雨に咲く花、恋に散る。

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 青が空を支配したまま、桜は満開になって、月が変わった。  せっかくの花見日和なのに雨は降らずに、美しいはずの光景はどこか白々しくて、足を止めるほどの価値はなかった。  彼女はいなかった。  毎日来たけど、時間をあけて何度も見に来たけれど、やっぱりいなかった。  妖精だか幽霊だか知らないけど、ルールだか呪縛だか知らないけれど。  彼女に会えない春なら、いらないと思った。  花が自ら舞うようになり、風に華やかさと寂しさが帯び始めた時、ようやく逆てる坊主の効果が出た。  午後から、彼女が降る。  僕はいつもの桜の前で、その時を待っていた。もちろん傘を一本だけ携えて。  最初のひと粒を肌に感じた時には、まだ視認できなかった。雨も彼女も。  視界に縦線が落ちた時、まばたきの隙間に彼女が現れた。 「やぁ、久しぶり」  数日ぶりに見た彼女は、いつもよりも赤く見えた。 「待っててくれたんだね」  うんだかまぁだか曖昧な返事をして、いつもの場所でいつもの傘を広げる。 「もう会えないかと思った」  彼女の顔や髪は守っているのに、その瞳は濡れ始めている。 「大げさだよ」  待っていればいつかは雨が降る。終わらない晴れはない。  今日の頭上はやけに静かで、時計がゆっくり回っているようにさえ感じた。桜がたくさん降り注いで、雨粒の方がおまけみたいな天気だった。 「でも多分、花が全部散ったら、もう会えないと思う。分かんないけど」  自分のことなんだから、はっきりしてくれよ。とてもそうは言えなかった。横に殴る風に揺らされて、細い枝がさわさわと音を立てている。 「来年の春、またこうしていられる自信もないし」  そっか、と言ってみたけど、納得したわけではなかった。納得できるわけがなかった。やっと会えたのに。同じ傘に入れたのに。  霧のような粒が、前から無遠慮に、二人の部屋に入ってくる。  避けるように右を向くと、彼女も左を向いていた。  その顔を濡らした水滴は、雨だか涙だかもう分からない。 「傘、意味ないね」  そう言って笑う彼女の頬に、大粒のしずくが流れる。  僕の大きな傘でも守れなかった。守れないなら傘なんていらない。二人の間に突き立てたそれを、パタリと閉じて左に収めた。  空いた右手を持ち上げる。 「手、つなごうよ」  キスをしようとは言えなかった。唇を触れ合わすには、僕たちはまだ、お互いの体温を知らなすぎる。  残された花びらは少ないのかもしれないけれど、着実に一歩一歩進みたかった。彼女との時間を大切にしたかった。  頷いた彼女が左手を差し出す。  そっと包んでみると、足の先まで痺れるような感覚があった。その儚さとは裏腹に、じんわりと温かい。  お互いに作法が分からないから、しばらく指の居場所が右往左往していた。指がこすれるたびに、着火剤でもついているかのように、手のひらが熱くなる。彼女の存在と僕の存在が、確かに燃え上がって、快感すら覚えた。 「くすぐったいね」  見上げた彼女が笑う。 「花びら、ついてるよ」  握った左手をそのまま上げて、器用に人差し指を突き出して示す。  視線を上げてみるけれど、届かない。左手で髪を撫でると、彼女の頬のような桃色が、逃げるようにひらりと舞った。 「君にもついてるよ」 「嘘」  なぜかすぐにバレた嘘は、二人の顔を揺らした。  彼女自身が花みたいなものだったから、花びらがつかないのは必然なのかもしれない。だとすれば僕に花びらがくっつくのだって、必然なのかもしれなかった。  ふいに右手が軽くなった。  目を凝らすと、彼女の色がわずかに薄くなっていた。  慌てて空を見上げる。霧雨はまだ僕たちを覆っている。 「どうして……?」  頭上の桜もまだ、薄化粧を保っている。 「恋を、知っちゃったからかな」  握る手に力が入る。消えたくない。放したくない。二つの想いが重なり合う。 「私、恋を知りたくて出てきたから。恋を知ったら、消えちゃうのかも」  そんな理不尽なことがあってたまるかよ。その言葉も飲み込んだ。細かいしずくが目に入らないように、ぐっとつぶって耐えていた。  彼女も黙って俯いていた。  雨だけがただ、遠慮がちに音を立てていた。  いつの間にか闇が深くなって、街灯に照らされた粒がきらきらと輝いた。  その輝きが、段々とまばらになっていく。  このまま止めば、彼女は消える。  桜が散り終わるまでに、また雨は降るだろうか。天気予報は曖昧だった。  だったら迷ってる暇はない。  僕は彼女を引き寄せて、強く抱きしめた。僕の色が、彼女に移るように。 「好きだよ」  耳元ではっきりと言葉にする。僕の声が、彼女の命を灯すように。 「私も」  そう言った彼女の体が透き通っていく。  咄嗟に離れて後ずさると、元の濃さまで戻っていた。  もう僕には、触れる勇気がなかった。  これ以上、"恋"を進めるのが怖かった。彼女が消えてしまうのが怖かった。 「ねぇ、キスして?」  震える声で彼女が言う。 「無理だよ」  僕にはもう。そんなことはできなかった。  キスなんてしたら、彼女の願いを叶えたら、彼女の命は終わる。それはもう、二人とも感覚的に理解していた。 「無理だよ」  僕はもう一度言った。この冷たい季節から逃げるように。  もしかしたら、もう一度雨が降るかもしれない。もしかしたら、花が散っても会えるかもしれない。もしかしたら、来年の春も会えるかもしれない。もしかしたら――。  呪文のように唱えている間に、雨は止んで、僕だけが残されていた。  舞い落ちた花びらが髪を無様に飾っても、笑ってくれる人はいなかった。
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