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4  アランが、ソフィが住んでいた村の前まで行くと、男も女も老人も若者もそれぞれ鍬や干し草を持ち上げるのに使うフォークなどを持ち、この先を通すまいと軍を足止めさせていた。アランはソフィを案じ、彼女を背に隠そうとした。 「大丈夫よ、アラン」  アランは彼女を止めたけれど、ソフィは馬の腹を蹴ってそのまま最前列まで進んでいってしまう。銃を構えた兵士をアランは目配せして止める。どうやら、村人を扇動しているのは、若者たちで作る自衛団のようだ。中央軍の赤い軍服に似せた服を着て、手には旧式の銃がある。 「マルクなの?」  ソフィが木で作られたバリケードの向こうの人に声をかけた。軍帽にしては大きすぎる帽子を被った青年が、怪訝な顔をしてこちらを見る。 「わたしよ、ソフィよ!」  彼は柵に近づく。  そしてソフィが帽子を脱いで美しいブルネットの髪を晒すと、彼は叫んだ。 「ソフィさま!」  彼は撃たれる心配があるにも関わらず、柵を跳び越えてソフィの馬の方に走っていく。途中、泥にはまって派手に転んだが、すぐに立ち上がり、走り寄る。 「よろしいので?」  デロが小声でアランに問うた。明らかに、青年はソフィに身分違いの恋をしているようだ。 「心配するな。彼女はもう俺の妻だ」  アランは余裕を見せた。彼女が自分を愛しているのを知っているからだ。馬上で少し距離をとって見守ることにした。ソフィが男の名を呼んだ。 「マルク!」 「ソフィさま!」  ソフィが馬から下りると、二人は抱き合うのかとアランは思った。しかし、マルクは急に正気に戻ってソフィに伸ばしかけた手を引っ込め、足に根っこが生えたように、足をぴたりと止める。そんなマルクにソフィは苦笑して肩を抱きしめた。 「無事でなによりだわ」 「オーランで処刑されたと聞きました……」 「生きているわ。生きている。こうして生きているわ」 「でも――一体……」  マルクの怨みのこもった瞳がアランに向けられる。彼女が反乱軍に囚われていると思っているのだろう。数万の兵を持つアランを睨むなど、なかなか、気骨のある青年のようだと彼は思った。 「話せば長くなるわ。叔父さまがわたしを大公にしたのは知っている?」 「は、はい。新聞で読みました」 「わたし、アラン――北ルード軍のアポリネール将軍と結婚したわ」  マルクが瞠目する。 「アリニアはもうなにも心配いらないの」 「ソフィさま……それは……」  明らかに彼はソフィが自分を犠牲にしたのではとマルクは心配しているようだ。ソフィは首を振った。 「アランのことを愛しているの。でも――今はそのことを話している場合ではない。従兄のダニエルが自分こそ大公だと言って、ワーシャル軍を連れてアリニアに向かっているのよ」 「そんなの! 自分勝手じゃないか!」  ダニエルの悪名はこんな辺鄙な村までも前から届いているようだ。彼が言うようにまだ新聞が発行されているのなら、ダニエルが国の大半の金を持って亡命したことも知っているはずだ。腹を立てるのも当然だ。 「わたし、アランとワーシャル軍をアリニアから追い出すつもり」 「ヤツを信じるのですか」 「ええ。信じるわ。あなたはワーシャルを信じるの?」  青年は俯いた。簡単に答えられる質問ではない。しかし、マルクなる青年の答えなどよりもソフィの「信じるわ」というはっきりした口調の方がアランは気に入った。 「オレは……アリニアとともにあります。アリニアを信じているんです」  ソフィがマルクの腕を掴む。 「わたしも同じよ」 「オレは……ソフィさまがアリニア大公なら……アリニアはソフィさまだから……ソフィさまがつく方につきます」 「マルク……ありがとう」  明らかに誰の目にも正義や国より、青年はソフィを優先したので、アランはデロに苦笑を向けた。デロも馬上で肩をすくめてみせる。  ――まぁ、いい。男なんてそんなものだ。生きるも死ぬも女次第だ。  マルクはバリケードの方へと戻って来て、村人に「ソフィさまだ。ソフィさまは生きていた」と歓喜の声を上げた。村人は顔を見合わせざわめいたが、自衛団の隊長と思われるマルクが一人、柵を片付け始めたので、そもそも戦うなど思ってはいなかったのか、手伝い出す。 「ソフィさまだ」  薄汚れた農民の子供数人がソフィに言った。 「帰ってきたわ」  ソフィは手を振る。堂々としたその姿に、民は天から聖母が現れたように感じたのだろう。彼女に一斉に手を振った。農婦は急いで家に戻ってきたかと思うと、本人たちには貴重なパンをソフィに握らせようと追いかけてくる。 「ありがとう。大切に食べるわ」  ソフィがアランに微笑んだ。本当に嬉しそうな彼女にアランも嬉しくなった。唾でも吐かれるかとずっと彼女が案じているのを知っていたからなおさらだ。黒髪と紫の瞳の異国人と罵られてきたソフィだが、やはり彼女はこの国の君主であり、アリニア人なのだろう。 「よかったな」 「ええ……本当に」  ソフィは目尻に光ものをすぐに指で拭って何ごともなかったように背筋を伸ばして前を向く。この分では民はソフィを歓迎するだろう。彼女は若く、希望があった。最後まで民を捨てずに絞首台にまで上ったのを新聞も書いている。  問題は、貴族たちだ。不遇だったマクシム・マリードのようなソフィの実父の側近だった貴族はいいが、フィリップに近かった者たちは、特権を奪われることを恐れてこちらの味方はしないだろう。 「どうしたの?」  ソフィが黙っているアランに声をかけた。 「いや……貴族たちがどう出るか、考えていたんだ」 「マリア大叔母に説得を頼んでみたらどうかしら」 「マリア公女?」  良い噂は聞かない頑固なアリニア公女だ。ソフィのこともサーナ人と言って嫌っていたと諜報部のデロから全部聞いている。 「わたしも大叔母さまを誤解していたわ。わたし嫌いは人一倍だけど、アリニアを愛する気持ちはそれ以上よ」 「たしか、マリア公女はこの先の村にいると思ったが――」  ソフィと会わせてまたつまらないことを言って、彼女を悲しませたらと思うとアランは乗り気にはなれなかったし、貴族の別宅に軟禁されているマリアの健康状態の報告は受けていない。酷い状態だと、ソフィはショックを受けるだろう。 「アラン?」 「高齢で君と牢獄にも入っていた。体調が悪くても恨まないでくれ」 「あなたをわたしが恨んだことなんてある? 心から愛している人を恨んだりはしないわ」  ソフィは微笑をする。嘘がまったくない目だった。アランは安心した。彼は部下を先にやってマリアに知らせるように命じた。着替える間くらいなければ、きっとソフィを驚かせてしまうだろうから。しかし、アランの心配はやはり現実のものとなる。 「反乱軍の犬がなんの用です」  寝衣のまま、彼女は髪も梳かさずにソフィとアランを迎えた。もちろん化粧などしていない。青白い顔なのは体調が思わしくないからだろう。だが、舌は健在とみえる。ソフィに侮辱の言葉を吐くのは驚くほどなめらかだ。 「大叔母さま、ダニエルがワーシャルの軍を借りてアリニアに進軍しています」 「あなたとなにが違うというのですか。謀反人を夫に連れて帰ってくれば、えらいとでも思っているのですか。それにダニエルを逃がしたのはあなたではありませんか」  ソフィは酷い言葉など聞こえないかのように続ける。 「それで大叔母さまはどうされるのですか。ワーシャルに傀儡されるダニエルを応援するのか、将軍の肩を持つわたしと組むか。二つに一つしかありません」 「この年寄りになにを選べと? 全ては神の手にあることではありませんか」  ソフィは手を老婆に差し出した。 「わたしがアリニア君主です。牢で言われたではありませんか。大叔母さまはわたしがアリニアの大公だから助けると。今もわたしは大公です。アリニアの栄光はわたしとともにあるのではありませんか」 「なにが栄光ですか」  ソフィは皺だらけの老婆の手を取ると、彼女が座る椅子の前にしゃがんだ。 「大叔母さま、力をお貸しください。ダニエルがどうしようもない人間なのはご存じではありませんか。一度、逃げた人間は、二度でも、三度でも逃げます。アリニアにダニエルはふさわしくありません」 「…………」  マリアは迷っている様子だ。ソフィを見て、ドアの前に立っているアランを見た。そして顎をあげて公女の威厳を取り戻すと、アランに訊ねた。 「この娘となぜ結婚などしたのです?」  アランは迷わず答える。 「彼女は素晴らしい人間で、心から愛しているからです、マリア公女」  マリアはどうやら、便宜上の政略結婚だとばかり思っていたようだ。二人が愛しあっていると知ると、少し無言になった。 「大叔母さま?」 「……よろしいでしょう。言っておきますが、これはあなたのためではありません。アリニアの将来のためです」  ソフィは破顔して、悪態しかつかない老婆に抱きついた。老婆の方は両手を宙にあげたまま固まっている。 「大好きです、大叔母さま」 「離れてちょうだい。あなたのおぞましい臭いが移ってしまいそうよ」 「地下牢に一緒にいた仲ではありませんか。あそこよりも臭いところは、わたしは知りません」  ソフィの言葉にマリアが少しだけ口の端を上げて同意を表した。アランは勇気を出して彼女に近づく。 「大叔母上にお会いできて光栄です」  手のひらにキスにしようとして手を引っ込められる。 「あなたに挨拶される覚えはありません……ですが……一国の公女としては受けないわけにはいきません」  老婆は背中に隠した手を再び、アランの前に差し出す。どうやらかなり気難しい人だが、根が悪い人ではなさそうだ。アランは苦笑をしながら、その手にキスをした。 「で? わたくしになにをしろと?」  マリアが本題に入る。 「ダニエルにつこうとしている貴族を止めて欲しいんです。ソフィの養父のマクシム・マリードに協力していただけませんか」 「……まぁ、できないことはないでしょう」 「ありがとうございます!」  マリアがごもごもと口の中で言葉を転がす。よく聞き取れずに、「え?」とソフィが聞き返すと、マリアはぶっきらぼうに言った。 「それであなたはこれから、どうするのです」 「わたしは都に行きます」  マリアな目が大きく見開かれる。アランはその反応が当然すぎて苦笑してしまった。女のソフィが危険な都に行くなど、この世代の人間にはあり得ないことだ。 「恥というものはないのですか」 「はい。ありません。わたしは大公です。大公は中央軍の最高位です。当然、国の存亡において親征してしかるべきでしょう」 「…………」  マリアは呆れたとばかり口をわざとあんぐりとする。ソフィはだが、にこりとしてアランの方を見た。 「夫とともにいたいのです。心配はありません」  マリアは不機嫌に鼻を「ふん」と鳴らした。 「好きになさい」  投げやりな言葉に聞こえたが、ソフィを案じているのはアランにも分かった。ソフィはもう一度、意地悪な大叔母を抱きしめると、すくりと立ち上がる。 「ご機嫌よう。またお会いできる日を楽しみにしています」 「……あなたになど会いたくない。けれど……年長者に挨拶しに来ないのは、無礼ですね」  まったく素直な人ではない。一言アランは言おうとしたけれど、それより前にマリアの無表情の顔に笑みが浮かんだ。ソフィを抱きしめて、その耳元で「しっかりやりなさい」とささやいた。アランは、ソフィが少しずつ人の心の砦を壊していくのを感じて誇りに感じた。 「申し上げます。ワーシャル軍がオーラン近くまで進行中とのことです」  ――急がなければ。  ソフィがアランを見た。
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