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番外編 さよなら鬼沢先輩
カフェを訪れた鬼沢が「プリペイドカードのチャージ残高を返金して欲しい」と言い出した。レジを担当していた店員は、生真面目に「それはできない決まりでして……」と謝る。
鬼沢の足元には大きな袋が二つ。肩にも大きなトートバッグが掛けられている。顔色も表情も冴えない。これは訳ありだろう。
「鬼沢さん。返金、いいですよ」
店長の恵衣子は横から助け舟を出す。「えっ」と驚く店員に「いいから」と目配せしてレジを替わりながら、鬼沢に話し掛ける。
「今日は随分大荷物ですね。もしかしてサムライで別のオフィスを立ち上げるんですか? それでしばらくこのビルには来ないとか?」
「いえ……。一身上の理由で退職することになったんです」
言葉少なで暗い表情に、恵衣子と店員は一瞬目配せした。これはますますもって訳ありだ。恵衣子は、鬼沢の荷物に素早く目を走らせる。サムライゲームでは、円満退社なら、花束や寄せ書きを同僚からもらう社員が多い。しかし鬼沢は、そういう贈り物をもらっている気配もない。
恵衣子たちカフェ店員は、カフェを訪れる社員の会話を聞く機会が多いので、彼らが思っている以上にサムライの人間関係に詳しい。「自分は仕事ができる」と自信過剰気味の若い男性社員などからは、鬼沢は口うるさいと煙たがられている。
だが、会社がきちんと法律や社会規範にのっとって運営されるうえで、生真面目な彼女が果たしている役割が大きいことも、幹部社員の会話からは窺えた。
そんな彼女がこんなに寂しくサムライを去る理由にも、心当たりは付いていた。社員たちの会話から、どうやらインターンの千尋の同性愛をアウティングする怪情報を社内に撒いたのが鬼沢で、それが千尋の恋人であり、サムライの社長・颯斗の逆鱗に触れたらしいのだ。
社長はベンチャー企業においては絶対的な存在だ。特に今のサムライは、まだ颯斗のカリスマでもっている。カフェに来る社員の口からも、颯斗に対しては畏敬や憧れの言葉しか出てこない。そんな颯斗を怒らせたとあっては、サムライに鬼沢の居場所はないだろう。
だが、恵衣子は、鬼沢がいかに颯斗に尽くしてきたかも見ていた。彼女は一秘書の立場を超えた感情を社長に対して持っていたかもしれないことにも、店でのちょっとした彼女の口ぶりから感じてもいた。
「鬼沢さん。これまで長い間本当にお世話になりました。私からこれ。お店のもので恐縮ですけど、感謝の気持ち。ささやかですけど」
恵衣子が店の焼き菓子を渡すと、鬼沢の目に涙が浮かんだ。
その時、店の扉を勢いよく開けて飛び込んできた男性が。
「鬼沢さん!」
「……都倉君」
今日は涙雨だ。湿度が高いからか、癖っ毛の千尋の髪はいつも以上にまとまりがない。だが、颯斗と付き合って以来、秀でた額を見せるように前髪をあげ、眼鏡も外してつぶらな瞳が明るく輝いている。彼はインターンシップを終え、早々にサムライから内定を貰ったので、今は学校のない時間帯にアルバイトをしている。
「サムライゲームでのおつとめ、お疲れ様でした」
千尋は優しく微笑んで、鬼沢に小さなピンクの花束を差し出す。
「……私が都倉君にしたこと、恨んでないの? あ。それとも、お邪魔虫がいなくなるから丁度いいかしら」
表情を硬くしている鬼沢に、千尋はかぶりを振った。
「みんなの前でゲイだってバラされたことは、正直すごくショックでした。でも、颯斗さんとも『インターンシップが終わったら、二人が真剣に付き合ってるって社内の人には言おう』って約束してたので。時期がちょっと早まっただけというか。
それに、僕は鬼沢さんには感謝してることのほうが多いんです。常識もなく仕事もできない僕に、一から色々教えて下さって、ありがとうございました」
「…………」
ようやく花束を受け取ったものの、言葉に詰まり、鬼沢は俯いている。
五年近く働いた会社を辞めるのだ。複雑な思いもあるだろう。
「颯斗さんも、立場上あんまり表立っては言えないけど、鬼沢さんがサポートしてくれて、すごく仕事がしやすかったそうです。……それと伝言です。『新しい会社でも頑張れよ』って」
颯斗の言葉を聞かされた鬼沢の目から、遂に大粒の涙がこぼれ落ちた。千尋はポケットからハンカチを出して差し出す。
「だ、ダメよ。借りたら返せないじゃない」
顔を歪め、手を振って断る鬼沢に、千尋は自分のハンカチを握らせる。
「こんなので良かったら持って行ってください。男は、泣いている女性に差し出すためにハンカチを持っておけって。母の教えです」
「……あなたって子は……」
涙が止まらなくなった鬼沢を、このまま立たせておくわけにもいくまいと咄嗟に気づいたのだろう。千尋がレジを振り向いた。きりっとした表情で、恵衣子にオーダーを告げる。
「カフェモカとカフェラテ、お願いします!」
「かしこまりました!」
聞かなくとも、鬼沢と千尋が普段何を好むか恵衣子は百も承知だが、千尋が社員のコーヒーの好みを覚えられるように教育したのは鬼沢だ。彼女への餞として、千尋から鬼沢のためのオーダーを受け、恵衣子は飲み物を作り始めた。千尋は、彼女の荷物をテーブルに運んでやり、椅子に掛けるようにと勧めている。
初めてこの店を訪れた時のおどおどした自信なさげな千尋が、爽やかな魅力あふれる青年へと成長を遂げたのは、恋人としてゲームクリエイターとして信頼と愛情を注いだ颯斗だけでなく、社会人としての心得を叩き込んだ鬼沢のお蔭もあったのではないか。
恵衣子は、カウンターにドリンクを取りに来た千尋に、頷きながら笑顔で二つのカップを手渡した。
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