第6話

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第6話

「失礼します。コーヒーです」  凛々しい颯斗の横顔に王子様を重ねときめいたものの、カップを差し出す手がぎくしゃくする。 「ねえ、俺にもちょうだい」 「あ、トリプルエスプレッソですね?」  そんな中、後ろから副社長に声を掛けられた。慌てて颯斗にカップを渡そうとして、彼の指に触れてしまった。びくっと手を引っ込めると、カップは宙を舞い、千尋の胸に盛大にコーヒーが掛かってしまった。 「うわっ! 火傷になったらまずい、早く冷やさないと」  颯斗は千尋の手を握り、躊躇(ちゅうちょ)なく引っ張っていく。洗面所に入るや否や彼は千尋のスウェットシャツに手を掛けた。  ぐいと持ち上げられ、あばらが浮いているお腹のみならずお(へそ)まで覗いているのが鏡に映り、いたたまれない。細い身体付きはコンプレックスだ。ましてや彼に抱く感情が、志望する会社の社長に対する憧れとは異質なものになりつつあることに千尋はうろたえている。  自分は男性に恋愛感情を抱いたりしない。こんな気持ち、ありえない。過去の苛めの体験がフラッシュバックし、千尋は自分を守るため必死に否定しようとするあまり、パニックに陥った。 「だ、ダメ……っ! やめてください!」  スウェットを引き下げ、激しく拒んだ。颯斗は一瞬固まった後、冷ややかに千尋を見下ろした。 「うちの会社で火傷(やけど)して、訴訟でも起こされたら厄介だから、手当しなきゃと思っただけだ。俺が無理やり脱がせようとしたとでも?」  千尋は自分に呆然としていた。彼が服を脱がせようとしてくれたのは火傷を心配してくれただけだ。頭では理解している。抵抗感は自意識過剰でしかない。  目の前の颯斗は、Ⅴネックのセーターから浅黒く逞しい胸元を覗かせている。彼の趣味はサーフィンやダイビング、ヨットなどのマリンスポーツだ。日焼けで髪の色が抜けてしまうので、不潔感が出ないよう明るめの茶色に染めて整えているのだと社員から聞いた。  顔立ちや体型のみならず日焼けした肌まで活かす颯斗は、大人の魅力的な男性だ。地味な服装に身を包んで群れに身を隠す自分とは距離が遠すぎる。バツが悪くて、スウェットの裾をそわそわ(もてあそ)ぶ。 「……勝手にしろ」  硬い声で言い捨てた颯斗の拳は強く握り締められている。くるりと背中を向けて彼はお手洗いを出て行った。  彼が去った後、恐る恐る服の中を覗き込んでみたが、肌は少し赤くなっているだけだった。念のために濡れタオルや冷凍庫の保冷剤を借りて冷やしたら、数日後にはすっかり肌の赤みも引いた。  肌を見られることへの抵抗感で、千尋は颯斗への恋心をはっきりと自覚した。とは言うものの、初めての気持ちをどう扱ったらいいか、皆目(かいもく)見当が付かない。そもそも颯斗とどうにかなりたいなんて大それたことを考え付く発想もない。雲の上の存在に積極的なアプローチなどできるはずもなく、遠くから彼の姿を見つめるのが関の山だ。 「どうせ僕みたいなキモオタを好きになってくれる人なんかいない。僕も恋愛よりゲームのほうが楽しいし」  そんな風に恋愛への憧れから目を逸らし続けてきただけに、()れもののように恋心も持て余すばかりだ。  むしろ自分の気持ちが颯斗や周りに知られるのが恐ろしい。社員たちの会話から推察するに、同性愛者だとバレたら、(いじ)られるに違いない。それに颯斗は、これまでどんな美人が言い寄っても冷たくあしらっていた。自分なんかに好かれても、気持ち悪がるだけだ。  虚しさで胸が抉れるように痛むが、本心からは目を逸らした。どうせ、この恋は叶うわけがないのだから。
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