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夜を越えてもなお、昨日の雨は続いていた。だけど午前中には止むらしい。朝起きてそれを確認すると、僕は急いで支度をした。
出かける時、予備のビニール傘を手に取ってみたけれど、彼女が持っているだろうと思って置いていった。
確信どおり、彼女はそこにいた。体に似合わない大きめの傘を被って。
「やあ」
彼女の挨拶に、立ち止まる。小雨とはいえ体温は奪っていくのに、僕は呆然と立ち尽くした。
この先のシナリオが浮かばない。
「傘はどうしたの?」
悪戯な顔をして彼女が訊く。
「君が、持ってるから」
奪うわけにはいかないから。
「そっか」
そう言って紺を見上げる。
「もう一本あればよかったね」
あるにはあった。でも、ここに一本あると思ったから。思ったから、どうするつもりだったんだろう。
「じゃあ、どうぞ」
彼女が少し照れながら手のひらで指したのは、昨日の僕の立ち位置だ。
自分の出がけの決断が、この未来を期待した選択だったと気がついて、ゾワリとした。
彼女の隣に立ちたかったんだ。
僕は耳の色を悟られないように気をつけながら、自慢の傘を最大限に利用した端っこに頭を入れた。
彼女の次の言葉は決まっている。
「つまり、キスしてくれるんだよね?」
相も変わらず飾りだけの接続詞。
「なんでそんなに、キス、したいの?」
まだ慣れない。まだ耳が赤い。まだ、彼女の薄桃色が眩しい。
「ここってさ、カップルがよく来るんだよね」
知ってる。僕も何度か見たことがある。
「穴場になってるみたい。人少ないから」
僕がこの道を利用するのもそれが理由だった。桜並木がきれいな大通りは他にあって、ここはそこから外れている。
止みかけの空の下は静かで、彼女の息遣いまで聞こえるようだった。
「ここでみんなキスしてくの。いいなぁ、って思って」
人通りは多くない。それでもまったくないわけではない。
僕たち二人もそう見られてるのかと思ったら、耳の色素が顔中を満たすのが分かった。
「羨ましいなー。恋って楽しいのかなー。キスってどんな感じなのかなーって。そう思ってたら、ここに立ってた」
耳から噴き出す蒸気に押し返されて、彼女の言葉はあまり入ってこなかった。
雨が続いたのが嬉しくて。止む前に急いで出て。隣に立ちたくて。傘を持ってこなくて。これが恋だ。はっきりと分かる。
見ていたくて。触れたくて。見ていられなくて。距離を取る。これが恋なんだ。
視界にうっすら日が差してきて、街に色が戻り始めていた。
「私、君が見てるの知ってたよ。私もずっと見てたから」
すぐ隣の彼女の声が、だんだん遠ざかるように薄くなっていく。
「声をかけてくれたの嬉しかったし、また会えて嬉しかった。雨が待ち遠しかった」
雨じゃなくたって会いに来るのに。
傘がなくたって、隣に立つのに。
「だから、キスしよ?」
「しないよ」
そう言って右を向くと、そこに彼女はいなかった。
少し遅れて、空から傘が降ってくる。雨はすっかり止んでいた。
ああ、女の子にずっと傘を持たせっ放しだったな、という後悔と、あの話本当だったんだ、という思いがごちゃまぜになって、落ちた大振りの抜け殻をしばらく眺めていた。
せっかく正しい接続詞で繋がれたのに。
「キス、するんじゃないのかよ」
そこにいるんだかいないんだか分からないけれど、大木を見上げてぼそりと呟いた。
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