浩一と京子1

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浩一と京子1

 薄紫色の煙がダウンライトに照らし出されては消えていく。  普段この部屋で煙草を吸う事はないが、彼女の前では特別だった。浩一が煙草をもみ消して立ち上がった時、彼女は二本目のメンソールに火を点けた。 「医者なのに煙草吸うんだね」  それが初めて診察に来た時の彼女の言葉だった。どうやら駅前の喫煙コーナーで煙草を吸っていたところを目撃されたらしい。今時、医者が煙草を吸っていたら犯罪者扱いである。浩一が医学生の頃はゼミの教室にも吸い殻だらけの灰皿が置いてあったし、教授陣にも喫煙者が多かった。時代は変わるものである。  窓を開けると初秋特有の乾いた風が彼女の髪を撫でていく。目の前に垂れたストレートヘアーをかき上げる仕草が妙に色っぽい。  窓を閉め、再び浩一は彼女の前に座った。今日最後の患者である。一人しかいない看護師兼受付の佐野さんは三十分前に定時で帰らせたが、明日が休診日でなかったら、朝から『煙草臭い』とたっぷり五分は小言を言われるだろう。 患者の名は三枝京子。二十一歳、西東京薬科大学の四年生。半年程前から月に一、二回程のペースで浩一のクリニックを訪れている。  心療内科クリニックを開業している浩一は、月に二回、薬学科の非常勤講師として同大学に出向いている。  講義の中で特に自分の仕事を宣伝したつもりはなかったが、彼女が浩一の講義を聞いて来院したのは間違いないだろう。  三枝京子の病名は―あえて病名をつけるとしたら不安神経症か―彼女が大学一年の時、父親が家を出て行った。原因は父親の不倫。不倫発覚後、父親は家も仕事も、そして妻も娘も、全てを捨てて出て行った。その一カ月後、母親が自殺した。母親の葬儀にも父親は姿を見せることはなかったという。  幸いなことに自宅マンションはローンのない持ち家であり、大手製薬会社の部長であった京子の父親には少なくない額の貯蓄もあった。その半分程は父親が持ち出していったが、京子が大学を卒業するまでに必要十分な金は残されていた。娘に対してのせめてもの罪滅ぼしか―
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