完成したら

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別れよう。  この頃私には一樹の言葉が度々こう聞こえる。  いつ引っ越すん。部屋は決めたん。友達たくさん出来たらえーね。応援してるよ。初デートで見た映画のDVD借りひん。本当に絵が好きやね。  どれもなんてことない恋人の会話なのに、私は逐一彼に怯える。いつも通りの声音のどこかに、私を拒絶する欠片がほんの僅かにでも含まれているのではないかと息を飲む。 「俺の似顔絵描いてよ」  たった今彼が言ったこの台詞も、決して別れ話でもなんでもない。だけど私は、終わりの予感に心臓がぎゅっと潰された。 「そこ、座って」  私は大きな机を挟んだ向こう側を指さして、真新しい鉛筆を手に取った。カッターナイフを握りしめ、カチカチと刃先を出す。美術室は、私と一樹の二人きり。  下に紙を敷いて鉛筆をカッターナイフで削ってゆく。 「えらい本格的やなあ」  一樹は細い目をぱちぱちさせて、私の手元を見つめた。  しゃくしゃく。木が削られて、尖ってゆく。 「せっかく描くんなら、本気で描きたいから」  締め切った窓の外から野球部の声がもれていた。他の部活の三年生はほとんど皆引退したというのに、私は三月になった今もしつこく美術室に通っている。ただ単純に、絵を描くのに便利だからというのは嘘では無い。でも、一樹と二人きりになるのを避けていたというのも、たぶん事実だ。美術室に行くといえば、部外者の彼は中々追ってこないから。以前はお構いなしに入って来る事もあったけど、私が恥ずかしがると部室には来なくなった。今日は他の部員がいなくて、入れてしまったけれど。  私はこの春から東京の美大へ通う。受験を決めた時、地元の大学へ進学する一樹は寂しい寂しいとひとしきり拗ねた後で「応援する」と笑った。私はそれにほっとして、全力で受験に打ち込んだ。そうして無事に合格して、ふと気が付いてしまったのだ。  彼が私を捨てない保証は、どこにもない。  必死で東京の大学を受験して、引っ越しの準備を進める私は、一体彼の目にどう映っただろう。わがままを言うのはいつも私の方で、一樹は文句を言いながら必ず折れてくれる。欲しい言葉を器用にくれる。だから私は、慢心しきっていたのだ。遠距離だって、彼は受け入れてくれるって。  しゃくしゃくしゃくしゃく。がりがりがりがり。  木の中から黒い芯が出てきて、カッターの刃に当たる感触が固くなる。黒色がぴかぴか光って、綺麗だなと思う。普段は面倒なこの作業も、今は苦にならない。 「器用やなあ」  いつの間にか身を乗り出していた一樹が感心したように息を吐く。私はすぐ近くにある彼の顔を一瞥して「まあね」と唇の端で笑う。  鋭利に尖った鉛筆を机に置いて、先の丸い違う鉛筆を手に取った。再びカッターナイフで先を削ってゆく。 「え? まだ削るん?」  薄い唇を歪ませて、一樹が首を傾げる。 「さっきのはB。これは2B」 「はあ」  寄った眉に嬉しくなる。いつもニコニコ朗らかな彼が、私の言動に困った表情をする。それが、どうしようもなくたまらない。  藤丘一樹は、学年でも有名なお調子者だった。騒がしくて、サービス精神が旺盛で、誰彼構わずに笑顔と軽口を振りまく。だから男女問わずに友人が多くて、いつも楽しそう。  そんな彼の印象が少し変わったのは、二年生になりクラスが同じになってからだった。  夏休みが始まったばかりの七月終わり。絵を描くために登校した私は美術室で意外なものを発見した。ど真ん中の机で、大量の色紙に囲まれて伏せっている人がいたのだ。もちろん、その人こそが藤丘一樹だった。  僅かばかり悩んでから、私は彼を放っておく事にして書きかけのデッサンの続きに取りかかった。  美術部の部員は少なくない。ただ、夏休みに学校まで来る部員となると一握りだ。といっても、彼は美術部員でもなんでもなかったけれど。  三十分以上経っても、彼は目覚めなかった。鉛筆が画用紙を引っ掻く音と、彼の静かな寝息だけが美術室を漂っている。私は持ってきていたイヤホンを不思議と取り出す気にならなくて、誰よりうるさいその人が驚くほど優しく立てる衣擦れの音を、ずっと聞いていた。  やがて彼は起き上がり、ぼんやりと辺りを見回した。私を見つけると、細い目をもっと細くして笑う。 「明日香ちゃん」 「……名前しってるんや」 「名前おぼえんの得意やねん」  まだ覚醒していないらしい彼は上体をぐらぐら揺らした。右頬が赤く染まっていて、小さく切られた青色の色紙が一枚張り付いている。 「へえ」  頬の色紙を指摘するのはもったいない気がして、私はそのままキャンパスに向き直る。すると横から寝起きで掠れた声がまた聞こえてきた。 「やっぱり今の無し。かわいー子の名前はぜんぶ覚えてんの」 「そりゃどうも」  私は目をぱちぱちさせてから、彼を見やった。少し寄れたカッターシャツから伸びる腕が日焼けし始めている。 「信じてないやろお」とケラケラ笑って、彼は大きく伸びをした。ひらり。やけに緩慢に、青色が頬から落ちる。  彼は盛大な欠伸を一つして色紙をつまみ上げると、ハサミで細かく切り刻み始めた。 「なにしてるん?」  デッサンの手を止めて、私は首を傾げる。  チョキチョキチョキチョキ。カラフルで不揃いな紙切れが次々に出来てゆく。 「美術の課題。なんでもいいから夏休み中に完成させたら三年生にさせてくれるって」 「ふうん。適当に絵とか描けばええのに」 「ばっかやろう。絵なんて適当に描けるもんちゃうねん。こういうのだとなんか下手でも良い感じに見えやすいやん。そりゃあ明日香ちゃんは上手いからさあ」 「そうでもないけど。それで、それ、なに描いてるん?」  見たところ手当たり次第に色紙を切り刻んでいるようだし、広げられた画用紙に貼られた紙からも、まるで方向性が掴めない。  私の問いに彼はハサミを下ろして腕を組み、じっと考え込んだ。長い沈黙の末、ぎゅっと眉根を寄せて面を上げる。 「あれだ、いわゆる抽象画ってやつ」 「……貼り絵で?」  彼は神妙に頷いて、また黙り込んだ。机の上で乱雑に広がる色紙を見つめて、やがてぱっと目を輝かせる。 「明日香ちゃん教えてよ。貼り絵」 「え、私まともにやったことないけど」 「雰囲気だけちょこっと教えてくれたらええから」  懇願する彼の上目遣いと、完成の兆しの見えない貼り絵を交互に見て、私は思わず了承してしまった。  それからというもの、彼は意外なほどまめに美術室へ通った。  アルバイトをしているらしく一日に三時間程度の滞在だったけれど、元からセンスはいいのかコツコツと腕を上げていった。私以外の美術部員ともいつの間にやら仲良くなり、部員達の参加率まで向上した。私は奇特な人もいたものだとすっかり感心していた。  そうして数週間が過ぎ、久しぶりに二人きりになった八月の日の事だ。  私は頬杖をついて彼の完成間近となった作品をじっくり眺めていた。大きな画用紙に、鮮やかなスイカが貼り絵で描かれている。 「力作やね」 「先生のお陰です」 「私なんもしてへんけど」  ぺこりと頭を下げる一樹に笑ってしまう。ただ美術の成績のためにやりはじめたはずが、どうやら貼り絵が気に入ったようだ。この絵はもう三枚目で、とうとう先生に提出するらしい。 「えらい時間掛けとるね」  やけにじっくり取りかかっていることが不思議になって訊ねてみると、彼は顔を赤くした。  いや、ほら、だって、その。存分に言いよどんだ後で、お喋りな彼に似合わない小さな声が聞こえてくる。 「完成したら、終わっちゃうやろ」  まるであの日の立ち位置が、逆になったみたいだ。 「お、やっと描き始める?」  結局五本もの鉛筆をゆっくり削った私に、一樹が声を弾ませた。私はそれをみて、練り消しを練り始める。 「これ練ってから」 「……絵描くのって大変なんやなあ……」  すっかり暇をもてあましている一樹は唇を尖らせた。練り消しを指先でこねながら、私は彼の顔を目に焼き付ける。  クラスでは人一倍騒がしいのに、彼は私と二人きりの時決して無理に話を盛り上げようとしたりしない。ちょうど良い距離感でそこにいて、私はこんなに自分勝手なのに、心地よい空間を作り出してくれる。 「なになに? 見つめちゃって」 「……イケメンやなあと思って」 「やっぱり?」  ニマニマと頬を緩める一樹に、私は小さく吹き出してしまう。  ついに練り消しも準備し終わって、渋々と画板に画用紙をセットする。鉛筆を手にとり、大きく息を吐いた。  向かいの席で一樹が決め顔をしている。男前に描けということだろうけど、残念ながら彼は顔立ちが特別端正な訳ではない。  私は下唇を噛みしめて、さっと鉛筆を動かした。 「はい」  画板をひっくり返して見せると、一樹があからさまに顔を顰めた。画用紙の中央にへのへのもへじが描いてあるだけだから、当然だけど。 「似てるやろ、特にこの「の」の辺りとか。かなり横長に描いてみた」 「誰が切れ長で涼やかな目元や」 「細目を良いように言わんとって」 「えーでも酷くない? めっちゃ待ったのに」  私からへのへのもへじが描かれた画用紙を受け取った一樹は不服そうにため息を吐いた。 「……だって、ちゃんと描いたら、終わっちゃうと思ってんもん」 「へ? 何が?」  渋かった表情が打って変わって、彼はきょとんとしてみせる。ああ嫌だなあと思った。この顔が見れなくなるのは、嫌やなあ。 「遠距離、嫌がってたやん」 「ああ、うん」 「似顔絵なんか描いたら、これを最後に振られるような気がしたの!」  勢いに任せて語尾を強めると、一樹は目を丸くした。美術室に静寂が訪れる。削るだけ削って全く使っていない鉛筆が机の上で転がっている。ああもう、 「なんか言ってよ」 「――やから最近ヘンやったん?」 「そうだよ!」  私は最早取り繕っても仕方ないと開き直る。すると、一樹はへらっと笑った。 「なにそれ、かーわいいー」 「……真面目な話なんやけど」  口元を歪めた私の頬に、彼の手が伸びてくる。両側から押されて、私は口を開けなくなった。 「今回の事で、俺がほんまに不満やったのは、そこちゃうよ。……付いてこいって、言ってくれへんかった事」 「はあ?」  ぱっと手が離れて、同時に私は頓狂な声を出した。だってえ、と一樹がぶつぶつ言っているのが聞こえる。ちょっと待って、この人、何を言っているんだ。 「とりあえずこれは貰っておくけど、これからも描いてね、似顔絵」  一樹の顔の横で、へのへのもへじがぴらぴら揺れている。 「付いて来いって言ったって、付いてこなかったやろ?」 「さあ、それは言ってみんとわからんで」  得意げにしてみせた彼の顔は、驚くほどへのへのもへじに似ていて、私は可笑しくなってしまった。  じゃあ何枚でも、描いてあげるよ。  でもきっと何年経ったって、完成はしないから覚悟してて。
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