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2話
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「おーい、おーい」
そこにこちらに呼びかける声がした。ソフィは顔を上げて足を止める。積もった雪の向こうにこちらを指さしている十五人ばかりの男たちの姿があった。村の自衛団の青年たちだ。ソフィは手を振った。
「お嬢さまがいったいなにをしているんですか」
彼らは大きく叫んで訊ねる。当然だ。伯爵令嬢がソリを引いているのだから。皆が顔を見合わせているので、ソフィは苦笑を返すしかなかった。すると、青年の中の一人――金髪の純朴そうな二十歳くらいの人が、ずぼずぼと雪に埋まりながらこちらに来た。
「いったい、どうしてそんなことをされているのですか?」
小作の息子のマルクだ。大公率いる中央軍に加わりたいと思っている勇敢な人だ。しかし、身分が低いからと中央軍の歩兵のそのまた下である、歩兵補にしか一生なれないことを知ると、こうして自衛団を村で結成し、他の村と連携しているらしい。ソフィは白い息を吐きながら答える。
「北ルード軍が近づいていると伝えられたから、都から連れて来た使用人たちがみんな逃げてしまったのよ。だから薪を取りに行こうと思って――」
「手伝います、お嬢さま」
「助かる。ありがとう、マルク」
青年はソフィに名前を覚えてもらっていたことを知ると、顔を赤らめ、薪を屋敷の裏口まで運んでくれた。スープでもごちそうするのが礼というものだが、中にはあの将校がいる。どうしようかとソフィが迷っていると、マルクが裏口に血痕があるのを見つけて怪訝な顔をする。
「これは……この血はどうしたんですか?」
ソフィは思わぬことを指摘されて震え上がりそうになった。それでも努めて冷静になろうとした。
「わたしの血よ。薪を運んでいてさっき転んでしまったの」
「いったい、どこを?」
マルクは心配そうに訊ねたけれど、やはりどこか疑った様子だ。目の色が不審で暗くなったのがわかった。
「膝小僧よ。ドアの前が凍っていたのね……すべってしまって」
まさかレディーの膝を見せてみろとはマルクも言えない。
「薪を運ぶなど村の者にやらせればいいのです。お嬢さまのためなら皆、喜んでやりますよ」
憤慨するマルクにソフィは首をすくめてみせた。
「こんなときだもの、わたしもなにか手伝いたいと思ったの」
マルクは、中央軍の軍服に似せて作った帽子を被り直しながら、真面目な顔をする。
「お嬢さまがそんなことをする必要はありませんよ。オレたちがあとで運んでおきます」
「そんな、悪いわ」
「なんてことありません。家は伯爵家の小作ですし、お嬢さまが改善を訴えてくれたおかげで家の屋根の修理ができて今年は寒さに凍えずにすんでいるんです。手伝うのは当然です」
「ありがとう、マルク。心強いわ」
まさか反乱軍の将校がいるから迷惑だとは言えない。感謝の気持ちを伝え、どうやって断ろうかと考えた時、犬の鳴き声が遠くにした。彼はあたりを見回し険しい目になる。なにかを捜しているようだ。
「どうかしたの?」
ソフィは恐る恐る訊ねる。
「それが……反乱軍の兵士を見ませんでしたか?」
ソフィはドキリとした。
「反乱軍?」
「こちらに逃げて行くのを見た者がいます。オレたちはそれを今、追っているところなんです」
ソフィは驚いたふりをする。両手で口元を覆い、できるだけ大きな目でマルクを見上げる。
「兵士はたくさんいるの? 銃は持っている? 逃げた方がいい?」
矢継ぎ早にソフィが訊ねると、マルクは苦笑する。
「いえ、怪我を負った兵士が一人、雪で迷い込んだようです。心配はありません。もうすぐ、中央軍が隣町からやってくることになっているので治安は改善するでしょう」
まずいとソフィは思う。傍若無人な中央軍兵たちは悪評高い。大公が突然、軍人たちに強力な権力を与えたために、彼らは貴族の屋敷だからと遠慮などしない。突然、家捜しして物を盗んでいくこともある。「反乱軍」である北ルード軍を匿っていることが知られたら、ソフィはまだしも、ジャンやエンゾの命はないだろう。
「お嬢さま、ご心配なく。オレたちが上手くやりますよ」
マルクは、ソフィの懸念を悟ったようだ。若い女たちは近衛兵に関わらないようにしている。国の軍とはいえ、彼らは血の気が多く、無礼で傲慢だった。治安が改善するのも、恐怖による統制のせいで、彼らが犯す罪は罪ではないことに皆が震え上がるからだ。
「できるかぎり、屋敷に目を向けないようにしておきます。お嬢さまも屋敷から出ないでいてください」
ソフィは頷いた。
「まぁ、そう言ってもこの雪です。軍の到着が遅れるでしょうし、反乱軍もしばらく戦いを休むでしょう。一息つけます」
「ええ……そうだといいけれど……」
でもいつかは、どちらかがこの村にやってくる。反乱軍は国の北を守っていた未知の兵であるし、中央軍の方は厄介な仲間だった。正直、どちらにも来て欲しくない。
「あの……その、お嬢さまがたちは、避難はされないのですか」
マルクが遠慮がちに言い、ソフィの黒髪ブルネットの髪を見た。
「都に行くつもりよ。お父さまが心配しているから……でもわたしは村を離れたくなくて――」
マルクが気の毒そうに頷く。仕方がない。隣のサーナ国との国境に近い、この地域では黒髪と紫の瞳は珍しいものではないが、アリニアの都、オーランに帰れば、ほとんど黒髪は見られず好奇の目にさらされる。冬なら帽子で隠せても、少し暖かくなれば、皆がソフィを不仲な隣人、サーナ国の人だと思うだろう。でもそれも間違いではない。彼女の母はサーナの人だから。
「それでも逃げた方がいいですよ、お嬢さま」
「ええ……でも、どこへ?」
「南に逃げるか西に逃げるかです。バランガなんてどうですか?」
「パランガ……お父さまの別宅があるわ」
アリニアの西部の田舎だ。夏の避暑地として貴族たちに人気の場所である。
「とにかく、ここは危ないです。北ルード軍のアポリネール将軍は冷酷な人物と知られています。なにがあるか分かりません。早くお逃げください」
「ありがとう、マルク。あなたも気をつけて。雪が止んだらすぐに出発するわ」
彼は少し帽子のつばに触れると、彼を待っている自衛団たちの方へと行ってしまった。ソフィはその背を見送りながら、やはり、どこに逃げたらいいのか分からないと思った。パランガが本当に最善の場所なのかも疑問だ。
「ソフィさま」
裏口から入ると、エンゾが心配そうな顔でソフィを迎えた。窓から二人が話す様子を見ていただろう。
「マルクはなんの用でしたか」
「薪を運んでくれたの。また後で運んでくれると言っていたから、気をつけて」
「自衛団などと親しく話してはなりません」
身分の差の話なのか、疑心暗鬼にかられているのかよく分からないが、とにかくエンゾも厄介な客のせいで警戒している。
「……どう? あの人の様子は? お医者さまを呼んだ方がいい?」
「お医者さまなど、とんでもない! 人に知られてしまいますし、この雪ではいくら呼んでも来てくれません」
それもそうだと、歪んだガラスの向こうを見た。もう真っ白で、白樺の林さえも見えない。今日、明日は来客はないだろう。
「エンゾ、温かいスープを作ってもらえると嬉しいわ」
「もちろんですよ、お嬢さま」
エンゾは、樽に入っている雪を鍋に入れる。井戸まで行けないので雪を溶かして飲食に使っているのだ。そして水の中にレンズ豆を入れて冷やかす。エンゾは、もう老齢で足も悪いながらも現役で、手際も若い者に負けない。都のシェフのような雅なものは作れないが、郷土料理ならだれよりも上手く作る。
ソフィはタマネギの皮をむくのを手伝った。お嬢さまと言っても田舎暮らしだ。上流階級の社交があるわけでもなく、時に馬に乗り、料理を楽しむのが趣味である。
「それで? あの人、怪我をしていたみたいだけど?」
「怪我は、手当をしました。切り傷ですが、深くないようです」
「そう……よかった」
「心配はいりません。弾がかすっただけでした。軍服は目立ちますから着替えもすませました。いつまでも濡れた服を着せているわけにはいきませんし」
エンゾは優しく微笑んで目尻に皺を作る。ソフィは礼を言うと、男のために水差しとコップを持って、一階の書斎に急ぐ。気を失っている男を二階まで運べず、結局そこが病室となった。
「失礼します」
部屋に入るとカーテンは閉じられ、真っ暗な中に暖炉の炎ばかりがパチパチと音を立て、ぼんやりと明るかった。男は、暖炉の前に移動された猫足の長椅子に横たわっており、ピクリとも動かない。兄の服を着ているせいか、まったく知らない人ではないような気がした。
「大丈夫?」
ジャンが包帯をした男の足に靴下を穿かせているところだった。ソフィが声をかけると彼は頷いた。
「熱はありますが、丈夫そうな男です。心配はありません」
ソフィは男の寝ている長椅子の横に立つ。そっと手の甲で熱を見ると、たしかに熱い。
「少し見ていてください」
ジャンは男の軍服を丸めて麻袋に入れると、その場を離れていく。ソフィは男の冷たそうな手をそっとさすった。顔立ちは腫れ上がってよく分からないけれど、目鼻立ちのはっきりとした人のようだ。あの場所にどれくらいいたのだろうか。
「うううう」
男が身じろぎをした。大きな長椅子だと思っていたが、男が寝るにはやや小さい。窮屈そうにし、肩を左右に揺らしたかと思うと、はっと目を開いた。そして辺りを見回す。虚ろな瞳がだんだんとはっきりしたものになると、ソフィをとらえた。
「……ここは……」
「気がついた?」
ソフィは男が安心できるように微笑む。
「君は……」
彼の瞳は美しい緑色で、寒さで紫になった唇の色を際立たせ、とても美しいとソフィは思った。
「わたしはソフィ。あなたは誰?」
「俺は――」
ぼんやりとしていた彼ははっと身を起こした。
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