あの日海岸で凍えながら語り合った君へ

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「……す、すみません」 「いや、いいよ。捨てるつもりで姉が下駄箱につっこんでいたものだから、遠慮なく履いて帰って」  靴が片方ない彼女をゆっくり椅子のあるところまで誘導しながら、どうしようかと俺は考えた。自転車の後ろに乗せて、イオンにでも連れて行くべきかと思ったが、ルールに反する。ふと、下駄箱に姉が随分前に買った青緑色のクロックスのサンダルがあることを思い出した。捨てるつもりは嘘だが、後で俺が買えばいい。十分間ここで待っててと言い、取りに帰った。サンダルを手に彼女の後ろ姿を見た時、心の底からホッとした。 「……で、どこから来たの?」  あまり刺激をしたくなくて、俺は一メートルほど間を空けて横に座り、出来るだけ穏やかな口調で話かけた。 「……○○市です」  …………!? 「はっ?遠いじゃん」   ここから二時間半はかかるところだ。単に海を見に来ただけではないな、これは。 「どうして今日はここに?」  見た感じ特に美人ではないが、うちの大学でよく見かける普通の……いや、可愛いい方かもしれない。丸顔でぱっちりした目に黒くて艶のある肩すれすれの髪、肩を抱きたくなるような華奢な体型。でも見た目はどうでも良かった。この子はクロックスを履いて無事に帰ってくれたらいい。  「じ、実習で……朝、家を出たんですが、行きたくなくなって……」  …………? 「何の実習?」 「……教育実習です」     そう言って彼女は、ショルダーバックに入っているジャージとエプロンを見せてくれた。   さっきから、何度も驚かせてくれる。海で人に話かけて三年目。もしかしたら最高ランクの珍種かもしれない。それから彼女は俺のことを親切な地元の人と思ってくれたのか、身の上を話し始めた。  今住んでる○○市はおばあさんの家で、実家は違うこと。短大の二年生で幼稚園に既に就職が決まっているが、本当になりたいのか分からなくなってしまった。家庭の事情で、学費をおばあさんが出してくれていて幼稚園に決まったことを喜んでいるから、今更就職先を変えられない。今日はどうにも気が進まなくてサボッて電車に乗った。どうせなら海を見て気分転換をしようと思って、ここへ来たようだ。  一通り話を聴いたが、靴の件について腑に落ちるようなエピソードは無かった。
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