折手を繋いだカップルを見かけるくらいだった。
気がつけば傘についた花びらもどこかへ消えていて、やっぱり夢だったのかと思い始めたころ、数日ぶりの雨が降った。
忙しない未来に向けての、短すぎる春休み。
とくに用事もなかったけど、僕はあの桜の下へと足を向けていた。
彼女はそこに立っていた。当たり前のように。
やっぱり、傘はさしていなかった。
「なんで傘ささないの?」
今日も紺色の障壁がリズムを刻む。一定の、早いテンポで。
「んー? こうしてたらまた君が、話しかけてくれるでしょ?」
別にさしていたって、晴れていたって、話しかける気はしていた。だけどそうは告げずに、体ごと木陰に潜り込み、二人と花の間にコウモリを掲げた。
「次は話しかけないよ」
濡れたければ勝手にすればいい。
彼女の左側、桜の木に背を向けて、彼女と同じ景色を見る。そこには白だか黒だか曖昧な街があった。
「そっか、残念」
せっかく五分ほどまで開いた花が、冷たい雨に打ち落とされていく。三寒四温の"四"の方は、まだ本気を出す気がないらしい。
「ねぇ、キスしてくれる気になった?」
右から放たれる声が、口が、視界をわずかに揺らす。その端っこに花びらが見える気がして、僕は左に顔を背けた。
「ならないよ」
「残念だなぁ」
彼女が前を向く気配がしたから、僕も正面に向き直って言う。
「見ず知らずの人と、キス、するなんておかしいでしょ」
初めて口にした言葉だけ、文章の列からはみ出すように飛び跳ねた。
「でも知ってるよ? 君のこと」
「え?」
驚いてうっかり振り向いた。
彼女の顔が、唇が近い。
慌てて定位置に顔を戻すと、ちぇっ、という声が聞こえた。
「いつも、私のこと見てたでしょ?」
目の前の通りを、自転車がサーッと駆けていく。
彼女の白が、あるいは赤が、僕の顔に移る気がして、左に半歩体を寄せた。
「それは、君が傘ささないから」
うん、と頷きながら、二人の距離が元に戻る音がする。
「だから、キスしない?」
接続詞が役割を果たしていない。そもそも二人の唇を繋ぐための枕詞なんて存在しない。
「しないよ」
こんな天気じゃなかったら、もっと離れるのに。
境界線を握る右手が、頼りなく震える。
そうなって初めて、傘をもう一本持ってこれば良かったと思った。
雨はなかなか止まなかった。
天気予報を確認しようとして、左のポケットに手を入れる。スマホを家に置いてきたことに気がついた。
それほど急いで出てきたことが恥ずかしくなって、八つ当たり気味に問いかける。
「そもそもここで何してるの?」
雨の日に限って。ただ立っているだけ。
「君がキスしてくれるのを待ってるんだよ」
そんなの僕じゃなくてもいいし、雨の日じゃなくていい。
呆れて何も返せないでいる僕に、彼女が続ける。
「なんていうか私、桜の木の妖精みたいなものなんだよね。多分」
人はあまりに理解を超えると、理性を手放すらしい。あんなに避けていた顔をまじまじと見つめる。俯いた横顔には、手で触れて確かめたくなる儚さがあった。
「もしくは地縛霊、みたいな? そんな感じ」
反射的に足元を見る。ワンピースから生えた脚は赤い靴を履いていて、地面に"立って"いるというよりは、"接して"いた。その曖昧さの源は、彼女の質量のなさかもしれないし、現実味の薄さかもしれない。濡れた地面のせいかもしれなかった。
自分でもよく分からないけど、と彼女は笑った。
「雨の日だけ。この場所だけ。私の存在範囲」
桃色が足元を飾っている。彼女の"存在範囲"を指し示すように。
嘘だか本当だか分からない話だったから、一笑に付すのはやめて、半信だか半疑だか分からない相槌を打った。
いつまでもこうしていたいと思ったけど、ずっとそうしているわけにもいかないから、僕はまた傘を差し出した。
別にいいよと断る彼女に、半ば強引に突きつける。
彼女の手が境界線に触れる。
柄を握る僕の右手と、シャフトに添える彼女の左手。間接的ではあるけれど、確かに触れた。感触があった。
それが彼女の存在証明にはならないかもしれないけれど、「いるじゃん」と誇らしげに告げた。
「うん、いるよ。私はここに」
彼女の顔がほころんで、新しい花びらが宙を舞った。
それが向かいのアスファルトに降り立つのを見届けると、僕は二人の接線から手を放し、濡れた世界へと戻っていった。
立ち止まって振り返ると、靄の向こうに彼女が見える。もしそれが、春の雨が映し出す幻影だとしたら、それは切ないけれど、綺麗だとも思った。
そう、彼女は綺麗だった。
人だか花だか曖昧な彼女だったから、僕は彼女を好きになった。
最初のコメントを投稿しよう!