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5   旅の五日目、ソフィは都の高い城壁の前に立った。  ――ドキドキするわ。  それでも歓声にこそ迎えられなかったが、アリニアの都、オーランの市民は、絞首台に上った公族の娘を覚えていた。ソフィがアランと馬を並べて歩くさまをどう受け取っていいのか分からないという目でじっと見つめたまま足を止めていた。ソフィは馬の背で背筋を伸ばしていた。時おり、なにも知らない子供が手を振ると、それに笑顔で振り返す以外、真剣な眼差しを崩すことはない。 「ソフィ」  宮殿で出迎えたのは養父のマクシムだ。彼はまるで彼女が子供かのように、馬から下りるのを手伝うと、アランにお辞儀をした。 「お待ちしておりました、将軍」 「ドルバック卿、街がずいぶん静かだったが」  ソフィも罵倒されるのを覚悟して都の城門を潜った。それなのに、人々は静かにそれを受け入れた。どういうことだろう。 「張り紙をしました。事実を――アリニア女大公が、アポリネール将軍と結婚し、国は再び一つとなり戦は終結したのだと」  詳細は新聞に載せ、人々に周知したようだ。 「どうぞ」  小国のものとしては豪華すぎるアリニア宮殿にアランとソフィは足を踏み入れた。高い吹き抜けの玄関に飾ってあったはずの絵が一つもないのは、叔父の仕業か。ソフィの心が痛む。 「どうぞ」  客間に入っても同じことだ。絵はなく、家具は、ソフィの見覚えのある――養父の別荘にあるものが並べられている。なんとかアラン将軍の手前、養父が体裁をつくろった様子だ。ソフィはだからなにも言わずに長椅子に座った。アランは肘掛け椅子を選び、軍靴のまま足を組む。 「民は、戦争が終わるならそれでよしと思っているようです。これ以上、忍耐するほど、経済的に余裕はなく、食糧を配ったこともあり、民意はこちらに傾いています」  マクシムは、立ったまま報告する。 「ダニエルが国の富を盗んでワーシャルに亡命したこと、その軍力を借りて軍をアリニアに進軍させていることも民は知っています。私たちが知らせる前に、商人たちが広めたようです」  ジャンの息がかかった者たちだろう。こういう時は、政府の正式な発表より、人は噂を信じものだ。 「ダニエルにつく貴族はどれほどいるのか」 「多くはありません。フィリップ、ダニエル親子に近かった者たちは早々に亡命しましたが、情報統制していたため、一般の貴族はなにも知らずにいたのです。危険を知らせすらしなかったことに腹を立てています」  ソフィはマクシムを見る。 「それでも公族の多くは親ダニエル派よ。ダニエルは考えなしに利権を貴族にばらまくのが得意だもの」 「マリア公女が説得してくれるさ」  アランがソフィに微笑んだ。マリアは公族の重鎮だ。彼女の発言力は強い。最後までアリニアに留まり、ソフィと絞首台を共にしようとした気概は誰もが知るところだろう。彼女が説得してくれることを信じるばかりだ。 「戦争は近いわね……」  ソフィは立ち上がって窓の向こうを見た。日常を表面上、取り戻した都人たちが宮殿前の道を忙しそうに行き来する。ソフィの守らなければならない光景だ。 「ここには長く留まらない方がいいと思うの。ワーシャル軍が都を標的にすると被害は甚大になるわ」 「地図をごらんください」  大きなテーブルの上に地図が広げられる。南はワーシャル国、北はサーナ国。アリニアは地図の上でも小さな国だ。その上に、マクシムは白と黒のチェスの駒を並べる。黒はソフィたち。白はワーシャルだ。  ダニエルとワーシャル軍は地域を征服するのではなく、都への道にある村を焼いて前にどんどんこちらに進んでいるようだ。 「うむ……」  アランが顎に手を当て、デロを呼んだ。 「どう見る?」  デロは地図を隅から隅まで見ると、指し棒である村を指す。 「この辺りで開戦するのが妥当かと」  マクシムも同じ考えだったのだろう。すでに村人は避難させていると周到な準備を告げる。 「では、明日にも出立だ」  アランの決断は早い。そこで軍事会議は解散になる。彼はまだ外を見ているソフィを後ろから抱きしめた。 「心配ことか?」 「ううん。なるべく、被害が少なければいいなと思ったの。わたしたちも――ワーシャル軍も……」 「なるべく、短期決戦で終わらせる予定だ。最新式の大砲もある。降伏してくれることを祈ろう」  ソフィは彼を振り向き。自分からキスをした。 「作戦は考えた?」 「ああ。レイモンは優秀だ。すでに献策してくれている」  彼は詳細は話さなかった。まだ、アリニアには完全に従っていない者たちがいることを知っているから、ソフィからもれることを恐れているのだろう。信じられていないと少しがっかりする一方で、彼の気遣いも感じる。ソフィをなるべく戦争に巻き込みたくないのだ。 「明日の早朝に出発だ。早く寝よう」 「ええ……」  沐浴もしたい。ソフィは侍女とともに二階に上がると、着ていた、体にぴったりと仕立てられたジャケットを手伝ってもらいながら脱ぐ。花がちりばめられたバスタブにゆっくりと身を横たえると、思わず「ああ……」と声をもらしてしまう。何日も馬に乗っていたことは一度もない。体のあちこちが筋肉痛で平気だという顔を作っていた顔の頬の筋肉さえも強ばっていたのが分かる。湯にほぐれていく体に、とても心地良かった。 「お休みなさい。先に寝るわ」 「ああ。お休み、ソフィ」  部屋に行くとアランはまだ机に向かっていた。ソフィは背中から抱きついてその頬にキスをする。久しぶりのベッドにすぐに眠りについた。夢は子供のころのものだ。平和でなに不自由なかった日々のこと。宮殿の裏庭に作られたブランコに乗って空高く漕いだこと――でもその夢は暗転する。ブランコはダニエルとナタリーのものとなり、ソフィは触れることも禁じられた。そして――宮殿から追われ――。 「ソフィ」  はっと、目覚めた。アランが横で心配げな目をして、手燭を持っていた。 「え?」 「うなされていた。大丈夫か」 「え……ええ。昔の夢を見て」  彼はソフィの髪を撫でると、額にキスをする。 「俺がいる。だからなんにも心配な――」  しかし、言葉が終わる前に轟音が鳴り響いた。ドンという音とともに、なにかが崩れるような音がした。ソフィが慌てて起き上がり、窓の外を見ると、黄金の屋根を持つ大聖堂の塔が崩れているところだった。鐘が地面に落ちて更に大きな音がした。 「大砲だ!」  アランはすぐにズボンを穿くとシャツのボタンを締める。ジャケットを掴み、ソフィを指さして言う。 「地下に隠れろ」  ソフィは頷いたけれど、あそこに戻ることはできない。投獄された時の辛い記憶があって、大砲で死ぬ前に呼吸ができなくなって死んでしまうだろう。ソフィは慌ててずっとしまってあったアリニアの軍服を着る。銃弾に倒れたとしても、ソフィには戦うほかない。 「ソフィ!」  養父、マクシムが部屋のドアの前に足踏みしながら待っていた。そしてソフィが軍帽を被ったのを見ると、絶句する。彼女が地下に隠れないと分かったからだ。 「どうする気だ、ソフィ」 「わたしは後方支援が担当です。責務を果たすだけです」 「……だが……お前は女だ」  ソフィは明るく笑う。 「その前に大公です。逃げていたらダニエルと同じではありませんか」  養父は頭を掻きむしる。 「分かった。後方だからな。後方から動かないことを約束してくれ」 「ええ。もちろんですわ」  ソフィは神妙に頷いたけれど、その約束も守り切れる自信はなかった。それでもコクコクと首を縦に養父に振って安心させる。二人は階段を下りて、たまたま居合わせたデロがなにかを言う前に馬に乗った。マクシムが轡を取った。 「どこに行く?」 「お兄さまはどこ?」 「ニコラは市民を避難させている」 「ではわたしが怪我人の手当に回るわ。野戦病院をオペラ座に作る」 「分かった」  ソフィはバラボー大尉を見つけると、「行きましょう」と声をかけた。彼とその部下も自分の馬に乗ってソフィを追いかけた。宮殿前の広い広場を駆け抜ける。ソフィは、パニックになっている大通りを避けて狭い道を選んで、裏からオペラ座に入った。 「怪我人をどんどん運んで!」  こんな時、聖ガヴォティ病院の経験が活かせるとは。ソフィはオペラ座の中央に立った。以前、来た時は煌々とシャンデリアの明かりがまぶしく感じたのに、怪我人の世話をするには暗すぎる。燭台をもっと捜すようにバラボー大尉に命じ、広い舞台を見上げた。赤いベルベットのステージの幕を下ろせば、きっと簡易のベッドになるだろう。とにかく負傷兵を寝かせる場所が必要だ。 「幕を下ろして!」  ――最善をつくさなければ!!   貴族たちがオペラグラスと扇子を持って観劇する部屋は、重傷者用となり、踏むたびに特別感を演出した赤いカーペットはすぐに血を含んで更に赤黒くなる。 「あっちに運んで!」  ひっきりなしに兵士がオペラ座に運び込まれる。ソフィが捜して来てもらった都中の医師や看護師が対応するが、とても足りない。すぐにオペラ座は怪我人で溢れ返った。何人か、聖職者や市民も見かねて助けに来てくれるも、あちこちで叫び声が上がる。患者のものもあれば、「誰か! 手を貸してくれ!」というものもあった。  ソフィものんびりしていられない。力仕事も受け持つ。兵士をベッドに上げるのに、歯を食いしばって足を持とうとしたけれど、とても重たくて持ち上がらない。 「オレが持ちましょう」  後ろから声がかかり、ソフィは振り返った。ソフィの代わりに負傷兵を運んでくれたのは、見慣れた人だ。 「マルクじゃない⁉ なぜここに? 村にいるのかと思っていたわ!」 「ソフィさまを昨日、追ってきたんです。なにかオレにできることはありませんか」 「たくさんあるわ」  ソフィは次々と運ばれてくる兵士たちを指差した。 「ベッドが足りないの。軍用の簡易ベッドがあるわ。組み立ててくれる?」 「もちろんです」  マルクは村で自衛団をやっていた仲間を引き連れて、「行こう」と山積みになったままのベッドに向かった。ソフィは指示を出しながら、包帯の入った箱を医師や看護婦の前に運んだ。人手はまったく足りなかった。足の失血が多い兵士が運ばれて来れば、自分のベルトを抜いて足を縛り、息もつけない忙しさだ。  時折、頭上で爆発音が鳴り、ごうごうとオペラ座が揺れた。そしてパラパラと塵が天井から降って来た。 「この人も運んで!」  ソフィは怪我人を運ぶようにアリニア人兵士たちに頼む。兄、ニコラは今ごろ、武器の供給を前線にしていて忙しいだろう。火薬も銃弾もすぐに足りなくなるはずだから。ソフィはそちらも手伝わなければと思う。しかし、頭を打たれた重傷の兵士がソフィのジャケットの裾を掴んで離さない。 「お待ちください……」 「どうしたのですか」 「将軍閣下が危ないのです……どうか閣下にお伝えを……」  ソフィは息も絶え絶えの将校の手を握った。着ているものから、将校だと分かる。四十代くらいだろうか。生え抜きの軍人といった風格の男だ。 「敵は西門から突撃を装っていますが、北から精鋭部隊が侵入するのを見ました。閣下が後ろから襲われてしまいます……ど、どうか……閣下に……お、お伝えして……くだ……さい……」  それだけ言うと将校は力尽きた。ソフィの背がヒヤリとする。顔を真っ青にし、唇を震わせたのは、都の北門は中世に作られたもので、現在、利便性も少なく、封鎖されている。そこから攻められると、アランが司令部を構えている警察署が危ない。 「バラボー大尉!」  ソフィは叫んだ。遠くで負傷兵の手当していた彼は、血だらけのままソフィに顔を上げた。 「殿下」 「一緒に来て!」  ソフィはマルクたちにも叫ぶ。 「マルク! 手伝って!」  マルクと五人の青年たちはすぐに手当を代わってもらうとこちらに走ってくる。ソフィは騒がしい野戦病院の中、彼らに聞こえるように言った。 「アランが危ないの。一緒に来てくれる?」 「もちろんです、ソフィさま!」  ――待ってて! アラン!  ソフィは騎乗の人となった。
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