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7 最終話
7
「ソフィ……ソフィ……」
名前を呼ばれて、ゆっくりとソフィは目を開ける。ぼんやりとした視界が晴れると、そこに養母のガブリエルがいた。
「お母さま……」
ガブリエルはソフィの手をしっかり握っている。
「ここは? アリニア宮殿よ……。目が覚めて本当によかった。誰か、将軍閣下にお知らせして!」
侍女が慌てて部屋を出て行った。見回せば、豪華な天蓋付きベッドだ。暖炉があり、緑の絨毯が敷かれている。マホガニーの机に椅子、繊細な壁時計がある。宮殿の大公の間だろう。ソフィは訊ねる。
「わたし、どれくらい寝ていたの?」
「七日よ。目が覚めないかもしれないってお医者さまが言ったの。わたくしはどうしたらいいのか、分からなくて……」
母は美しい細い顔を震わせながら涙した。アーチ状の眉を寄せ、震える手でソフィの手を握る。ただ、ソフィには実感がない。七日も眠っていたなど信じられなかった。
「戦いは? ダニエルはどうなったの?」
起き上がろうとして、右胸がずきんと痛む。
「寝ていて。お願い。まだ寝ていて。戦いは終わったわ。将軍はそれはもうお怒りで、猛撃の末、ダニエルも捕まえたわ」
「…………」
アランが無理をしたのではないかとソフィは心配になった。
「ワーシャル軍は引いたわ。軍を壊滅してまで、ダニエルを支持するほどの義理はないもの」
ソフィはなにかを言おうとした。聞かなければならないことはたくさんある。アランに怪我はなかったか。マルクやバラボー大尉は無事か。負傷兵の対処はどうなったのか。父と兄はどうしているのか――。しかし、その前にドアが開いて、愛しい人がソフィを見た。
「ソフィ」
目覚めたことは奇跡だったのだと、その顔で分かる。アランは疲れた様子で、ソフィの手を握った。
「ソフィ……君はなんて馬鹿なんだ。俺を庇うなんて」
ソフィは胸の痛みを隠して微笑した。
「あなたが無事でよかったわ」
彼はベッドの前に跪いたまま、頭を下げた。泣いているのだ。ソフィはそっとその髪を撫でた。
「わたしは無事よ。もう大丈夫」
「祈ったよ。祈りなど捧げたのは、父が死んだ時以来だった……」
「ありがとう、アラン……あなたの祈りのおかげで目覚められた」
彼は涙に濡れた目を袖で拭う。ソフィはその顔を手のひらで包んだ。
「愛しているわ、アラン」
「ああ……でも俺の愛は愛などいうちっぽけな言葉では言い尽くせない」
そうかもしれないとソフィは思った。彼女の愛もただ一言では表現できない深いものである。彼が危ないと思った時には、考えるより先に体が動いていた。自分の命よりも大切なものが彼の命だ。愛とは献身であり、想い合う心だ。こうして彼と手を繋いでいるのは、なんと心地よいことだろうか。
アランは彼女に口づけした。ソフィはそれに安心した。ゆっくりと目を瞑ると、再び深い眠りにつく。今度は前よりも浅いけれど、ガブリエルとの思い出や、ジャンと村で遊んだこと、マルクと牛を見に行った時のこと、アランと秘密の結婚をした時のこと。平和で楽しい夢を見る。
そしてどれぐらい寝ていただろうか。
歓声で目を覚ます。そっと起きると、そこは窓の外からの声で、自分はアランの膝に頭を乗せていた。
「何の声?」
「見てみるといい」
彼はソフィが起き上がるのを手伝ってくれた。場所はアリニア宮殿前の広場だ。人々がアリニア公家のライオンの旗を振っている。
「わたしに振っているの?」
信じられずにアランに訊ねる。
「ああ。君が目覚めたことを聞いてみんな来ているんだ」
ソフィは窓に張り付いた。そこには笑顔が並んでいる。「ソフィさま!」と叫ぶ人さえいた。
「わたし……なにもしていないのに? みんな、なんで……」
アランがソフィのを横抱きしてバルコニーに出た。建物の上から紙吹雪が舞い、ソフィの顔が見えると「わぁ!」と人々は声を上げる。
「ソフィ。人は自分が思っているより、ちゃんと見ているんだ。アリニアのために絞首台に上った君、怪我をした兵士を助けようとした君、ワーシャル軍を追い払った君」
「ワーシャル軍を追い払ったのはあなたよ、アラン」
アランは首を横に振る。
「いいや、君だ。君が俺と結婚すると決め、内戦は終結した。ダニエルを許さないと誓ったのも君だ。民はダニエルがどんな人物か知っている。それに屈せず戦ったソフィを皆が誇りに思っているんだ」
「…………」
ソフィはアランに手を借りて立つと、バルコニーの下を見た。ほんの少し手を振ってみる。それを見た街の人々はいっそう大きく手を振り返す。ソフィの頬から不安が消え、元来の明るさを取り戻した。
「アラン、皆がわたしに手を振っているわ!」
「ああ。君に手を振っている」
アランがソフィを後ろから抱き、その肩に顎を預けた。
「新政権の議会も君と俺の結婚を承認した」
「え?」
「なにを今更驚くんだ? 君が俺の妻であるのは紛れもない事実じゃないか」
「え?」
「ソフィが英雄であることは誰もが認めるところだ。それに聖ガヴォティ病院にいた兵士たちも嘆願書を出した。ソフィ・フォントネルこそ新政権下でも君主としてふさわしいとね」
「ああ……」
病院の皆に誠意が伝わったことがソフィは嬉しかった。
「わたし、あなたの本当の妻になれるのね?」
「いや、ずっと本当の妻だ」
「そういう意味ではなく――妻としてみんなに認められるのね?」
「ああ。もうだれもソフィを否定しないさ」
ソフィは嬉しさのあまり、アランに抱きついた。胸の怪我が痛んだけれど、それよりも喜びの方が強い。「いたた」と言ってアランを心配させながら、街道に集まった人々に手を振った。
「ソフィ……君は美しいよ」
アランがまぶしそうにソフィの頬にキスをした。
半年後――。
秋晴れの青い空。白いむら雲がぽつりぽつりと空に浮く日。まぶしい逆光の前にソフィは立っていた。
バルコニーに赤い絨毯が敷かれ、青いアリニア国旗が並んで飾られている。眼下の宮殿前広場には、多くの民の中に、わざわざ聖ガヴォティ病院からソフィの晴れの舞台――正式な結婚式を見に来た多くの人々の姿が見えた。
「ソフィ」
隣にいるのは、愛する人、アラン。彼の眼差しは優しく、幸せに満ちていた。もちろん、ソフィも満ち足りて穏やかな笑顔を民に向けて、手を振った。結婚式の参列者には、大叔母のマリア、養父母のマクシム、ガブリエル。義兄のニコラにもちろんジャンもいる。正式に中央軍、少佐になったバラボーも少し後ろに控え、マルクも帽子を脱いで笑顔で佇んでいた。
「愛している、ソフィ」
「わたしもよ、アラン」
民が「キス、キス、キス」とはやし立てて、アランとソフィは苦笑する。君主が結婚するとき、民のキスコールは無視できない慣例だ。二人は見つめ合うと、手と手を取り合ってゆっくりと近づく。ソフィは目を瞑った。そっと唇と唇が触れると、拍手とともに指笛があちこちで鳴り響いた。ソフィは真っ赤になって顔を上げる。
「大公殿下、万歳!」
アリニアを祝して叫ばれる万歳だった。国の永久の繁栄を祈り、今日という日を祝う言葉に、ソフィの瞳が涙で光る。これ以上、嬉しいことはない。
おそらく、ソフィには、これから先も簡単ではない人生が待ち受けているだろう。しかし、横にアランがいて、今のこの気持ちを大事にしていけば、きっと乗り越えていけるだろうと思った。
――美しいわ……。
遠くずっと先まで見える街並みをソフィは見つめた。広間の中央にある塔のてっぺんには天使が今にも飛び立たんとし、大聖堂のドームのついた屋根は秋の日差しに燦めいている。ネヴァ川の流れは悠々と流れ、城壁の向こうに秋が見える。ソフィは自分のもう一つの故郷の美しさに感動した。だから、彼女は叫んだ。アランと祖国に――。
『我は民と国に命を捧げる』と――。
了
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