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第10話
社内に郵便を配って戻る途中、オフィスの廊下で男性二人がひそひそ話をしているところに出くわした。姿は見えない。聞かないほうがいいだろうと踵を返そうとしたが、そのうちの一人が颯斗だと気づいて、足が床に張り付いたように動けなくなってしまう。
「鬼沢、インターンをいびったんだって? お前が社員に対しても距離を置いてるのに、一足飛びにインターンなんか構うからだよ。ただでさえ鬼沢の奴、颯斗狙いなのに」
含み笑いしているのは副社長だ。颯斗はうんざりしたような溜め息だ。
「……分かってるだろ? 鬼沢は実務能力を買ってるだけだ。俺は、社内恋愛はしない。社長が浮わついてちゃ示しが付かないだろう」
不意にお腹を強くパンチされたような衝撃に、千尋の呼吸は一瞬止まる。社員ですら対象外なら、インターンの自分など、全く手の届く相手ではない。息を詰め、そろそろとその場を立ち去った。
雑誌の記者が颯斗を取材に来た。
「一ノ宮社長の一日に密着させてください」
「よろしくお願いします。僕、社員から『普段の姿を社外の人に見せたら夢を壊すからやめてくれ』って言われちゃいまして。だから今日は普段よりちょっとおめかししてます」
そんな風にお茶目な笑みを浮かべた颯斗は、白地に茶色の椰子の木模様ジャケット姿だ。日焼けした肌によく似合っている。
「取材場所は社長のお席でいいんですか?」
「ええ。僕は密室の議論はしないので。メディアの人にする話を社員に聞かれて困ることもありませんし」
爽やかな笑顔でデスクの前に佇み、さり気なくポーズを取る颯斗に、カメラマンは小声で呟きながらシャッターを切った。
「ゲーム業界の巨人に挑む若きサムライ・一ノ宮颯斗。常にその身は現場の最前線にあり、か。映えるねえ」
サムライゲームの今後の展望などをひとしきり聞いた後、記者がおもむろに聞いた。
「ところで、芸能人のSNSでもちょくちょく一ノ宮社長をお見かけします。誰が本命なのか、はたまた特定の方はおらず博愛主義を貫いておられるのかが気になります」
「彼女たちはいいお友達です。若い女性と話すのはトレンドの勉強にもなりますしね。僕は恋愛の価値観は古いんです。恋人には僕だけを見て欲しいです」
「なるほど。芸能人は『みんなの恋人』ですからね。糟糠の妻的なタイプがお好みですか。一ノ宮社長ほどハンサムで有能な社長さんとなれば、我こそはと言う女性も多いのでは?」
「そこはご想像にお任せします」
なおも畳みかけてくる質問には苦笑するだけで答えなかった。
程良いリップサービスで自社に対する興味や関心を掻き立て、度を超した質問はサラッと躱す。メディアとの関係の匙加減を熟知している有能な社長が眩しすぎる。何より千尋は、彼が恋人の存在を否定しなかったことにショックを受けた。顔やスタイルが抜群で、軽妙なトークもできる頭脳を兼ね備えた芸能人ですらお眼鏡に適わず、一方では、密やかに愛を育んでいる大切な人がいることを彼は匂わせたからだ。
自分の恋の絶望的な叶わなさに千尋の胸は痛んだ。
届くわけのない気持ち、叶うはずのない恋だと最初から分かっていたはずなのに。
その日、千尋は体調不良を理由に、インターンを早退させてもらった。
「都倉君、大丈夫? 熱はないみたいだけど、念のために薬局でキット買って、検査したほうがいいかもよ」
ぎこちなく引き攣るような笑いしか作れなかったが、周りは体調の悪さとして受け取ったようだった。
帰宅した千尋は、空っぽのバスタブにうずくまった。硬質なプラスチックはひんやりとしている。曲線に背中を預けていると、静かなバスルームに呼吸が響き、肌の触れている部分が次第に温もってきた。自分の体温に包まれるのが、今の自分には相応なんだ。決して恋しい誰かのではなく。そんなネガティブな感情が久しぶりに湧き上がってくる。手足や身体が冷たく感じ、膝を抱いて顔を預ける。瞼が熱くて腫れぼったいが涙は出てこなかった。
どんなに焦がれても、相手が男の自分を愛してくれなければ千尋の恋は成就しない。千尋が、好きになった相手に恋心を打ち明けられる日は、いつやって来るのだろう。永遠に明けない夜の中にぽつんと取り残されたような孤独を嚙み締めながら眠れない夜を過ごした。
苦しさや悲しみも、創作へのエネルギーに変えよう。せめて一度くらい思う存分、自分の本心を表現しよう。バスタブを飛び出し、千尋はスケッチブックを開いた。これまでの案とは全く異なる、新しいラフを描き始めた。千尋は切実な思い――もはや祈りとも言える――を自らの作品に込める。そして、社内コンペの締切当日に提出した。
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