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「美しき言葉も、女の微笑には、けおとりてもおぼえず」
春が一風の如く去った。道端の皐月と躑躅の薄紅いろがこの町を染めていた。五月の花冷えの風は冷たく、立花は着物の袖に手を入れて、夕暮れの空に雁の群れを見た。二羽、三羽、そうして一羽、どうやら逸れてしまったのだろう。雁は悲しげな羽を広げながら女の字のように彼方へと消えて行った。先斗町の空の夕煙が午後の熱を帯同しながら、立花の鼻腔をくすぐった。旅人のおも伏せな眼差しに立花はさっと瞼をおろし、そうして亦、見しらぬ女の微笑には、はっと息を吸った。町はこの数年で幾許か変わったものだが、旅人の秘めやかな密談と談笑に揺れる黄いろい提灯が、知らぬ顔でひらりとしていた。
「これはいけねえ。三十五のぼくなんかが、胸を躍らせるなんて、これは、いけねえ」
立花は虫よりも小さな声で云った。男が女に惚れるのは、すこし恥ずかしいことである。三日月の相好なのである。君も恋をしてみるかね? なんて言いたくなるような、とまれそのような夕暮れであった。
「あら、立花さんの息子さんね、まあえらくなられましたね」
ぼくは鼻を紅くした。春の馴鹿なんて、まあ末のおそろしいこと、なのである。
「これはどうも、至季婦人。それにしてもこのような人混みで偶然出会うなんて、偶然か運命か、それとも」
と云うよりも早く至季婦人が云った。
「宿命、かしら?」
言葉はこの雑踏に遍満して、幽かに息をした。
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