20人が本棚に入れています
本棚に追加
「さなみちゃんって、毛深いよね」
ある日の帰り道、心晴ちゃんがそう言った。
さなみの持っているひつじ型のふせんを一枚ほしいと彼女が言ったから、ランドセルから取り出そうとしたら、その腕をじっと見て言われた。
やはりこの瞬間が来てしまったか、と思う。
近ごろ、さなみの仲良しの子たちは続々とそれを告げてくる。さなみちゃんって、毛深いよね。その件以外ではどれだけ心配りの行き届いた子も、このことだけは見えない法律で許されてでもいるみたいに、遠慮なく口にするのだ。
そうなると、なんと返したらいいのかわからない。ジョークも思いつかないし、怒ったふりもできない。だって、なにを言っても「毛深い人がなんか言ってる」で終わってしまうもの。心晴ちゃんこそ毛深いじゃん、なんて言ってみたいものだけれど、彼女がつるりとシンプルな腕や脚をしているのをさなみは知っている。だからこそ彼女は、人に「毛深いね」と言えるだけの資格を持ってるんだってことも。
これだから、半そではいやだな。ふせんを一枚めくりとって、はいっと渡す。心晴ちゃんはうれしそうに受け取って、彼女のランドセルからスケジュール帳を取り出して表紙の裏に貼りつけた。お返しにとチーズケーキ味のあめをわけてくれたから、まあよしとする。
「あ、そうだわたし」
ふと思い出して、さなみは言った。
「あさってから放課後、応援団の練習あるんだ」
「そうなんだ」
心晴ちゃんはさほど関心もなさそうだ。
「だから、はなぴたちと帰ってて」
「んー、わかった」
心晴ちゃんの頭の片側についている黄色とオレンジのピンが、きらりと光る。前髪はまっすぐなのに、生まれつききれいにふんわりしている後ろ髪が、歩くたびに揺れる。
たとえば、心晴ちゃんの一家は、さなみの家が行くようなそのへんのスーパーでは食材を買わない。隣駅の駅ビルの地下の、さなみの見たことないような商品パッケージばかりが並ぶ、さなみの一家が迷いこんでもどこにときめけばいいんだかまったくわからないようなスーパーで、すべてそろえる。それでもこうしていっしょにいることをとても不思議だと思うし、うれしくも思うのだけれど。
「応援団って、ほかに女子だれがやるっけ」
「美桜ちゃん」
「ふーん」
そのとき、心晴ちゃんの目に、見慣れない色がよぎるのをさなみは見た。
「わたし、美桜ちゃんきらいなんだ」
見慣れない顔のまま、心晴ちゃんがにやっとする。
「……そうなんだ」
さなみはへらりと笑う。動揺しているのをおさえつけるように。
いつものように、ふたりの会話はとりとめがない。ふとしたすきに、次の話題へと移ってしまう。
「ってか、やばい」
心晴ちゃんが笑い出しながら言う。
「なに」
「カスミがつくったあの気持ち悪い粘土細工のことが、まだ頭にこびりついてて離れない」
同級生のうわさをして、くつくつ笑いだす心晴ちゃん。笑うと線になる目がかわいい。ふだんはすっきりとした小さな顔なのに、笑ったときだけ頬がふっくりと盛り上がる。さなみも自然と笑ってしまう。
「うん、ひどかったね。なんであんなに、あはは、犬の顔のはずなのに、人の、人の手っぽかったんだろう」
ふたりはお腹を抱えて笑ってしまう。ことばを重ねるごとに笑いはふくれあがる。あまりに笑って、まっすぐ歩けないぐらいになっていく。
やがて笑いがおさまるころ、わかれ道で別れた。
にこにこしながらひとりで歩いていくうち、笑顔に押しつぶしていた不安さが、ぼっこり浮かび上がってきた。
さっき名前の出た美桜ちゃんは、悪い子ではない。きらいという感情を人に呼び起こさせるような、いっさいの要素を持たない。美桜ちゃんをきらうという選択肢がこの世に存在すること自体、いまのいままで考えつきもしなかったから、驚いている。心晴ちゃんも美桜ちゃんも、つきあいかたの種類は違うけれど、さなみにとってはそれぞれ親しくやってきた人たちだ。
ああ、だけど。
心晴ちゃんが美桜ちゃんをきらうのは、わからなくもない……そう思い至りそうな気持ちを、必死で塗りつぶそうとする。たとえば美桜ちゃんは、スマホを持っていない。それに、心晴ちゃんが気に入っているような男子たちと、親しく話せるタイプじゃない。
そんなふうに人をきらってしまって、いいの?
いや、よくはないだろう。よくはないけど、どうやら世の中、そういうものみたいなのだ。心晴ちゃんだけじゃない。美桜ちゃんだけじゃない。「だれそれがきらい」と打ち明けられることが増えている。それも、性格が悪いから、生意気だから、意地悪だからきらいというのじゃない。「なんとなくきらい」ってやつなんだ。
ランドセルのベルトを、ぐっと握りしめる。
わたしは今後も、心晴ちゃんのことを大好きであり続けるだろう。だけど、彼女のすべてに賛同するわけじゃない。そのふたつは、じゅうぶんに両立できることだ。
最初のコメントを投稿しよう!