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第7話
黒い雲を縫うように走る濃紫の稲妻。逆巻く黒い波は、怒りに満ちた巨獣のようだった。
さながら世界の終焉。まさに〝災い〟。
停泊中の戦艦は揺れに揺れ、兵士たちは次々と海へ投げ出された。進むことも逃げることもできず、船に翻弄されるがまま。とても戦えるような状態ではない。
とはいえ、皇帝の意に反して口火を切ったあの時点で、統率性などすでに瓦解していたのだろう。帝国艦隊は、壊乱した。
傷ついたジーナのもとへ白竜が降り立つ。翼で嵐を切りながら、ゆっくりと近づいてくる。
目が合った。焔のように真っ赤な、自分と同じ色をした目。その瞬間、ジーナの奥底から、得も言われぬ高揚感が湧き上がってきた。
長くしなやかな首が降りてくる。大きな頭が、口が、迫ってくる。
『少し我慢しろ』
「……——っ!」
白竜がジーナの腕にそっと口を当てるやいなや、灼けるような痛みが傷口に走った。思わず顔を伏せたジーナを、マリスがしっかりと支える。
どれくらいのあいだ耐えていただろうか。気づけば腕を打つ雨の感触だけが残り、傷は完全に消えていた。
『まだ痛むか?』
「い、いえ……」
『そうか。しばらくじっとしていろ』
「あ、りがとうございます……、……あのっ」
離れていく白竜を呼び止める。
ジーナの視線の先には、半死半生で横たわるテオの姿。セオが必死に止血を施すも、ぬかるんだ地面にみるみる血溜まりが広がっていく。
いつ絶命してもおかしくはない。それでも、テオは懸命に命の火を灯し続けていた。
死なせたくない。死なせてはいけない。
ジーナは、天を仰いで声を張り上げた。
「彼を助けてください! お願いします……っ!」
『……其方の望みとあらば』
ジーナの悲痛な叫びに、白竜は応えてくれた。長い首をテオのほうへと伸ばし、ジーナにしたのと同様、患部に直接口を当てる。
柔らかな光の粒が集まり、塊となって皮膚の裂けた部分を覆っていく。直後、まるで時間が巻き戻るかのように、勢いよく細胞が再生を始めた。
白竜が首を持ち上げる。
と、それまで指一本動かすことのできなかったテオが、おもむろに起き上がった。
「テオっ!!」
「セオ……。悪い。心配かけた」
弟のかすれた声が、しかと兄の耳朶を打つ。兄は涙を滲ませ、無言で弟を抱きしめた。
ジーナの傷も癒えた。テオの命も繋がった。
依然として空も海も黒いままだったが、悲鳴まじりの喧騒は収束した。あたりに渡るのは、吹きすさぶ雨と風の音だけだ。
『……ようやく見つけたぞ』
白竜が、孤立無援となった皇帝へと向き直る。
ぬらりと光る牙。鼻の頭に皺を寄せ、赤い眼を炯々とみなぎらせながら睥睨する。
岩をも圧するがごとき威迫的なその声は、深い宿怨と確かな殺意を孕んでいた。
『真名を受け取ることなく<竜の子>を犯し、胤を宿した愚か者……』
「え……?」
刹那。
蝋燭の火がふっと消えるように、目の前が暗転した。
耳鳴りがする。全身の血が、心臓が、凍りつく。マリスが支えてくれていなければ、その場に頽れていただろう。
このときはじめて、ジーナは、皇帝が母に犯したおぞましい大罪を知った。
「ぐ、あっ、ぁ……」
白竜は、そのあぎとを大きく開けると、皇帝の体に猛然と食い込ませた。めりめりと、みしみしと、骨の軋む音がする。
『貴様は<竜の子>を傷つけ、尊厳をも冒涜した。……その血を以て贖えっ!!』
「……や、やめ……っ、あっ、あぁあ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!!!!!!」
喉が裂けんばかりの、すさまじい絶叫。骨の砕ける嫌な音がした。
白竜が首をしならせる。歪んだ肉塊が、血を振り撒きながら宙を舞う。
ざぷ・ん。
黒い波が、肉塊を巻き込み攫っていく。
まるで、咥えた餌を、巣へと引きずり込むように。
『無益な殺生は好まぬが……これ以上<竜の子>を傷つけるならば容赦はせん。今すぐ失せろ……!!』
大口を開け、血の滴る牙を見せつけて威嚇する。その姿に怖じ気づいた残兵たちは、倒けつ転びつ逃げ帰っていった。
最後のひとりが陸地から足を離したとたん、それまでの嵐が嘘のように海は凪ぎ、雲間から光が差し込んだ。
彼らはどこに帰るのだろうか。そもそも帰る場所はあるのだろうか。
今はまだ知るよしもないが、瀕死の戦艦は、その舳先をもと来た方角へと向けていた。
沈む太陽に白波が躍る。
甘橙色の、いつもの島の夕暮れ。
『愛しき<竜の子>。ようやく会えた』
降り注ぐ優しい声にジーナが仰ぎ見れば、再度白竜の顔が迫っていた。
赤い目に、赤い目と夕空が映り込む。……それだけではなかった。
白竜のうしろ。はるか上空を旋回する、二体の巨大な影。舞い遊ぶように、誘うように、くるくると円を描いている。
『……其方は嘖まれ傷つけられた。セレスティアへ帰ろう』
彼らが迎えに来る——母が言っていたその真意を、ジーナはようやく理解した。
何度も夢に見た空島。きっと、あれがセレスティアなのだろう。
とても美しい場所だった。楽園と呼ぶに相応しいほど豊かで、胸が空くほど清らかで。
セレスティアに行けば、自分と同じ<竜の子>がたくさんいるかもしれない。傷つけられることに、血を流すことに、怯えなくてもいいのかもしれない。
けれど。かりに、そうだとしても。
「助けていただいたことは感謝しています。ですが、あなたたちと一緒には行けません。……わたしの居場所は、この島だから」
隣に立つマリスの手をひしと握りしめ、ジーナは真っ直ぐこう告げた。
美しさでこの島が劣るとは思わない。
彼のいない世界なんて、考えられない。
『……お前がこの子の番か』
マリスの肌に刻まれた紋様、その事実を確かめるように、白竜がじっと見つめる。
『番を引き離すような無粋な真似はしたくない。……だが、この子を嘖めば容赦はせんぞ』
白い鱗が冷たく輝き、唸り声が地表を揺るがす。
鼻と鼻がぶつかりそうな距離。だが、どれだけ白竜にすごまれようと、マリスは眉ひとつ動かさなかった。
「この先ずっと……たとえこの身が朽ち果てたとしても、ジーナと連れ添うことを誓う」
真名を受け取ったあの日に約束した。どこへも行かせないと。誰にも渡さないと。
これを聞いた白竜は、満足そうに口端を上げると、ふんっと鼻を鳴らして翼を広げた。
『〝二世の契り〟か。いいだろう。しかと聞いたぞ、聖なる島の戦士。……その言葉、ゆめゆめ忘れるな』
聖なる島——いにしえの時代、<竜の子>が地上に降り立った、最初の場所。
地上を一瞥し、微笑を湛えると、白竜は飛び立った。
はるか上空。二匹の竜を従え、天穹の極みへと向かって。
「……ジーナ」
「え? あっ……」
名前を呼ばれたと同時に、マリスの指が目尻に触れた。
泣いていることに気づかなかった。泣いていることを自覚してしまった。一度にいろんなことが起こりすぎたせいだろう。意識すればするほど、ジーナの両の眼から、涙がとめどなく溢れてくる。
母のこと。皇帝のこと。セレスティアのこと。
考えることはたくさんあるけれど、ジーナが今一番心を痛めているのは、やはりこの島のことだった。
至るところに残る鉄と血の痕。拡張計画の対象となるはずの港にも、甚大な被害が及んでしまった。
「ごめんなさい。わたしのせいで……」
「お前は悪くない。……それに、ほら」
足もとに落ちそうなジーナの視線をマリスが拾い上げ、首をめぐらせるよう促す。すると、島民たちが続々と集まってくるのが見えた。
「みんな生きてる」
セオが笑っている。テオも笑っている。ふたりに謝意を伝えようと口を開きかけたところで、駆けつけたルテアに思いきり抱きしめられた。
水平線が夜に溶け込む。一番星が強くまたたく。
花嫁の涙を泡沫に変えて。
碧い海が、眠りについた。
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