第5話

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第5話

 はるか遠い昔。  まだ天上(セレスティア)地上(テレストリア)がひとつだったころ。  セレスティアでは、竜と人間が共存し、穢れなき豊かな楽園を築いていた。  色とりどりの花々。鳥たちのさえずり。肥沃な土地は緑を育み、透明な水はあらゆる生命の源泉となった。  一方、テレストリアでは、至るところで智慧(ちえ)が枯渇し、人間同士の争いが絶えず続いていた。  乾いた風に舞い上がる土埃。汚染によって土はひび割れ、植物は灰色へと変わった。  見かねたセレスティアは、テレストリアへ<竜の子>を使わせ、民に智慧を授けることで争いを収束させた。  荒んだ大地は息を吹き返し、テレストリアはついに繁栄の時代を迎えた。  降り立った<竜の子>はそのままテレストリアへと残り、智慧を授けつつ大地に散らばった。  <竜の子>をテレストリアに残すことを憂えたセレスティアの長は、鋭い牙をむき出し、テレストリアの民にこう告げた。  ——<竜の子>を(さいな)めばセレスティアへ連れ戻す。<竜の子>を傷つければ必ずや裁きを。  ❈ ❈ ❈ 「事情はだいたいルテアから聞いた。心配してたぞ。……どうした?」  砂浜でうずくまるジーナのもとへ、マリスがやってきた。  必死に探し回ってくれたのだろうか。彼の額には汗が滲み、肩は大きく上下していた。 「……ずっと気になってた。帝国じゃない。連邦でもない。目に見えない何かに、オマエはずっと怯えてる」  顔を上げないジーナの隣に腰を落とす。肌や服に付着した砂を手で払ってやりながら、マリスは再度静かに問いかけた。 「何を隠してる?」 「!」  振り下ろされた問いかけに、ジーナの肩がびくっと跳ねた。  おさまっていた体の震えがぶり返す。握りしめたままの指は鬱血し、雪のように白い肌は赤く変色していた。  優しく、されど強引に、一本一本指がほどかれていく。怖くて今まで確認できなかったが、どうやら出血はしていないようだ。 「話してほしい」  澄んだ目が、光を集める。  力強いその眼差しに感化され、ジーナは小さくうなずいた。  もうこれ以上、彼に隠すことはできない。それ以上に、彼に隠したままでいたくなかった。  今までじゅうぶん、彼は待ってくれた。  そそけ立つ心を落ち着かせるように、マリスの手をぎゅっと握りしめる。それからひとつ深呼吸して、ジーナは話を始めた。  自分の生い立ちを。自分の存在が公にされていなかった、その理由を。 「……<竜の子>」  ジーナの口からまろび出たこの言葉に、マリスははっと息を呑んだ。驚いたように、何かに気づいたように、瞠目する。  マリスの内側、記憶の深い場所に、ずっとずっと沈んでいたもの。いにしえの時代に天上(セレスティア)から降り立ったという<竜の子>の話。  幼い頃、酒興に乗じた年寄り連中から、しつこいくらい聞かされた。  そんな。  まさか。  ——<竜の子>を(さいな)めばセレスティアへ連れ戻す。<竜の子>を傷つければ必ずや裁きを。 「単なる伝承……じゃないのか?」  よくある神話やおとぎ話。そう、聞き流していたのに。  マリスのこの問いかけに、ジーナはもう一度小さくうなずいた。 「<竜の子>は、その名のとおり、竜の子ども……竜の血を引く、人間のことです。竜の血は、時の流れとともに薄まっていますが、消えることは、ありません。わたしの体には、母から受け継いだ血が……竜の血が、流れています」  訥々と語るジーナの言葉に、マリスは自身が娶った妻の真実を知った。  ジーナは<竜の子>。竜に愛されし、竜の血を引く人間。 「言い伝えにある『<竜の子>を嘖めばセレスティアへ連れ戻す』っていうのは……?」 「他害によって<竜の子>が血を流せば、それが誘因となって、空から竜たちが迎えが来るのだと……そう、母から、教えられました」 「悪意がなくても?」 「……わかりません」  曖昧な点が多いが、ジーナの母親も体験したことがないゆえに、こう説明するほかなかったのだろう。おそらく、母親も、その親もまた、代々同じように口伝されてきたはずだ。  伝承を真とするならば、セレスティアは大空を漂う巨大な浮島。地上では採掘不可能な地下資源が数多く存在し、地上よりもはるかに優れた、高度な科学技術を有しているらしい。  マリスは得心した。ジーナにまつわるすべてがひとつに繋がった。  繋がって、虫唾が走った。 「父は……皇帝は……わたしが欲しかったわけじゃない……わたしの中に流れるこの血が……欲しかっただけなんです……」  子として、娘として、望まれたわけではない。それどころか、人であるということさえ、意識されていない。  ジーナは道具。皇帝の野望のために天と地とを結ぶ、ひとつの道具に過ぎないのだ。 「わたし、は、いったい、何者なんでしょうか……本当に、このまま生きていても、いいのでしょうか……っ」  悲痛な叫びが、ジーナの口から迸る。これまで何度も自問して、それでも答えを出せずに今日まで過ごしてきた。  生きたいと思った。この島で。この人の隣で。  けれども、それは本当に許されることなのだろうか。本当に、望んでもいいのだろうか。 「……ふっ、……う……っ」  顔を覆った両の手から、嗚咽がこぼれる。  そんなジーナを体ごと引き寄せると、マリスはその細い肩をきつく抱きしめた。傷つき、ぼろぼろになった心ごと包み込むように、きつく。  すすり泣く声が、打ち寄せる波音が、マリスの耳朶(じだ)に切なく響く。 「行くぞ、ジーナ」  と、何かを決意したように、突如マリスが立ち上がった。  しだいに青が去り、赤と黄金が混じる空の下。ジーナの体が、ふわりと宙に舞う。  いったいどこへ? そう尋ねる間もなく、ジーナはマリスに抱きかかえられた。  鬱蒼とした密林へと入り、樹木のあいだを進んでいく。折り重なった枝や蔓でジーナが怪我をしないよう注意しながら、マリスは道なき道を駆け抜けた。  ジーナの知らない、はじめての場所。けれど、不安はまったくなかった。彼の首に回した腕に、きゅっと力を込める。  いつしか、涙は止まっていた。 「もうすぐだ。ここから歩けるか?」 「あ、はい。大丈夫です」  どれくらい移動しただろうか。空の色は変わっていないので、それほど時間は要していないはずだ。  手を取り合い、ぬかるんだ森を抜ける。  風が変わる。音が澄み渡る。  目の前が、明るく拓けた。 「わ、あ……」  赤くきらめく水平線に、落日が溶け込む。  水面に伸びる光の尾。頭上にたなびく、ひと筋の紫雲。空と海の織りなす色彩があまりにも美しくて、ジーナは思わず感嘆の声を漏らした。 「その先、崖になってるから気をつけろよ」  繋いでいた手を放し、絶景に吸い寄せられるように前進したジーナに、マリスが忠告する。と、まるで指示を出された犬のように、ジーナはぴたりと止まった。  その愛らしい背中に、マリスはつい吹き出した。 「寒くないか?」 「はい。気持ちいいです」  磯の香りを運ぶ風。波の音を運ぶ風。鳥の声を、花の色を、運ぶ風。  いつのまにか、ジーナは島に吹くこの風が大好きになっていた。  風だけじゃない。自然も、人も、食べ物も。この島のすべてが、たまらなく愛おしい。  知らなかった。塔の外が、こんなにも広いなんて。塔の外に、こんなにも素晴らしい世界があるなんて。  全部……ぜんぶ、この人が教えてくれた。 「左手、出してくれるか」 「左手……ですか?」  マリスの唐突な申し出に首を傾ぐ。  彼の求める格好がわからない。とりあえず手のひらを上に向けるも、どうやら違っていたらしく、甲が上になるよう無言で訂正された。  不意に。金属特有のひやりとした感触が、ジーナの薬指をつっと滑っていく。 「……指、輪?」 「ああ。結婚相手ができたら渡すようにって。……お袋の遺言だ」  母親の形見であるそれを、マリスはジーナの指にはめた。マリスの母親もずいぶん華奢な人だったようで、指輪はジーナの細い指にぴたりとはまった。 「きれい……」  純金の環に、清楚な宝石がひとつ。静かに光を放つそれは、真昼の海を閉じ込めたような——さながらマリスの瞳のような、深い深い碧色をしていた。 「嬉しい……ありがとうございます。大切に、します」 「……前々から言おうと思ってたんだが」 「?」 「オマエ、いい加減言葉づかい直せ。年も近いし、夫婦なんだから、敬語はいらない」  きょとんとして見上げれば、神妙な面持ちのマリスと目が合った。「あと、敬称もやめろ。むずがゆい」と、追加注文までされる始末。  とくに意識して敬語を話しているつもりはなかった。ただ、生まれてこのかた敬語以外で話したことがなかったため、思い至らなかったというのが正直なところだ。  彼がそう言うのならそうしてみよう。  ジーナは、生まれてはじめて敬語をはずした。 「……え、と……ありが、とう?」 「……」  返事がかえってこない。そのうえ、ふいと顔を逸らされてしまった。  何かやらかしてしまったのかとうろたえるも、それは杞憂だとすぐにわかった。  夕映えに染まる彼の顔が、ほんのり火照っている。  なんだか胸がくすぐったい。さわさわして、あたたかくて、ぽかぽかして。  心が、満たされる。 「さっき言ってたな。『自分は何者なんだ』って」 「……っ」 「そんなこと考えなくていい。オマエはオマエだ。ほかの何者でもない」  どうして。 「オマエのことは、オレが絶対に守るから」  どうして、この人は。 「どこへも行かせない。誰にも渡さない。だから、何も心配するな」  こんなにも、欲しい言葉を与えてくれるのだろう。  止まっていた涙が、ふたたび溢れ出した。ぽろぽろと、はらはらと、頬を伝って草の上へと滴り落ちる。  ジーナはマリスの胸の中へ飛び込んだ。彼の大きな背中に、その細い腕を精いっぱい回す。 「……わたしも、あなたに受け取ってほしいものが、あるの」  濡れた目もとを手で拭い、呼吸を整えると、ジーナは改めてマリスに向き合った。不安と緊張で喉がつかえそうになるも、今ここで彼に伝えることを決めた。 「わたしの、本当の名前」 「本当の名前……?」 「うん。……竜は、たった一匹の番を、生涯愛し抜くんだって。だから、もしも愛するたったひとりに出会えたら、受け取ってもらいなさいって、母が」  すべての<竜の子>は、本当の名前——真名を持っている。  生まれてすぐ。親となった<竜の子>からの、はじめての贈り物。 「わたしの本当の名前は、レジーナ——」  誰にも教えてはいけないと、母からきつく言われていた名前。生涯、誰にも教えるつもりのなかった名前。 「レジーナ・カエリ」  夢から覚めるときいつも、白竜に呼ばれた名前。 「レジーナ・カエリ……、……ぐ、ぁ……っ!!」 「マリス……!!」  マリスがジーナの真名を復唱したとたん、彼の心臓から首にかけて、竜鱗の紋様が浮かび上がった。  輝きながら、蠢きながら、黄金色の竜鱗が伸びていく。  まるで、植物が芽吹き、花を咲かせるように。新たな生命が、躍動するように。  熱い。  灼けそうだ。 「大丈夫!?」  膝をついてうずくまったマリスに、ジーナが寄り添う。荒い呼吸を落ち着かせようと、彼の背中や腕を懸命にさすった。 「……大丈夫だ。もうなんともない」 「本当?」 「ああ」 「……」 「……後悔してるのか? オレに真名を渡したこと」 「ちが……っ、そうじゃない! そんなことない!」 「じゃあなんでそんな顔……ひょっとして、まだ何か隠してるのか?」 「あ……」 「ジーナ。もうこの際全部話せ。隠しごとはなしだ」  横に流そうとした視線を、正面から真っ直ぐからめ捕られた。  曇りなきマリスの双眸。まるで、ジーナの心を見透かすような。  彼には……夫には、やはり敵わない。 「……竜の番には、今世だけじゃなく、来世も番として連れ添う〝二世の契り〟っていう約束があるって、聞いたことがあって……」 「にせのちぎり……?」 「ど、どうしよう……これが本当に〝二世の契り〟になったりしたら……」 「ジーナ」 「え? ……——っ」  一瞬のことだった。  息が、時間が、止まった。  後頭部に手を当てられるやいなや、近づく顔と顔。  銀色の前髪が鼻先に触れる。甘い呼吸が重なる。  はじめて交わした口づけは、冷えた唇をそっとあたため合うような、そんな口づけだった。 「——望むところだ」  不敵な笑みを浮かべた夫に、つられてジーナも笑った。  この人と生きていこう。何があっても、けっして揺るがない自分になろう。  この日、この場所で。  ジーナは、かたく心に誓った。
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