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第1章 (雪の中の出会い)
第1章 (雪の中の出会い)
1
大地は果てしなく白銀だった。
積もった雪の重さに耐えられなくなった木の枝がたゆんで、雪を弾く。どさりと音を立てた向こうに朝日が昇り始めた。
――綺麗……。
つづらが日に輝き、燦めいているのを、まぶしそうにソフィは見上げる。空気はどこまで澄んでいて、はぁっと吐く息が白く凍えてしまう。
「ソフィさま、急ぎましょう」
新雪を先に踏む従者のジャンが先を急ぐ。目指すのは、屋敷の前にある薪小屋だ。暖炉に焼べる木がもうなくなり、そりを引きずって屋敷の裏手の小屋まで取りに急いでいるところだった。ソフィの狐の襟巻きにはらはらと散る粉雪がつもり、彼女のまつげが一瞬で凍る。
「お嬢さまにこんなことをさせて申し訳ありません」
前を歩くジャンが振り向いた。純朴そうな丸顔を寒さで赤らめながら、太い眉を垂れてすまなそうにする。
「そんなことないのよ。人手が足りない時はみんなで力を合わせないとね」
ジャンは小さく頷き、かじかむ手で小屋の鍵を開けようと手袋を外す。身長はソフィより少し高いだけだが、しっかりとした体はこんな朝にはとても頼もしい。
「少し、お待ちください」
ジャンは指が上手く動かないのか、鍵をなかなか開けられなかった。
ソフィはそんな彼を待ちながら、ぼんやりと屋敷の裏手にある白樺の林を見やった。なにかが動き、白い世界がわずかにざわめく。野ウサギだろうかと目をこらすと、黒い塊が雪に埋もれているのが見えた。ソフィは一歩、雪を踏む。ぎゅっと雪を踏んだ音がし、ジャンがこちらを向いた。
「ジャン、子鹿よ」
「鹿?」
「子鹿が倒れているわ!」
ソフィは、ジャンがなにかを言う前に、彼とソリを置いて走り出した。戦禍がこの村に近づいてからというもの、食糧にこまった村人は林に許可もとらずに罠をかけていくことがある。子鹿が捕まって動けなくなったのを見つけたソフィは助けてやらなければと思ったのだ。
「ソフィさま! 危ないです!」
ジャンも慌てて追いかけてくる。ブーツのふくらはぎまで雪に脚を取られたけれど、ソフィは気にせず哀れな鹿に駆け寄った。しかし、そこにいたものは――。
――鹿? いいえ……違う。なに? これは、なに?
ソフィには、目の前もある黒い塊がなにか分からず立ち尽くした。それは、半分ほどが雪に埋もれ、紺色の布だけがわずかに雪から覗いて見えた。すると、代わりに遅れて現れたジャンが震える声で言う。
「北ルード軍の将校だ……!」
ソフィははっと彼を見た。
「北ルード軍? じゃ……人⁉」
ソフィは驚いた。うつ伏せに倒れているのは、まさしく人間で、ジャンの言う通り、紺色に金のボタンのついた将校の服装をしている。とっさに助けなければと思い、駆け寄って膝をつく。
「息がある」
瞼がピクピクとする。
「生きているわ!」
ソフィは、腕を掴んで仰向けにさせた。かなり体格がいいので、それだけの動作に息が切れてしまう。男はわずかに意識が戻ったのか、朦朧と目を開き、「助けてくれ……」とかすかに言った。指はすでに凍傷となっている。顔も真っ赤にはれ上がっているので、ソフィは彼の手を両手でこすると、頬をそっと撫でた。
「大丈夫よ。もう大丈夫」
そして左右を見て、ジャンが持って来たソリを見つけると、ソフィは男を乗せようと持ち上げた。しかし、ジャンがそれを遮る。
「北ルード軍の将校を助けてどうするんですか。反乱軍の兵を助けたら、問題になります」
「それでジャンは、生きている人をどうするというの? 見なかったことにするの⁉」
「このまま雪の中に埋めてしまえばいい」
「本気で言っているの、ジャン? あなたにそれができる?」
ジャンの言い分は、分からなくもなかった。北ルード軍はこのアリニア国の中核を担う軍だった。しかし、先月、突然、アリニア大公の命を狙い謀反を企んだとして反乱軍の烙印を押された。本当のところは、年々、勢いをつけ、中央に逆らうようになったアポリネール将軍率いる北ルード軍を疎ましく思った大公が、兵力を奪おうとして罪をでっち上げたのだ。
そんなことは田舎の子供すら知っている。しかし、将校を匿えば、捜索している大公の中央軍から恐ろしい報復があるかもしれなかった。
「ジャン」
それでもソフィはジャンをまっすぐに見た。ジャンは根の優しい人で、怪我人を放置して死なせるような人ではない。ただ、今は非常時なので恐怖のあまりそう言ってしまっただけだ。彼はソフィの目を見返した末に、瞳を揺らして「くそっ」と唇だけで言った。
「分かってます。ソフィさまが弱い者を見捨てられないのは――」
彼はわざとらしいため息を吐いてみせる。彼とてそんなことはできないのに。
ジャンは男を丁寧とは言いがたい扱いでソリに乗せた。それをソフィは非難はできない。なにしろ、将校は百八十センチ以上はある長躯に対し、ジャンは小柄だ。ソフィも足を持ってなんとか二人がかりでソリに乗せる。
「薪も持って帰らなければなりません」
屋敷の薪はもうすぐ尽きる。午後には吹雪になると思われるのに、薪を持って帰らなければ煮炊きもできずに面倒なことになる。ソフィは頷くともう一つのソリに積めるだけの薪を積んで、白い息を激しく吐きながら、屋敷へと雪道を歩いた。
「これは……一体どうしたことでしょう……」
風でなかなか開かない裏口を引いた時、台所にいた老執事のエンゾが将校に目を丸めた。ソフィは、すぐにドアを閉めて冷たい風を追い払う。
「エンゾ、暖炉に火を焚いて。それとお兄さまの服をお願い。これは濡れているから」
「…………」
エンゾは優しい皺のある顔を複雑なものに変える。反乱軍を恐れないはずはなかった。しかし、人として彼は優れていた。すぐに瞳に決意を表す。
「お任せください、お嬢さま」
「ありがとう、エンゾ!」
ソフィはエンゾをきつく抱きしめた。彼なら分かってくれると思っていた。
「さあ、怪我の手当をしないといけません」
エンゾは、悪い右足をひきずりながら、薬を取りに行く。ソフィはしかめっ面をしているジャンに向き合った。
「ジャン、この人をお願い。わたしは薪をもっと持って来るわ」
「お嬢さまが薪を? 他にも北ルード軍の兵士が隠れているかもしれないんですよ。僕が行きます」
「高齢のエンゾだけではあの人を運べないし、火を焚かないと凍死してしまう。薪は必要よ。わたしが行って来る」
ジャンは男の着替えも自分がやらなければならないと気づいたらしい。ソフィがいない方が好都合だった。彼は自分の手袋をソフィの手に重ねてくれた。彼女はジャンに頷くと頬を叩いてもう一度、極寒の外に出た。先ほどよりずっと風が強い。夜の闇のようなソフィのが風に攫われて舞い上がった。
「ああ……吹雪が近いわ」
例年にない厳しい冬だ。国内で諍いさえなければ、普通にものも流通し、それなりに快適な暮らしができただろうに、今年はそういうわけにはいかない。ソフィは屋敷を振り返り、暗雲が頭上に立ちこめているのを見つけると、ぞわりと恐怖が胸に渦巻いた。
「上手くあの人を隠せればいいんだけど……」
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