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普段よりも浮き足立っているように思えたのはきっと気のせいではない。
ボタンを掛け違えたり、何もない廊下でつまずきかけたり。
多分そういう自分を理解している時点で、おそらく客観視できている。そう思いたかった。
また会いましょう、のダメージたるや。
今までの軽い気持ちの「会えたらいいね」ではなく、完全に「会うことをお約束していますから」のそれにプレッシャーを感じているということ。その事実に自分がショックを受けている。自分ひとりでふらふらと赴くままの旅路ではないから、ということもあるだろうが、今日は特別、ふわふわのふらふらだった。
ああ、これで取材とかできるかよ、なんて待ち合わせ場所の方を見たときだった。
向こう側に、ぼんやりと記憶のある人の姿が、見える。
見るからに、男性。で、グレーとベージュの中間色のような色。薄手のコートらしきものを羽織った、男。
背中を向けていたはずのその人が、振り返る。
「……!」
目が合った瞬間、なんだかほわっと体が浮かび上がった。
気がして足元を確認したが、べったりと両足は地面についている。
もう一度顔を上げて、見る。
――周さん、だ。
彼はその場で立ち上がって、こっそりと手を上げて近付いてきた。よくわからない存在感を人として作り上げている彼は、案外、人が好きなのかもしれないと、オレは思った。
彼以外の道行く人間たちが視界から消えていく中、周さんの元へと小走りで急ぐ。先ほどまで見かけていた人たちをメモしていた手帳をポケットに放りこみながら、彼に簡単に礼をして、声をかけた。
「周さん、よろしくお願いします!」
「こちらこそ、今日はよろしくお願いいたします。ええと……」
何かありましたか、と言いたげな目を隠すように、俺は被せる。
「すみません! ちょっと周さんなのか自信なくて!」
「そ、うですか……じゃあ、行きましょうか。この先に、工房がありまして」
彼はそう仕切り直して、町歩き用に作られているマップを指さし、自分の世界への道案内を始めた。
案外、この街で彫刻家としての彼は重宝されているようで、彼の作る作品はあちらこちらで見ることが出来た。どうやら、主に軒先の看板がわりになる形のものを作成しているらしい。案外テキパキと話されていく内容をざっくり聞き取りながら、相づちの合間に写真を撮る。
穏やかそうに見えている周さんだが、創作物はそうではない。
依頼されたものが厳つい店主であれば角張ったものを、穏やかな店員さんが多いところでは花のモチーフなど、丁寧に聞き取りを行い、できるだけこの街や人に寄り添ったものを作り上げている。そんな姿に、オレは心底感動していた。
おかげ様で、最初は何の因果か転びそうになっていた俺の足も、もつれることなくスムーズに歩を進めることができている。この人は、なんだか聞き取りがうまい、というかついつい、いらないことまで話してしまいそうな雰囲気がある。ある意味、この人主体で話しているわけではないからなのだろう。
「……と、いうわけで、この喫茶店の店長さんにはだいぶ助けていただきまして」
「まさか食の援助まで、って」
「常連でしたから」
店長さん、こういうときはマスター、になるのか。
その人のことを話すと周さんはクスクス笑い始めた。思わずメモを書く手をとめて、彼の顔を確認する。
「作ったりは?」
「作っているうちに、つい創作に戻りたくなってしまって。私はどちらも、はできなかったんです」
「なるほど……似たようなもんかも」
つやっつやのピッカピカに磨き上げたシンクを思い出して、うんうん唸る。部屋を長期で開ける前は、いつもそうしているが、だんだんそこを汚すのが忍びなくなってきて、結局あいまいに食事をとることが増えた。
外食が多いというのは、どちらが原因かわからないなと、自分は思う。
「あなたの場合は、ご自宅にいない、ということでしょうか」
「あ。ばれました?」
周さんは俺のそういうずぼらなところもわかってしまったらしい。
恥ずかしいなあ、なんて思って顔を逸らしたとき、彼は不意に、顔を俺に向かって寄せてきた。レンズ越しの、ひとみ、が。
俺を。
「そうですね。あなたを手元に置くのはとても骨が折れそうで」
「て、手元?」
「冗談ですよ。この先、少し足元が悪いので注意してくださいね」
今のは何だったのだろう。
バクバクする心臓を押さえながら、手で指し示された路地の奥の方に進む。言われる通り、少しだけ足首やつま先にかかる力が、ちょっとだけ変わった。それほど入り組んではいない商店街を、十字に交差しながら歩いて行く。
そうしてこの街の出会いの中で生まれた、世界のカケラを一つずつ教えてもらう。
今まで、同じように歩いていたけれど、今日、周さんと歩いてるのが一番、しっくりきていた。まるで何年も前からの知り合いのように、呼吸を合わせる必要もほとんどない。不思議と足も軽やかになる。
「着きました」
「……案外」
「普通の家、っぽいでしょう?」
「は、はい」
辿り着いた場所は、ごくごく普通の、長屋の一角であった。
ここだといろいろ、作業をしていても怒られないんです、と彼は言ったところを見ると、彼以外の住人はこのエリアにいることが少ないのだろう。
「組み上げたり、実際に展示するものの加工をしたり、というのは、ここでは行わないので」
「え、そうなんですか?」
てっきりここで全部仕上げて、クレーンとかそういうのでやるんだとばっかり思ってました。ぎりぎり車も通れる幅の道でしたし!
そう告げると、周さんはまあそう思われても仕方がありませんよね、と小声で笑った。このひとはよく笑うんだなと、思った。
「きちんと、きまった場所でやります。だから、ここでは試作品までしか置けないので……あなたの記事の参考になるかどうか」
「いや、でもこんだけいろいろあったら、書けます。ありがとうございます」
「とはいえ、一応依頼品ですから、ええと書類関係や作品以外でしたら、撮影していただいてもかまいませんよ。一応、何を撮ったか、は見せていただければと思いますが」
「そりゃあ、もちろん! 問題あったら大変ですからね」
「ありがとうございます。じゃあ、早速ですが、撮影できないものの説明から、させていただきますね」
そう言って、周さんは筒状にしていた大判の紙を、何枚か取り出して、机上に広げた。広げられているのは、どうやらラフ、らしいがオレには正直、この図面のような何かを見ても、全くなにを見せられているのか、理解が出来なかった。ぐぬ、と眉間に皺を寄せたのがばれたのか、周さんは、わかりにくいものでしたね、と声を掛けてくれた。
「ええと、すみません……まったく無知で」
「いいんです。商店街で見たものとは違っていることさえ、理解してもらえれば」
「そうですね……なんか、こう、モチーフって難しいんすね」
「私の作るものは、わかりにくいとよく言われるので、そういう感想でいいんですよ」
「そういうものですか」
「そういうものです」
ラフを見せられたけれど、いまいち、納得できていない。
なにせ、先ほどまでぶらりと見て回ったものたちとは大分趣が異なっていたのだから。
まるきり、そのテーマに対して想像がつかない。
「とはいえどうです、今回の力作は」
「ぜんぜんわかんないんですけど、すげーっすね」
「ふふ、そうですか」
「……なんかたいした感想言えなくて、すみません」
「一言でも貰えたのだから、私はなにも」
「はあ……」
俺だったらもうちょっとこう、たくさん、ほしいとは思うけれど。
例えば応援のブックマークだったり、ここに行きましたのテキストだったり。なのにこの人は、その一息がないのが普通だという。本当に、不思議だ。
年上だから、というのもあるのかもしれない。確実に一回りは上の世代であることは、話し方からも、普段のなんというか、動作のゆったり感からもそう思わされる。
「ところで……本当にいまさらですが」
「はい」
「あなたのお名前って、聞いてもいいですか?」
「なまえ」
ぼんやりとだがブログの存在を伝えたのだから、ハンドルネームくらいは調べて覚えてくれるのではないか。なんて甘かった。確かに名刺もずいぶん前から切らしていてそれに代わるものも渡していない。やってしまった、と思っていたのは俺だけのようで、周さんは首を傾げたまま、こちらを覗き込んでいる。
「いえ、いつもあなたのことを、あの、とかそこの、とか呼ぶのも失礼かと」
「いやーべつに、そこは気にしていないというか」
「私の名前は、教えてしまいましたし」
「ああ、すみません!」
本当に、この人は俺の名前を知らないのだ。急にこわくなって、頭を下げた。そういう意味で、失礼だった。
「いえ、別に。単純に私が知りたいだけだったので」
「そう……ですか」
「ええ」
にこりと邪気なく笑うひとは、本当に自分の名前というコンテンツに興味があるのだろう。
わかりやすく伝えるにはこうするしかあるまいと、手帳に自分の名前を書き記す。そうして、謝罪の意味も込めて、きっちりと折り目をつけて、切り離したものを差し出した。
「あ、と、俺は咲斗です。ここに書いてる通り、花咲くの咲くに、北斗七星の、斗、です。さくとって結構言いづらいので、みんなサットとか、さとーとか、そういう感じで呼ばれるので、まあ適当に」
ふむ、と首を傾げると、自分の書いたメモをじっくりと眺めて、そのひとは、口を開く。
「咲斗さん」
かなりはっきりと、俺の名前が発音されたことに、動揺した。
こんなにくっきりと聞こえる自分の名前が、自分の口以外から出ること、もっと言えば、甘く聞こえる音が
「え、ああ……適当に、その」
「咲斗さん、ですね。わかりました。覚えましたので」
繰り返し告げられる自分の名前。
そうすると、なんだか別の意味合いを含んでいるように聞こえてきて。
「今後とも、よろしくお願いいたします」
じいと覗き込まれた瞳の奥、黒と茶色のマーブル模様が、俺を捉えようとぐるりと渦を作っているように見えたのだった。
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