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「また、この街に来てしまった」
何度目かの春。訪問する場所に限りはなかった。花の匂いも、風の吹き方も違う場所を旅して、写真とともにブログにアップする。
そこにいた自分を残すように書き続けていたものだったが、それなりに収益も出て、旅先での食事をちょっとだけリッチにすることができるくらいには軌道に乗っている。電車を降りてすぐ、自分のいつもの場所が変わっていることをチェック。そっちに行こうかどうしようか、迷っているときには、自分の心の赴くままに。
なんてコンセプトを決めていたはずなのに、何ヶ月かに一度はこの港町に来てのんびりと時間を過ごすようにしている。
自分がいいと思ったところなのだから、それはもう、仕方のないことだけれど、あえてこの街に来続ける必要はない。だが、どうしてだろう。迷いなんていつでもどこでも生まれてくるというのに、オレという奴は。
ここで目印にしてしまうのは、駅からだいぶ海の方にある、銘板も読めなくなった公園にある彫像だ。よくわからないうねりのようなかたちに、ついつい惹かれてこの場所に来てしまうのだが、改めてみても、やっぱりよくわからない。
このうねりの理由のひとつでもわかれば理解できるだろうか。
きまぐれに銘板をみてみたが、どうやら作者名らしいところに、エス、とだけ書かれていた。いや、もしかしたら作品名だろうか。ひとこと、複数系、と書かれている。
うーん、と頭をひねったところで結果が変わるわけでもないだろう。
「……複数形のエス、なんて、不思議な」
「あの」
「……っ、あ、はい!」
思いついたのはたったそれだけだったのだが、口に出したとたんに他人の声がして、思わず飛び退いた。
幽霊かよ、と思って足下をみたら、しっかり男物の革靴が見えてそろそろと視線を上げる。
男、だろうと思われる身長。多分180センチはあるだろう。170そこそこの俺が見上げるくらいだから、きっともう少し、高い。
「そんなに、気になりますか」
その男は目にかかりそうなうねりのある髪から、俺が不審者であるかのごとくこちらを覗き込んできた。
「ええと、まあ、その」
気になってはいた。が、どちらかといえば今、このシチュエーションのほうが気にかかるのだが。
しばし無言を貫いていたが、どうにも逃げ道がなくなったため、観念して口を開く。
「ええと……その。なんで、こんな名前なのかなーって」
「……」
「ああ、いや、変な意味とかではなく。その、単なる興味というか、ああでもそれは」
答えたというのにこれだ。ついていない。取り繕う言葉も詰まりながらで、いや、いい大人なんだからこういうのはなんか面倒というか。
男はしばしのんびりとまばたきをしたあと、ぬるりと口をひらいた。
「なんとなく……」
「はい?」
あなたの言った通りなんです。男はそう呟いた。
「ひとりじゃないと、いいなと思って」
「……は、い」
これはつまり。
この謎の「うねったなにかたち」こと「複数系のエス」というは、ひと、もしくはいきもののモチーフだったということで。
つまり、オブジェが、複数のいきもの、だったということで。
――正直全然わかんない。
そういう雰囲気が顔からにじみ出てしまったのか、明らかに目をそらされて、男はさらに話す。
「見ての通り、自分の作るものは、こう、並べて置けるものではないので」
「……はあ」
「ぽつんと立っていても、どこかでだれかと一緒にいるような名前に、しておきたいなと」
「それが、エス」
「はい」
ここまで聞いてくださって、ありがとうございます。朗らかに笑う彼は、流ちょうにそう告げてきた。が、そんなことを流ちょうに言っている時点で、おかしい。めちゃくちゃそういうことを言っているか、言う機会がなくて、という二択だ。
こんな、公共の場に置かせてもらえるだけのことをしているのに、このひとの芸術とやらに、誰も感心がなかったということ。
そんなの、なんか。
「ありがたがられることじゃないんで」
「……そう、ですか」
「でも。こういうの、なんか……ええと」
うらやましい? 違う。
息苦しい。ああ、たぶんそれはある。でも、この場で言うことでもないだろう。
「すごいっすね」
困ったときの一言を投げてみる。ざっくりと語るのは、そういう、かたちにならないものだ。
「ありがとうございます」
彼らもきっと喜びます、と言ったこのひとのほうが、よっぽど喜んでるじゃねえか、なんて思ったりは、した。
「あの、写真とかで広告しても大丈夫ですか」
「大丈夫です……自分はそういうの疎くて」
「じゃあ! 俺が、さっき聞いた話、ブログとかに上げても大丈夫ですか」
「ぶろぐ……」
「ええと、オンライン上の広告というか、個人の日記というか」
こんなことも知らないひとが、どうやってこの場所に、なんてことをまた考えてしまった。
いかん。これはいかん。
ついつい先走って口から流れ出る言葉を止められない。
「……いいですよ」
そのさみしげな微笑みをみて、俺は、思わず彼の服の裾を掴んだ。ざらりとした触感が、俺の皮膚にも伝わる。麻でも入っているのかもしれないと思った。
「じゃあ」
「?」
「あなたのことを、もっと聞かせてください」
とんだことを、口走ってしまったのだと気付くまで、およそ三十秒。
彼は髪の毛の合間でもわかるほど、目を見開いていたのだった。
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