27人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
朝比奈雛という名前に不満があるわけではない。だがなぜに両親はもう少し考えなかったのか、とは思っていた。
アサヒナヒナ。雛本人もどこかふざけているみたいだなと思う。
因みに雛の双子の弟は朝比奈櫂という。全然ふざけてないし、問題なく格好いい名前だ。
小学校に入った頃から『アサヒナヒナ』或いは『ヒナヒナ』と呼ばれ始めた。
まあそう呼びたくなるだろうなと思い、雛はその力が抜けるような呼び名を黙って受け入れた。
中学に入学すると苗字呼びが台頭してきた。比率としては『朝比奈』と『朝比奈さん』がほぼ半々。たまに雛ちゃん。
ヒナヒナ呼ばわりするのはギャルの人たちだけだった。
関係ないが、ギャル発音で「ヒナヒナぁ?」と呼ばれるのは結構好きだった雛である。
実はあまり人付き合いでは苦労しなかった。それは目立つタイプの弟に比べ、存在感が薄かったからだろう。
そんな朝比奈雛の中学生活でひとりだけ、使う呼び名がシンプルに「雛」だった人間がいた。普通に名前を口にしているだけなのに、やけに特別に聞こえた。
ほぼ家族しか使わない呼び名。その彼女が発音すると、それこそ本当に小さな鳥に呼びかけているような響きになり、少しだけ甘やかされている気分になった。
「いつも、何を聴いてるの?」
急に目の前に顔が来て、雛はびっくりした。すぐ前の席を借りた彼女──加納環は、椅子を跨いで逆向きに座っていた。驚くほど長い脚が余り、腰を引くようにして猫背になる。何をやってもサマになる人はこんな行儀の悪い仕種も格好いいのかと、凄く感心した。
「ごめん。朝比奈さん困ってる? つい気になっちゃって」
「いや、ちょっと驚いただけ。ええと…これピアノ曲なんだよね。流行ってるやつとかじゃなくて」
「へえ……朝比奈さんて校則は守るタイプっぽいのにソレだけは絶対学校に持ち込むから、つい興味持ってしまったの」
環がソレと言って目を向けてきたのは、当時まだ真新しかった音楽プレイヤーだった。仰る通り確かに校則違反である。
雛は制服の胸ポケットからオレンジ色のプレイヤーを取り出し「いいでしょこれ」と言いながら環の手のひらに乗せた。
「へえ。8ギガだ。こんな可愛い色もあるんだね」
そう言って笑った環は、雛の目には眩しいほど美しかった。笑っただけで光が舞うようなエフェクトがかかる。
一年生の頃から学校イチの美女との呼び声も高く、列を成して告白されたとか、スカウトされたとか、雛にさえ噂は聞こえてきていた。しかも忙しいことに彼女は女子からもめっぽうモテたのだ。
背の高い環は、いつも人だかりの中を泳ぐように歩いていた。ひっきりなしに話しかけられ、移動しながら返事をしている様子をよく見かけた。
得意になっているわけでもなく、嫌がっている素振りもなく、ただ少し困惑している様子が見て取れた。
「加納さんって音楽好きなの?」
雛は思い切ってそう訊いてみた。すると環は少し考え込んだ。
「音楽は、これから好きになる。実は私もプレイヤーを買った。そんでもって、イヤホン……できればヘッドホンを使う」
断固とした言いように、今度は雛の方が笑った。
今となっては、彼女が外部からの刺激を遮断したいと考えるのはごく当然のことに思える。とにかく環という人は、静かな毎日を望んでいた。
「加納さんておもしろいね」
「そう? 良かったら環って呼んで」
「あ、じゃあ私も……なんとでも呼んで」
どうせ好きに呼ばれがちなのでそう言うと、環は真剣な顔をして分かったと言った。
「じゃあ雛って呼ぶ。そう呼びたかったから」
その時の彼女の声を雛は今でも覚えている。
やけに、その場にそぐわないくらい生真面目な言い方だったから。
「いい?」
大事に呼ぶ、何度でも。貴女が、許してくれるなら。
とても綺麗な静かな目で、環はそう伝えてきた。
「うん。雛でいいよ。環。タマキ……ええと、これ、聴いてみる?」
イヤホンを外して差し出すと、環は「嬉しい」と呟き長い髪を耳にかけた。
ふたりが初めてちゃんと話した日。
それは同時に朝比奈雛が、自分の作った曲を初めて人に聴いてもらった日となった。
◇◇◇
『繰り返し聴くうちに、夜が明けていました』
雛が気の向くままに作ってきた曲は、もう二百曲を超えた。それらは全てネットの海を漂っている。十五歳で始めた作曲を大人になっても続けているだなんて、あの当時は想像もしていなかったけれど。
ネット配信は記念であると同時に、アーカイブの役割も持たせていた。だからちょっとしたフレーズから長めの曲まで、作った順番に並んでいる。
聴いてコメントを残してくれるのは主に常連だ。ご新規さんもごくたまに来るが、それほど賑わってはいない。作曲者の顔出しはなし、コメント返信もなしというチャンネルなので、余程気に入ってくれなければ聴いても通り過ぎて行くだけだ。
雛はその夜もラップトップを開き、ぼんやりと再生回数を眺め、三日前にアップした曲を聴いてみた。
「うーん」
富士山の静止画を背景に、ピアノ曲が流れる。雛が自分の曲を聴くのは、だいたい次の創作へのアイドリングのためである。
「うーん」
唸りながら隣の部屋へ足を向けると、だんだんイヤホンの音にノイズが混じって、ちょうどピアノの前に着いたところで音が途切れる。そこがワイヤレスの限界点で、作曲のスタート地点だ。
先日上げた曲には初めてタイトルをつけた。
思い入れ、みたいなものは隠しておきたい性格だが、結局『circle』と。
迷った挙句に、恥ずかしくなるほど露骨に。
チャンネル登録者数は長年続けているうちにじわじわと増えてはいる。聴いてくれる人たちをモノ好きと思ってしまったら雛としても残念なので、好事家と解釈している。そう、好事家。渋い。いつもありがとう。
最新曲以外は、十五年前から振っているシリアル番号のみで区別している。
だからその、出来心でつけてしまったタイトルは余計に目立った。
───よかったら聴いてください。
概要欄にはその一言。一切の説明はなし。ずっと変えずに続けてきたスタンスだ。
雛は鍵盤に手を置いてみた。だが指は動かなかった。
理由は分かっている。『circle』についたあのコメントが、頭から離れないからだ。
『繰り返し聴くうちに、夜が明けていました』
囁くような、日記のような、感想のような。
指は動かず、どうしてもメロディへと繋がらない。
おそらく初めて書き込んでくれたコメントだろう。[ten]というアカウント名は雛の記憶にはない。だから普段はコメントをしない人なのかも知れない。
雛としても感想は嬉しいし、全てのコメントには目を通しているが、絶対返信はしない。動画配信サービスを使い始めた頃、雛はまだ子供だった。始めのうちはサービス自体が日本語に対応していなかったので、英語で飛んでくるメッセージにまごまごしているうちに返信し損ねたのだ。ネットリテラシーのカケラもなかった雛だが、女子中学生の野生の勘はなかなかな鋭かった。そのまま正体不明のままでいた方が安全だと判断したのだから。
一音鳴らしては首を傾げ、和音を弾いては唸り、雛は今夜はもう悪足掻きしない方がいいだろうと判断した。調子が悪い。
「…………酒持って来い」
雛は冷蔵庫でハイボールの缶を見つけ、これいつのだっけと思いながらグラスと氷を用意した。
ここ数年夏の終わりから秋にかけて気持ちが塞ぎがちになる。おまけに少々やさぐれてもいた。歯医者の費用が予想以上に嵩んでしまったからだ。
部屋の中を動くたび、雛の視界の端に濃い気配がよぎる。
七年間生活をともにしてきた、音を伴わない残像たちだ。
冷蔵庫を覗き込む環の背中。グラスを爪で弾いて氷を揺らす癖。ゆっくりとした瞬き。
「もう、七年になるんだよ。貴女が消えてから」
雛はハイボールを一口飲み、すごく酔っ払いそうな味だと思った。なんとなく買い置きしていたのは、缶のデザインに見覚えがあったからだ。
(よくこれ飲んでたもんねえ)
グラスを色々な方向に傾けてみると、締まった氷がカチカチと音を立てた。
ずっと、もうずっと、今にも玄関の鍵が開いて、彼女が普通に帰って来るような気がしている───気がしたまま七年。
慣れないアルコールは、あっと言う間に回った。頭を動かすと脳の中身が遅れてついて来る感じがして、それが楽しかった。
あのオレンジ色のプレイヤーは、もう雛の手元にはない。どのタイミングで手放したのかも覚えていない。
失くすと取り返しがつかないものがあるなんて、子供の頃は考えもしなかった。
(いや、けっこう大人になるまで考えてなかったよねえ……ああこのお酒良くない。飲んじゃうやつだ)
ごめんね、さよなら雛。
元気でいてね。
残された書き置きは短いもので、確かに環の筆跡だった。これだけで自らの意思で消えたのだと分かるのだから、書き置きは必要なのだなと思った。ずっと後からだが。
そしてもうひとつ。
彼女が振り切ろうとしたのは、仕事でも環境でもなく、朝比奈雛という人間なのだと確信した。いなくなった理由は見えないままなのに、それだけははっきりと。
十五歳だったあの日初めて聴いてもらったのは、たった十六小節のフレーズだった。
聴いてすぐ環は、作った曲を全部聴かせてと言った。勢いに押された雛は彼女のプレイヤーに全データをコピーした。それこそ習作や作りかけまで根こそぎ。
その翌日、環は朝一番に雛の席まで来て、こう言ったのだ。
「夜通しずっと聴いてた。気がついたら夜が明けててびっくりしちゃったわ」
あの長い髪には、それからヘッドホンの癖がつくようになった。
◇◇◇
次の日はひどい二日酔いだった。
朝比奈雛、三十歳。代謝の落ち具合いを実感しながらぼんやりと水を飲み、休日の午前中を棒に振った。
夢うつつの中ずっとメッセージ音が聞こえていたが、多分弟の櫂からなので放っておいた。
「───ダメだわ、今日髪切るんだった」
雛は予約を入れていた過去の自分を呪いつつ、スマホで確認した。やはり今日だ。
『ひな、カットの予約入ってるよ。今日だよ』
『明太子もらったよ』
『お裾分けするからね』
『そういやこの前美里さんが来てくれてさ』
ひとつも返信していないのに、構わずどんどん来ている。いかにも弟らしくて雛は苦笑した。
人懐っこい櫂は客商売が天職のような男だ。高校を卒業するとさっさと東京に出て、美容師になって、ついでに伴侶まで連れて帰って来た。それも世界レベルの超一流モデル。カロリーナという赤毛のチェコ人だ。あのときは関係各所がたまげたらしいが、家族だって相当たまげた。
「何時予約だっけか……あと一時間もないんかい」
雛は慌てて出かける準備をした。顔を洗い、適当に化粧をして適当な服に着替え、寝癖が酷いのでキャップを探し回った。
大学に入る年に巡り合ってしまったこの物件。2DKプラス防音室という変わった間取りである。
十八歳当時の雛は部屋探しサイトを眺めながらうんうんと唸った。家賃が高い。だがピアノが置ける。設備の割には良心的なお値段。だがやはり高い。仕送りをやりくりし、バイトをかけもちしても苦しいだろう。だがピアノが……
その様子を横で見ていた環が突然言ったのだった。
「それじゃ家賃折半して一緒に住もうよ。私の大学も同じ沿線だし、一本で行けるから」
今にして思えば……と、雛はその頃を振り返った。
(結局私が甘えてたんだよな。環には防音室なんか必要なかったんだから)
友人と楽しく暮らせるのならと、雛は深く考えずに環と同居した。違う大学に通い、タイミングが合えば一緒に過ごし、時には深い時間まで話をした。
環という人は静かで、無駄に動かず、持ち物も少なかった。雛が一番覚えているのはダイニングでぼうっとしている彼女の姿だ。あまりにも動かないのでたまに心配になるくらいだった。存在感はとても大きいのに生活感はほぼないのだ。雛が見ていないときは、彫刻にでも戻っているのではないかと疑ってしまうくらいに。
学生時代、環はスクールカーストの上位のそのまた雲の上みたいな場所にぽつんと鎮座していて、恋人がいたのかどうかも謎のままだ。年々美人度が増すにつれ、馴れ馴れしく話しかける人間も減っていたように思う。雛にとっては雛と一緒にいた環が全てだったので、あまり詮索することもなかったが。
「こんなところに」
雛はようやくキャップを見つけてかぶった。もうあまり時間がない。
空っぽになった環の部屋は、現在は開かずの間になっている。そこを閉じても雛の生活の仕方や動線になんの影響もなかった。
◇◇◇
櫂が経営する美容室は、雛の家から徒歩二十分の場所にある。
到着すると受付の若いお嬢さんに「いらっしゃいませ、ご予約……あ、お姉さん!」と言われ、雛は今度こそ彼女の名前を覚えなければと目を凝らした。だが名札を見ても読めなかった。フォントがおしゃれ過ぎて。
内部は天井の高い凝った造り。植物園の温室を思わせる採光は、非日常的なのに温かみがある。
なんと言っても最初に目につくのは、受付カウンターの真後ろに飾ってある巨大パネルだ。それはモードに振り切ったモノクロで、スーパーモデルのカロリーナ・エリシュカが凄まじい存在感を放っている。どこぞの巨匠のご作品らしい。これは誰かと人に問われれば、櫂は「僕の奥さんでーす」と元気良く答えるだろう。その肖像は「僕の奥さん」的な響きからはあまりにもかけ離れているが、櫂は気にしない。櫂だから。
観葉植物が増え続けている店内には、巨大パネルの他にもカロリーナの写真がたくさん飾ってある。こちらは櫂が撮ったものだ。フレームの種類も大きさも様々で、ランウェイモデルとは思えない日常的なショットだ。注意して見ないとパネルと同一人物とは分からないだろう。
朝食を食べる彼女、クラブで踊る彼女、読書をする彼女……などなど。
よくあるプライベートを装った作品とは明らかに違う。それは家族による、家族の日常。櫂の目が見た彼女の姿なのだ。
(これが義妹とは、人生って分からない)
雛は薄々と、自分はやけに美形に縁があるなあとは思っていた。だがそんな変な星回りもスーパーモデルまで行き着いたとなると、もうこの先は何が来ても驚けない気がしていた。
「櫂さん聞いてよ、めっちゃ忙しくてなかなか来られなかった! 伸びちゃってすごいでしょ」
鏡の前に座った女性客が櫂に声をかけていた。
「長いのも似合ってますよ。上手に巻いてるなあって、いらしたときから見てました。そっかそっか、二か月ほど開いてて……じゃあ今日はどうしましょうか」
雛は高そうなソファに埋もれ、弟の営業トークを聞きながら待った。気配を殺していたが、すぐに櫂に見つかった。
「あ、ひなー。もう少し待てる?」
櫂が手を振りながら呼ばわるので、雛は小声で「待つから大きな声出さないの」と言い返した。案の定周りからは「なにこの人」と注目される。
「双子の姉なんですよ。あいつ変な奴で、普通にネットで予約入れて来るんです」
店まで来なくても切ってやるのにと櫂は言う。だが雛としては身内の技術にタダ乗りするのは気が進まない。なので毎回アプリで予約を取っているのだが。
「へえ、そうなんだ。よおく見れば似てる? ウフフ。よく見ないと似てなくてえ〜でもよく見たらすごく似てる」
結局似てるんだか似てないんだか分からない。
雛はそのお客さんに会釈をして、スマホに溜まった通知に目を通すことにした。
「やっぱり…………やらかしてる」
スパムメールを消し、公式アカウントからの諸々を消し、自身のチャンネルにログインしてみた。夢だと思いたくて確認していなかったが、やはり昨夜あのコメントに返信してしまっていたのだ。
(ああ、酒よ。何してくれるんだ)
『繰り返し聴くうちに、夜が明けていました』
特に変わった言葉でもない。
けれど雛にとっては泣きたくなるくらい彼女を思わせたコメントだった。しかも迂闊にも彼女の名をつけてしまったあの曲に。
酔っていたので細かい記憶はないが、全く普通に「ありがとうございます」と返信していた。変なことを書き込んでいなかったので一安心したが、チャンネル開設以来初めてのミスであることに変わりはない。
そのコメントの主[ten]という人物の登録チャンネルは公開されていて、表示されているものは雛のところを含め、音楽系ばかりだった。あの曲を特別に気に入ってくれたのなら嬉しいなと思ったり、単なる気紛れかもと思い直したりする。
何にせよ返信が目立つ。雛としては特に騒がれてもいないうちにオロオロするのは恥ずかしいのだが、十五年間ひたすら曲を上げるだけだった配信者が唐突に口を開けば、気付いた常連は変に思うだろう。
(削除するのも相手に失礼だし、いやもう、しくじったわ。どうしよう)
迷っているうちに櫂に呼ばれてしまい、雛は案内された席に着いた。
「ひーな。キャップ預かるよ。うわ、めっちゃ起き抜けやんけ」
寝癖を触りながら櫂に言われ、雛は頷きながらスマホをポケットに押し込んだ。ひとまず対処は先送りにし、またあとで考えようと思った。
「元気? どうするよ。いつも通り?」
「うん」
「うんじゃないよ。たまにはさあ……まあいっか」
文句ありげな櫂と一緒に、すぐにシャンプー台へ移動した。
「はーい倒すよ。いやもう少し上だよ。座るの下手かよ」
「按配が難しいんだよこの椅子。なにもあんたがシャンプーしなくてもよくない?」
櫂の店ではシャンプーは他のスタッフさんに任せているはずなのだ。
「他人に自分の姉ちゃん洗ってもらうのって変だろ」
「いや知らんし。知らん過ぎるし」
「頭皮が浮腫んでるんだけど」
「……昨日飲んだから」
「珍しいね。あ、俺言ったっけ? 美里さん来たの」
「LINEで言ってたじゃん。美里さん元気なの?」
「元気そうだったけど。てか、ひなの方が会うだろ。同じ職場なんだから」
「会わない。部署が違う」
「美里さん」こと点鬼簿美里は雛たちの実家のお隣さんである。雛と櫂は子供の頃からずいぶんと可愛がってもらった。朝比奈の両親はともに夜間勤務や泊まり込み勤務がある仕事に就いていたので、それはもう、足を向けて眠れないくらい、お世話になったのだ。
美里は「盲」に分類される視覚障害者で、盲学校に学び理学療法士として働いている。その影響を微妙に受けたのか、雛も今は同じ病院で働いているというわけだ。但し雛が選んだ職は臨床検査技師だったが。
「んで、了が来た話とかしてさ」
「へえ。あの子帰って来てたんだ。今どうしてるの?」
「連絡取ってみれば?」
「連絡先知らない」
「マジかよ衝撃だな」
たまに会う身内あるあるだ。手っ取り早く情報交換をしようとするので、次から次へと人の名前が出てくる。情報を持っているのは大抵櫂の方だが。
因みに了とは美里のひとり息子で、雛たちの幼馴染である。
「あとで明太子忘れんなよ。冷凍してあるから持ってって」
「うん。ご馳走様」
シャンプーが済みまた席に戻ると、雛の視界は前よりかなり明るくなっていた。軽くマッサージされただけでこうも違うものかと感心してしまう。
「さて」
櫂はスタッフにいくつか指示を出すと、鏡越しに目を合わせながら髪を拭く。おそらく単なるクセなのだが、雛は知っている。これだけで女性客がぽうっとなっていることを。
櫂の顔は、パーツそのものや配置などは雛ととても似ている。双子だけあって。
だが彼はにこやかで洒脱で、とても雰囲気がある。おまけに関わった相手に「自分のことを特別大切に思ってくれている」と信じさせてしまう何かを持っていて、昔はそれがトラブルの元になったこともあった。決して思わせぶりな態度など取らないのに、厄介な魔性なのだ。
雛は弟が早くに結婚したことで、とてもとても安心した。なにせ、櫂は普通に健全に生きているだけなのに、周りで勝手に痴情がもつれるのだ。危ないったらない。
櫂目当ての女性客がほとんどのこの店で、変に想いをこじらせたり、ストーカーと化したり、そんな恐ろしい被害が出ないのは、カロリーナが櫂のパートナーだと知れ渡っているからだろう。ランウェイの女神の結界は強力で、雛は姉としていくら感謝してもし足りないくらいなのだ。
「ここらへんに色入れようよ。オリーブとか似合うよ」
「ヤダ」
「何年同じスタイルなんだよ。同じような服着て、同じ部屋に住み続けて」
「私の勝手だよね」
「俺がつまんないんだよ」
「いいから二センチ切りやがれ」
「ハイハイハイハイ。で、連絡来んの? 加納さんから」
「来ない。知ってて訊かないでよ」
「訊くよそりゃ。いつまで待つつもりだって意味だから。嫌味だから。ひな、嫌味って分かる? 」
棘などひとつもないような声。だがさすが弟。雛の痛いところを突いて来る。
環と折半していた家賃を払い続けるのも、そろそろ限界だ。雛は臨時職員なので、それほど給料は良くない。技術職ではあるが、年次を超えて再任用されるとも限らず、次第に何でも屋のような働き方になる。この世界、経験と技術を極めてさらに認定資格を取る者も多いが、臨時の身分ではなかなかままならない。今のところ何でも屋なりに需要があるので、色々やっているわけだが。
(まあ、それもだんだん苦しくなってきたよなあ)
昨年から今年にかけて配信用の機材が壊れたり、虫歯になったり、色々な出費が嵩んだのもある。
「……近いうちにどっか、いいとこが見つかったら引っ越すかも」
「ふうん。ピアノはうちに置いてあげるよ。実家に送り返すわけにもいかないだろ。どうせ母さんが空いた部屋は物置きにしてるだろうし」
「んん、まあ、ピアノの処分も含めて考えてる」
「電子ピアノにするの? 」
「検討中」
「───よし出来た。どうする? キャップ被るならそれ用にアレンジするけど」
櫂がオイルを手に取ると、柑橘系スパイスのような香りが広がった。
キャップを被るための髪のアレンジなんて、雛には想像もつかない。だから一応首を横に振ったのだが、櫂に無視された。ダセェ髪で自分の店からは出さないということなのだろう。
雛が適当にしまいこむつもりだった前髪は絶妙に出され、後れ毛のようなそうでないようなピロピロも散らしつつ巻く…みたいなことをされる。こんなピロピロ毛束にまで手間をかけるなんて、厳しい世界だ。
◇◇◇
雛が帰宅すると、まだ三時過ぎなのに西日の気配がした。
秋だなあと思いながらもらった明太子を冷蔵庫にしまい、嫌々ながらまた動画サイトにログインした。チャンネル名は『朝マック会議』。
雛にはもう女子中学生の考えることは分からないし、なぜそんな名前にしたのかも覚えていない。自分のことなのに恐縮だが。
なにせ辺境のチャンネルだ。慌てたところで、誰もコメント返信のことなど気にしない…かも知れないのだ。
(むしろ気にしないで欲しい。私も気にしないから。いやでも、残しておくと悪目立ちする?仮に黙って削除したらこの[ten]さんが気を悪くしたり気に病んだりしない?そもそもこのコメント、環っぽすぎない? 環っぽいコメントするなら、ひょっとして環っぽい人だったりしない? なんなら環だったりしない? )
雛は行きつ戻りつグルグルと考え、三周目に入ったあたりでダイレクトメッセージが来ていることに気付いた。
「これって……」
キャップを被ったままなのを忘れて身を乗り出したので、ラップトップの画面に鍔がぶつかった。DMは[ten]からだった。
『朝マック会議さん、コメントにご返信ありがとうございます。大丈夫ですか? もしかして間違えました?』
全然分からない。貴女なのかと目を凝らしても、当たり前だが何も、どうにもならない。
『tenさん、ご連絡ありがとうございます。間違えました。いえ、間違えてはいないですが、聴いてくださってありがとうございます』
雛はそこまで入力して一度送り、深呼吸をした。
ちゃんと分かっている人だと思った。わざわざ裏からDMをくれて、間違えたのならそれでいいよと。
『とても美しい曲ですね。思い切ってコメントしてみて良かったです。返信は削除していただいて構いませんので、良きにどうぞ。これからも応援しています』
軽やかで、大人で、気遣いに満ちた文章。
再度御礼を言って対処すれば、それで終わりなのだ。ありがたくこの配慮に乗っからせてもらうべきなのだ。
だがそれに乗れば、この[ten]の正体は分からないままになる。
(返信しなきゃ……どうしよう、いきなり個人的なことを訊くわけにもいかないし)
雛が文面に迷っているうちに、もうひとつメッセージが飛んで来た。
『すみませんもうひとつ。厚かましいかと迷ったのですが、この曲の楽譜を公開してらっしゃいますよね。ピアノは初心者なのですが、個人的に練習させていただいてもよろしいでしょうか?』
そうして、あと一歩で切れたはずのやり取りは繋がった。
まるでチャットのように、何度もメッセージが往復した。ピアノのこと、著作権のこと、お互い今日は仕事が休みだということ。
続けば続くほどに環なのかどうか分からなくなった。環か否かどころではなく、年齢も性別も雛には見当がつかない。なのに、胸が痛くなるほど懐かしい気持ちになるのだ。困ったことに。
『───そうですね、弾いていただくのは全然問題ないです。でもアップしたpdfが曲の途中までしかないので……』
むしろなぜ中途半端なものをアップロードしたのか。適当な性格が浮き彫りとなり、大変気まずい。
『今、全部見ました。本当ですね、途中で終わっていますね笑』
『すみません。変換アプリを使ってみたけど、思いのほか面倒で途中で飽きてしまいました。でも手書きのピアノ譜はあるので、』
───よかったらお送りしますよ。
そこまで入力して、雛は手を止めた。
送信する前に踏み止まろうと、息を吸って、吐いて、意味もなく目を閉じた。
酔って送った返信から、こんな流れになるなんて、なんたること。酒で道を踏み外すとは、こういうことなのか。
目を閉じたまま、雛は考えた。オフ会も、出会い系も、オンラインゲームさえ経験がないのに、今の自分はセキュリティも何もあったものではないのではと。
(貴女なの? いや、冷静に考えたらそんな可能性は低いよな)
環は作曲者が雛だと知っているのだから、わざわざコメントなど残すわけがない。
なのに万が一を捨て切れない。
雛はゆっくりと目を開けた。
いつの間にか夕陽が部屋に侵入し、ダイニングテーブルを斜めに掠め、アジアンタムの鉢に届いていた。
薄い葉が密集する部分に光が差し込み、ところどころが鬼灯のような色合いになっている。
環が大切にしていて、そして環が置いて行った生き物。
観葉植物など育てたことがなかった雛は、水をやる度に枯れさせてしまわないかと怯えていた。今だっておっかなびっくり世話をしている。
ゆっくりと色を変える葉を眺めながら、雛はそのメッセージを送信した。
◇◇◇
結局帽子さえ脱がないまま、再度出かけることになった。雛の方から「よかったら楽譜のコピーをお送りしますよ」と提案してからまた話が逸れて、二転三転したのだ。お互いの現在地が(さすがに具体的には明かさなかったが)かなり近いと分かり、急遽ブツの受け渡しが決まった。[ten]は雛が思っていた以上にあの曲にこだわりがあり、だからこそ彼女も思い切って訊いてくれた様子だった。
「彼女……アレ? 結局性別どっちなんだろ」
駅前の適度に賑わっている店を待ち合わせ場所に決めたが、歩きながら雛はだんだん不安になってきた。
年齢、性別、住所、職業……もちろん名前に至るまで、何も知らない。
訊いたところで詐称されたら終わりだし、この場合どちらが誘ったのかもはっきりせず、お互いに会いたいがお互いに遠慮もしていて、更にその遠慮をお互いに察しているのだから複雑だった。
「二人きりにならない。相手の車に乗らない。自宅、カラオケ、ネカフェはだめ……それから何だっけか」
付け焼き刃ながらネットで調べた注意点などを反芻してみる。注意点といってもマッチングアプリ用なので、相手が女性ならまた内容が違ってくるのかも知れない。
トートバッグの中でスマホが震えた。またDMが来たのだ。
『黒のデニムジャケット、カーキのバケットハット、パンツは黒です。身長184cm、ヒゲなし』
───男の人だ。
消さずに残していた可能性が、あっさりと消えた。いくら環でもそこまで大きくない。ヒゲもない。
不思議とそこまで気落ちはしなかった。
雛は雲の隙間から滲んで来た夕焼けを眺め、誰かと待ち合わせするなんて久しぶりだなと思った。
会いたくて、会いたくて、けれどそれ以上に会うのが怖いのだと、とうに自覚している。
彼女に似た人がこの世にいるなら、それはひとつの幸せではないか。嬉しい。おめでたい。
雛はそうかそうかと頷きながら[ten]の服装を頭に入れ、ハッと気付いて自分の服を見下ろした。こっちの情報も送っておかねば。
『紺白ボーダーTシャツに黒のMA-1。パンツとキャップがカーキ。身長は162です」
なんだか犯人の目撃情報のようだ。
実は服装のことなど深く考えていなかったので少し慌てたが、櫂のおかげでいつもよりちゃんとしてたので安心した。髪を巻くのは偉大な行いだ。
『着きました。喉が渇いたのでお先に飲み物買ってます』
[ten]はひと足先に店に着いたようだ。
待ち合わせたのは、有名なファストフード店。駅前の信号を渡り、自動ドアをくぐると、入り口に近い席から立ち上がった人物がいた。
背丈でその人だと分かったので、注文カウンターを指差す。飲み物を買ってから合流したい旨は伝わったので、列に並んだ。
やっぱり知らない人に会うのは緊張する。
雛はバッグを触って確認した。楽譜のコピーはちゃんとある。クリアファイルに挟んだから大丈夫。ここは安全そうだし、あの人もちょっと大きいけど危険ではなさそうだし、何も問題はない。
(ああでも、アイスカフェラテじゃますます喉が渇くかしら。でも買っちゃったし。うわ、この人、思った以上に若い。それにでかい)
「あの、初めまして。こんにちは。これ、楽譜です」
「───おまえか」
「え?」
あまりに失礼で、なのにあまりにいい声だった。雛は混乱して相手の顔を凝視してしまった。
「おまえ……?」
「何だよ『朝マック会議』って」
「待って、おまえ?」
確かにそう言った。聞き間違いではない。
雛は取り敢えずカフェラテを飲んでみたが、やはり喉の渇きは解決しなかった。
「やり取りしてると微妙に探って来るし、そもそも探るのも下手だし、こっちのことひとつ聞き出す間に三つくらい自分の情報漏らすし、なに考えてそんなセキュリティガバガバなんだよ。危ないだろが」
「[ten]さんですよね?」
「ten。点鬼簿了。覚えてないのかよ?」
「───了ってことはつまり、あなた、点鬼簿さんちの了ってこと?」
「だからそう言ってるだろ」
脳が勝手に、点鬼簿のtenとか安易すぎでしょなどと、あまり関係ないことを考えてしまう。一種のショックアブソーバーだろう。
なにしろ環かも知れないと思っていたら違う人で、違う人のつもりでいたら、今度は幼馴染だと。
めまぐるしいにも程がある。
「何年…十年以上振り? 」
「おまえが大学入った年からなら、十一年。でも言っとくけどそのあとも会ってるぞ。俺が大学辞めた年にもちらっと」
「……それ、あんまり覚えてないかも。そうか。確か大学辞めて、劇団入ったのよね。アレ? そこらへんの記憶がちゃんと更新されてないんだわ。ガキんちょの了の顔しか思い出せない」
雛は面影を探しながら了(仮)をしげしげと見た。
黒目が大きい三白眼。睫毛も眉毛も濃いのに、手の指なんか長くてツルツルで、そもそも手がものすごく綺麗だ。都合の良い場所のみ毛が生える体質なのだろうか。
「顔が……」
「思い出したか」
「ものすごく小さい」
「ふざけんな。ずっと見ておいてその感想か。それ飲まないならこっち寄越せ」
点鬼簿了(自称)は口が悪かった。そしてテキパキしていた。
雛のカフェラテを奪うと、それを飲みながら注文カウンターへ行き、すぐにもう一つ飲み物を持って帰って来た。
「アイスティーでいい?」
「……あ、はい」
なにせ喉が渇いていたのでとてもありがたかった。だけど雛の警戒心は募った。何だろうこの、無愛想で卒がなくて、いかにも慣れていそうな男は。
「あの、今あなたいくつ? てか、仕事は? なんで楽譜を? そもそも………」
「職質かよ……騒がしいなここ。移動するか」
了らしき人は席を立ち、さっさと移動を始めた。
「あ、待っ」
「なに、食い物買う? ハンバーガーとか苦手じゃなかった?」
「───買わない、けど」
雛と櫂はしょっちゅう点鬼簿家にお邪魔していた。そこで遊んで、おやつも食べて、宿題もやって……
困ったことにピンと来ていない側である雛は、おそらくあまり変わっていないのだ。家を出たときはほぼ大人だったので、変化といえば老けたくらいなもので。
だからなのか、色々一方的に把握されているのが落ち着かなかった。とても分が悪い気がする。
雛は了のことを思い出そうと必死になった。声のインパクトを取り除けば、話し方はそのままだ。無愛想なわりに面倒見が良かったのもちゃんと覚えている。ちゃんと覚えているのだ。ただし、子供の頃のことならば。
前を歩いている長身の男は、時折雛を振り返って視線で道を示した。二メートル近く離れているのに、さりげなく歩調を合わせてくれている。
「こっち」
彼は一度足を止め、駅の脇の地下通路に入った。
「───警戒するな。別にどこにも連れ込まない」
「いや、それはいいんだけど」
「良かねえだろアホか。駅の向こうっ側に広場があるだろ」
「ある」
「そこのベンチ」
「うん。分かった」
追いながら後ろ姿を見ていると、駅前でこんな人は目立ってしまわないだろうかと心配になった。カロリーナのように異次元から来た異次元人みたいなわけではないが、彼も決して一般人には見えない。
脚が長い。頭が小さい。
細いがおそらくちゃんと鍛えてある、他人に見られることに慣れた身体。
何より動作が(雛にはどこがどうとは言えないが)周りにいる人たちとまるで違う。人が振り返ったり、二度見したりしている。
駅の南側の広場に出ると、人通りはなく、とても静かだった。夕焼けと夕闇が混じり合う、雛の好きな時間だ。
「───どうした、雛?」
ぼうっとしていたら声をかけられて、そのことが劇的に作用した。いきなり雛の中で彼と了が繋がったのだ。
「あなたは、了」
「さっきからそう言ってる」
「今把握した。名前呼ばれて」
「まあ、いいけど。座ろうぜ」
二人並んでベンチに座った。
「これ、払うよ」
雛が半分残っていたアイスティーを飲みながら申し出ると「俺が勝手に買ったやつだから」と断られた。
「………じゃあ、ご馳走様です」
了に奢ってもらうなんて、凄く妙な感じがした。
雛の目に映っているどこから見ても大人の了と、雛の知っている子供の了がまだすっかりとは重ならないのだ。同一人物だと納得しているのに。
「寒くないか?」
「ない。ねえあれ、私が配信してるって知ってたの?」
「ガチで知らなかった。趣味で聴いてただけ」
「趣味……」
「俺にだって趣味くらいあんだよ」
それにしても大概口が悪いし、口調も荒い。
行動が優しいだけに、ひどくアンバランスだ。
「で、あなたいくつ?」
雛がそう訊くと、了は不貞腐れたように二十四歳だと言った。とっくに引き算して分かっていたことだが衝撃だった。おかしい。この前までランドセルを背負っていたし、給食を食べていたはずだし。
なんでも、大学を辞めた彼は本当に劇団員となり、今でも俳優を続けているのだという。雛の配信は前から聴いていて、さっきDMでやり取りをするうちに「こいつ雛じゃね?」と疑い始めたらしい。
「どこに疑う要素が?」
「教えない」
「まあいいか。で、こうして会ってくれたくせに、セキュリティがどうのこうの言って怒ってるわけだ」
「───あの曲の楽譜が欲しかったのは、本当。相手がおまえじゃなくても。だけど知り合いの女がこんなことするのは別問題だろ。俺が変態だったらどうするよ」
「だって全くナンパっぽくもなかったし……何なら女性かもって思ってたし。あ、これ楽譜。手書きだけど」
「……サンキュ」
「了、仕事の方は?」
「お陰様で何年か前から途切れなくなった。今は久々にまとまった休みを貰えたとこ。まあ、概ねいい事務所だよ」
「驚いた。事務所に属してると?」
「テレビの仕事もあるし、スケジュール管理やら契約やら色々とあんだよ」
「テレビに出てるの? なんで教えてくれなかったの」
「おまえ、ほぼテレビ観ないだろ。たまに大河ドラマにハマるくらいだったよな?」
「それはそうだけど……ひょっとしてみんな知ってるの? 美里さんとかも?」
「まあ、おふくろは目が見えないからテレビ観ないし、おやじもなんとなく観なくなったし……都度都度は知らせてないな。おまえが天才的に疎いだけだ。櫂なんか結構観てくれてるし」
「そこからして知らないんだわ。あんたたち、密かに繋がってたのねえ」
「密かにじゃねえよ。雛は仕事は? 」
楽譜に目を落としたまま、了は訊いた。
紙を捲る指と横顔があまりにも絵になるので、ざっかけない口調がますます際立つ。
「私の仕事は相変わらずだよ」
「おふくろ同じとこだって?」
「うん。あの病院、臨時職員の給料が比較的いいの」
「せっかく正職員で就職したのに辞めやがって」
「だってやることがあったから」
「人探しなんて素人に出来るわけないだろ」
そう言われ、雛は息を呑んだ。
慌てて後追いで想像する。了は櫂から聞いていたのだ。一度仕事を辞めたのは、環を探すためだったと。
「そうだね。素人なもんで、全然見つからなかった。ねえ、了って環に会ったことあったっけ?」
「何度か顔合わせた程度。おまえ、まだあそこに住んでるんだよな」
「うん。でも引っ越すかも」
「おう。引っ越せ引っ越せ。嫌なんだよそういうの。いるだろ犬とか、ずっと待ってるやつ」
「犬かあ。泣けるよね」
「犬だから泣けるんだろ。おまえはやめとけ」
「ところで何なのおまえおまえって、もう社会人でしょ。だめでしょそんなんじゃ」
「誰が現場でこんな口利くかよ」
「ほんと? ちゃんとしてる? 昔から無愛想だし適当に返事するし、心配だよ」
「やめろ、何だよその親戚のおばちゃんみたいな……」
歴とした大人に対して悪いとは思ったが、雛にとって六歳差は大きい。ついつい余計なことを言ってしまう。
「そういや了、実家に帰ってたんだって?」
「寄っただけだけど」
「美里さん、喜んだでしょう」
「どうだろ。昔から俺の迷惑になるのが何よりも怖いって人だったから、帰るたびに微妙に警戒されるんだよな」
「ああ、美里さんはそのあたり頑固だよね。おじさんとは二人三脚だけど、子供の世話にはなりなくないって」
「どうしたって心配だろ。だんだん歳も取るんだし。あの人どこにでも果敢に出かけようとするし」
「櫂の店にも来たって」
「だからさ。何回も骨折してるのに何だよあの人、不屈過ぎか……それよかおまえも実家帰ってないんだろ」
「だってお母さん忙し過ぎて捕まらないんだもん。犯人は捕まえてるけど」
「誰がうまいこと言えって言ったよ」
雛の両親の職業は看護師と刑事だった。看護師の方が父親で刑事は母親だ。二人は二十年ほど前に離婚したので、父親とはそれ切り会っていないのだが。
刑事という職業について、実のところ雛もよくは知らない。だがひとつ確かなことは、洒落にならないほど忙しいということだ。雛の記憶にある若かりし日の母は、会う度に前髪が少し伸びていたくらいだったので、離婚の原因もそのあたりにあったのかも知れない。
それにしても話すほどにしみじみと、横に座っている人は幼馴染なのだと実感した。
雛は街灯に照らされた了の横顔を改めて観察した。
すっきりとした鼻筋も、シャープな顎のラインも、見れば見るほど格好いい。作り物のような顔の中、ほんの少し作り物っぽさから逸脱した目元。その印象的な目が子供の頃のままで懐かしかった。
「休み長いから、引っ越しすんなら手伝うけど」
「まだ部屋探しも始めてないよ」
「急げ。心機一転しろ」
「そうだねえ」
「で…………何だってコメント返信なんかしたんだよ」
ああいやだ。
雛は思わずキャップを被り直し、了の目から顔を隠した。
了は楽譜を見たまま視線ひとつ動かさない。なのに雛の動揺を気配だけで悟っているのだ。昔から鋭くて、賢くて。
「───やな子ね」
「子って言うな」
「酔ってたの。つい、嬉しくて返信したの」
「嘘だな。四十点」
「嘘じゃない。飲んでたよ」
「嘘じゃなくても四十点」
「なんか…………似てたのよ」
「へえ、そうなんだ」
誰にと言わなくても通じるのがまた癇に障る。
あのコメントだけではなかった。
了だと分かる前もそのあとも、雛は度々ハッとさせられていた。
声も口調も全然違うのに、なぜか、どうしても了は環に似ているのだ。
「まあ、共通点ないこともないしな」
「───そうなの?」
雛がびっくりして目を向けると、それを見た了の方がびっくりした。
「雛…………なんで泣くよ」
「さあ? 歳取るとこんなもんよ」
「そんなにババアじゃねえだろ……ほら」
「ありがと。今どきちゃんとハンカチ持ってるなんて、了らしい」
「やめろ。だからなんで泣くんだ」
「いい子だなあって」
「子って言うな」
残暑からも台風からも免除され、秋らしくて心地良い夜だった。
今日は色々あったのだ。
胸の中に閉じ込めていたものを、外から揺り起こすような出来事が重なった。
(もう仕方ないじゃない)
雛はそう思った。泣けてきたって仕方ないと。
「なんか食うか」
「……そうしようか。お腹すいた」
忘れていたが、朝から何も食べていない。
米が麺かその他か訊かれ、雛は迷わず米と答えた。
すると、ベンチから立ち上がるタイミングで了に手を取られた。
「え、じ、事務所でこういうこと教わるの?」
「アホか。泣いてっからろくに前見えてないだろ」
「見えてる」
「見えてない。泣き止め」
面倒見させて申し訳ない。
「見えていない」人間のエスコートは、了が幼い頃から担ってきたもので、こんなバカみたいな場面でそれに縋るのは悪いような気がした。
「この辺だと、町中華か定食屋」
「定食。お味噌汁を欲してる」
「じゃ、ここ渡るぞ」
手を引かれて歩くなんて、さっきの話じゃないが犬になった気分だった。
「あ! もしかして了って飲む人? 飲むんだったら中華のがいいのかな? 私あんまり飲まないから分かんないの」
「ほんとおまえバカなの?」
「おまえって言わないの」
「初対面の男に酒なんか勧めるな」
「いや初対面て……」
「おまえの記憶があやふやだからそうなる」
「───だから、おまえって言わないの」
雛としてはやっと了だと思えたところなのだ。なのに初対面などと言われると、不安になってしまう。
そうなってくると、手など繋いで歩くのは気が引けるではないか。どう考えても変だ。なんの因果かやけに美形には縁がある雛とて、その程度の自意識はある。
「あの、了? ありがとう。もう泣き止んだから」
雛は軽く手を引っ張った。了が無視するので、繋いだ二人分の手はゆらゆらするばかりで、むしろ楽しげな感じになってしまう。
再び呼びかけると了は振り返り、呆れたような、少しだけ面白がっているような顔をした。
「何なの、その顔」
「別に」
雛がまた引っ張ると、繋いだ手は呆気なく離れ、指の間に涼しい空気が通った。
五分ほど歩いて着いたその店は、いかにも安心できる定食屋という佇まいだった。暖簾をくぐると焼き魚のいい匂いがした。
「鯖食いたいな」
「私は煮魚かな……金目、美味しそう」
面と向かって食事をするのはおそらく十年以上振りだ。注文を済ませてから店内を見渡すと、奥まったところまで席があり、ほぼ満席になっていた。
雛は了が目の前で帽子を脱ぐ様子を不思議な気持ちで眺めた。
「髪長いね。それパーマ?」
「そう。前の役のが残ってんだわ。基本伸ばしておいて、役に合わせて切る」
「はあ。役者さんなんだねえ」
「……おまえは切った?」
「それって頻繁に会ってる相手に言うやつじゃない?」
「違う。キャップ脱いでもちゃんとしてるから。櫂がやったんだろうなって」
「…………まあ、そうです」
鋭い。本当に鋭い。
ただでさえ落ち着かないのにやめて欲しい。
「あいつ元気? 家族ともども」
「ともども元気。甥の憲は六歳になった。奥さんのカーリーは……この前ミラノだったから今頃はパリかな」
「パンチ効いてんな、パリコレってことだろ?」
「そうなんだよね。パリコレって実在するみたいで。知ってる? 今秋でしょ。やるのは次の春夏コレクションなんだって」
「イカれてやがるな」
「モデルさんも大変だよねえ」
頼んだ定食はすぐに来た。味噌汁はデフォルトでシジミ、オプションで豚汁だと言うので、了は豚汁を頼んでいた。
「年々魚の方を選ぶようになるんだよな」
「分かるわ。いや、なんで? 了なんて若いのに」
「味覚とか嗜好の問題よりも自炊のハードルなんじゃね? 俺は魚好きだけど、家で焼くのも煮るのもなかなか」
「あーそうかもね。外食のときのがチャンスかも。生ゴミも出るし……いや、なにこの会話……大丈夫なの? 芸能人っぽくないけど」
「どんなだよ芸能人っぽい会話って」
了の食べ方はとてもきれいだ。昔から姿勢が良く、決して食べるのが遅いわけではないのに、ゆっくりと食事しているように見える。
「何だよ? 鯖いるのか?」
「違う。了がちゃんと店員さんに丁寧に話してて、安心したの」
「礼儀知らずがやっていける世界じゃねえよ」
「私には全く、びっくりするほど丁寧じゃないから」
「あのな…………おまえもそうだろうけど、俺だって十三歳から今に飛んでんだよ。感覚的に」
「またおまえ言う……」
「あるだろそういうの。背伸びしたり、見栄張ったりしたくなる相手っていたもんだろ」
「相手というと、親とか?」
「まあ………………それもありきだけど」
「反抗期ってこと? いくらなんでも長過ぎない?」
「反抗期でまとめんな」
「で、その頃の理由なきやつが甦ってるの?」
「反抗期じゃねえって言ってるだろ」
「いや、隣のお姉さんとしてはそれも一興って気もするけど」
「───ふざけんな。あの頃の六歳差と今の差は違うんだよ」
「え、違うの? 」
了はそれには答えず、雛の方へ手を伸ばして来た。
「髪」
「え、何?」
了が雛の髪を指で掬い、耳にかけた。どうやら櫂によるおしゃれピロピロが味噌汁の邪魔をしていたらしい。
「この毛束が肝心なんだろ。せっかく櫂がやってくれたのに」
「ごめん毛束。でも正直身幅感覚が狂うんだよね。あ、しじみが大きい。美味しい」
「だからこれを耳に」
また落ちそうになった髪を、了の指が絡め取った。
雛が箸を止めると了の顔と手が視界に入り、急にぎょっとした。
「───なんでビクつくよ」
「違う、何でもない。ありがとう」
了はまたあの表情を浮かべていた。あの、呆れているような面白がっているような目。雛としては落ち着かないし、目を合わせてはいけないような気がした。
(それとも目を見た方がいいの? 目を見て、ゆっくりと後ずさるのは何に遭遇したときだっけ、熊だっけか)
「おまえ今バカバカしいこと考えてるだろ」
「考えてない」
了の目が定食に戻ると、雛はもの凄くほっとした。
何事もなかったように食べ進める箸遣いは、割り箸なのによくもまあと感心してしまうほど器用だ。
鯖の皮ごとパリパリと身を崩し、お腹側の骨を抜いて寄せる。太い方からすっと抜き、また抜き、その間全く皿が汚れない。
すると目で追っていた箸が雛の目の前に来て、驚く暇もなく鯖の身が口に放り込まれた。
「………なに?」
「すげえ見てっからやっぱり欲しいのかなって」
「鯖も美味しいね。そんなに見てた?」
「見てたし、口も開いてた。もしかして………」
雛はもぐもぐと鯖を食べながら待ったが、了の言葉は途中で止まってしまった。
「もしかして、何?」
「───似てんだろ、食べ方まで」
「あ、そうかも」
そう言われて、今度こそ腑に落ちた。
雰囲気、所作、選ぶ言葉、などなど。
そんなものが似通っているのだとしたら、それはやっぱり仕方ない。彼女を思い起こしてしまうのだ。どうしても。
「おまえに会ったのは俺の方が先っちゃ先なんだから、彼女が俺に似てんじゃねえの?」
「───そういう考え方もあるね。ねえ、さっき言ってたやつ……環と了の共通点って何?」
「自分で考えろ」
「何それ感じ悪いな」
払拭し損ねた反抗期とは斯くも変てこで、厄介なものなのか。
雛は了を大人扱いするのはまだ早いのではないかと思った。
「ねえ、さっきのDMで初心者って言ってたけど、了もどこかでピアノ習ってたの?」
「役で少し弾いたからな。習ったのは基礎の基礎と、楽譜の読み方くらいだけど」
「役か。そのために習い事とかするんだね」
「そう。決まってから詰め込んだり、普段からやっておいたり」
「例えば?」
「なんでそんなこと聞きたがるんだよ」
「だめなの?」
いわゆる裏でしている努力について語りたがるような奴ではない。けれど雛は聞きたいよと言い張ってみた。すると了はしぶしぶ口を開いた。
「───実は今日は腰が痛い」
「何したの?」
「朝から馬に乗ってきた」
「うわ、斜め上の回答……そうか、若くても時代劇、有り得るよね」
「運動は好きだからいいんだけど」
「何でも出来たもんねあんた。頭も良かったし」
有名大学にストレートで入っておいてあっさりと中退するなんて、頭が良過ぎて変になったと言われてたりもしたが。
「今まで色々やったけど、まずは仕事のためだったからな。だから今回は好きなことやろうかなって……俺のレベルで弾けるとも思わないけど、どうせなら気に入った曲に挑戦したいだろ」
「それはすごく光栄だよ。弾くのはそこまで難しくないと思うけど……いや、ところどころキツいかな」
雛は頭の中で譜面を追いながら、空中で指を動かした。
あの曲は、ただひとりに向けて書いた、あてどない手紙のようなものだ。
アップロードしたとき、手紙を入れた瓶を海へ浮かべるイメージがよぎった。
それが届かなかったとしても、拾って瓶を割ってくれた人がいて良かった。
それが了なら尚のこと良かったと思える。
「───バイトするか、おまえ」
「おまえじゃないでしょ」
了が最後の一口を食べ終えて箸を置いた。箸置きもないところなのに、一度左手を添える仕種が板についている。
「いちいち見惚れんな。動きにくいだろ」
「は? 見惚れてないけど。何のバイト?」
「バイトな。俺にピアノ教えるっていうのは?」
「………めんど、いや、荷が重い」
「今面倒臭いって言いかけたろ」
経験がないことなので、雛は尻込みした。
それこそバイトで少しだけ子供に教えたことがあるくらいだ。
「教えるの、上手くないと思うの」
「そこは少し頑張ってくれよ……なるべく汲み取るようにするけどよ」
雛の記憶にある了は、人に頼みごとなどしないタイプだった。その子が自分の曲を気に入ってくれて、弾いてみたいと言っているのだ。これはかなり断りにくい。
「………………しょうがないなあ……渡した楽譜、ちょっと見せて」
雛は定食のトレーを寄せ、トートバッグからボールペンを出した。
「ここまで」
そう言って譜面に印をつけると、了が覗き込んで来た。
「どこ? ああ、うん」
「練習してみて。右手だけでもいいから」
「分かった」
「ピアノあるの?」
「事務所に置いてあったからそれ使うわ。雛は当直とかあんの?」
「ない。平日日勤のみ」
「じゃあ土日か、それか夜か」
「日にちはその都度決める? 」
「ああ、正直その方が助かる……事務所通さなくていいか? 個人契約ってことで、一応書面作るわ」
「本当、見た目はそんななのにちゃんとしてるよね」
「うるせえな。二割っくらいはその見た目でメシ食ってんだよ」
二割という本人認識に雛は少しだけ感動した。
真面目な子なのだ、昔から。
◇◇◇
スペシャリストかゼネラリストか。
そんな命題が出てくる業界は数あれど、臨床検査技師の選択肢はほぼ環境に依存する。
まずは勤め先。それから部署。
前述の問いに対し、雛自身は完全に後者だと答える。何でもやるし、出来ないことでも(経験させてもらえるなら)挑戦する。フットワークと使い勝手の良さを望まれて雇われているので、渡り歩いて来た部署は様々だ。
現在所属している部署では検体検査をやっている。大型の分析機を動かし、データをチェックして転送し、必要なら再検査する。大まかにはそんな流れ。
その日は朝からメインの分析機がトラブルを起こし、雛はサブ機を動かして外来対応しなければならなかった。機械やシステムに何かあると外来を巻き込んで大ごとになる。しかしなんだかんだで、午後二時を回った頃には緊急検査だけは落ち着いたので、雛は遅い昼休憩を取らせてもらった。
臨時職員用の休憩場所は、正規のものもあるがとても狭い。実際に使われているのは、院内のあちこちで半ば自然発生的に出来たスペースばかりだ。
ロッカールーム、談話室、昔の喫煙室を改装した謎部屋。そんな場所にいつの間にか椅子とテーブルが持ち込まれ、人が集まるようになった。
偉い人に怒られたら移動しなければならないが、偉い人が来るような場所でもない。
「あれ? 美里さん?」
あまりにもタイミングが良くて、雛は素っ頓狂な声を上げた。談話室の隅にある休憩スペースに、リハビリ科の点鬼簿美里がいたのだ。了のご母堂である。
「その声は雛ちゃん? 久しぶりねえ!今からお昼なの?」
「そうなの。美里さんお茶淹れるけどいる?」
「コーヒー買って来たからいいわ」
「えー、ほんとに久しぶり。私、了に会ったんだよ」
雛は自分用にお茶を淹れながらそう報告した。
売店で買って来たのはミニ海苔弁当と大学芋。変な取り合わせだが、時間も時間なのでこれしか残っていなかったのだ。おそらく美里の嗅覚には妙なメニューなのがバレている。
「あの子最近仕事が休みみたいで、神出鬼没なのよ。雛ちゃん、どこで会ったの?」
「うちの近くで。偶然なんだけど……でも待ち合わせて」
「偶然待ち合わせるってどういう状況?」
「色々あったんだよ。ねえ、了の俳優のお仕事順調みたいだよね。私全然知らなかったよ。全っ然知らなかった」
雛は本当に全然知らなかったので、つい主張に力が入った。ごく狭い人間関係の中で生きてきたのに、その中でさえ隔世の感に襲われるなど、びっくりを通り越して危機感を覚えてしまったからだ。
「まあねえ。あの子あんまり連絡して来ないし、会っても自分のことなんて喋らないから。私だってろくに知らないのよ?」
美里は笑いながら手探りでコーヒー缶を開け、一口飲んだ。雛も海苔弁に箸をつけた。
「了ってテレビにも出てるんだって?」
「そうらしいの。ピンと来ないわよねえ。私は見えないし、雛ちゃんだってテレビ観ないじゃない?」
「うん……でもこれからは観るよ。うちの櫂はけっこう観てるんだって。了ったら、私にも教えてくれたってバチは当たらないだろうにさ」
「照れ臭かったのよ。でもあの子が大学辞めてまで好きなことやろうとするなんて、母親としてはすごく嬉しかったのよねえ。ほら、了って何をやってもどこかつまらなさそうだったじゃない? 」
「なんでもよく出来るからってのもあったのかもねえ。出来過ぎて心配するのも変な話だけど」
「───雛ちゃん、もしかして了に会ったのすごくすごく久し振り?」
「うん。実際は四年振りみたいなんだけど、肌感としては十一年振り。あ、でも、四年前のことも少し思い出したんだよ。言われてみればって感じだけど」
了が大学を辞めると言い出した頃、会って話したのは確かなのだ。そして雛の記憶では、二十歳の了に向かって、好きなことが見つかって良かったねえ、的なことを言ったような……言わなかったような。
「───多分私も、美里さんと同じように嬉しかったんだよね。了のこと。それであいつに好きなことやってみなよって言ったの。了が相手じゃなかったらそんな無責任なこと言えなかったと思うけど。でも人生一度切りだしなあと思って」
「雛ちゃんあなた、それじゃ幼馴染というより、ほぼ母親じゃないの……じゃあもう背水の陣だったわねえ。なおさら早く大人になりたかったんだわ、あの子」
美里は雛の記憶に新しい、見たような表情を浮かべた。先日の了のあれにそっくりだった。呆れているような、面白がってるような。
「でも了ってまだ反抗期引き摺ってるんだよ。人のことおまえ扱いするんだから」
「でも雛ちゃん、会って驚いたんでしょう」
「まあ……驚いた。育ってた」
「育ったわよねえ」
海苔弁と大学芋は全然合わないのに、しょっぱさと甘さがループして、不思議と捗る。
「なんだかちょっと寂しい感じ。幼馴染が知らないうちに大人になっちゃって。まあ、反抗期だけど」
「あの子は苦労してるところなんて、見せたがらないだろうしねえ。特に雛ちゃんには」
「どうしてよ。私そんなに薄情じゃないよ? 下積み期とかデビュー期とかリアタイしたかったし、うんと応援したかった。普通知らせてこない? 出るから観てよって」
「まあこれからは観てやってよ。せっかく再会したんだから」
「───うん、そうする」
本当にそうしようと思い、雛は食べながら了のことを検索し始めた。
「まじですか了、ウィキペディアにもいるんですけど」
「あら、ありがたいわね。さて、私もう戻らなきゃ」
「あ、それじゃリハビリまで送るよ」
「まだお弁当残ってるじゃない」
「相変わらず鋭い嗅覚……じゃあ、気をつけてね」
「はいはい。そのうち遊びにいらっしゃいね。ああ、花梨さんにも言っておいて。最近全然会えてないのよ」
「美里さん隣に住んでるじゃない」
雛の母親の名前は花梨という。刑事らしくない名だとイジられたこともあったらしいが、名前と検挙率には何の因果関係もなかったので大きなお世話だった。しかも順調に出世し、現在は警部にまでなっている。
その花梨刑事と美里はとても仲が良い。お互い信頼し合っていたから、子供を預けたり預かったり出来たのだろう。
椅子の背、机、壁……順に触れながら優雅に歩く美里を見送り、雛の昼休憩は終わった。
ピアノのことを言い損ねたが、またの機会はすぐにありそうに思えた。
◇◇◇
レッスン初日は金曜日の夜に決まった。
練習スタジオが借りられたと連絡が来て、そこでやることになったのだ。雛の感覚ではそんな贅沢なと思わなくもなかったが、了にも色々都合があるのだろう。
「雛の職場から近いみたいだから、仕事終わる頃そっちに寄って、拾ってから行くわ」
「了解」
何しろ雇われた身なので、雛は言われるままに予定を入れた。金曜日。職場。拾われる。メモ良し。
「───拾われる? 車ってこと?」
通話を切ってしまってから、基本的な疑問がわく。
かけ直して訊いてみようかとも思ったが、ピアノさえ確保出来たのなら、あとは瑣末なことだと思ってやめた。
てっきり雛のピアノでレッスンをすると思い込んでいたのだが、了は「また今度な」と言って取り合わなかった。よく分からないが、スタジオを借りるなんてさすが発想からして芸能人だ。
(それにしても、バイト代が入ったら、また引っ越しが遠退きそうだな)
アジアンタムの液体肥料を希釈しながら、雛はそんなことを考えた。さっさと引っ越せと言いながら、こんな助け船を出すなんて、了は何を考えているのだろうとも思った。
◇◇◇
金曜日は定時で上がることが出来た。
『着いた。南側の駐車場にいる。ヴェゼル分かる?』
了からのLINEを読み、雛は車の形を思い浮かべてみた。
ヴェゼル、ヴェゼル。ぱっと見て分かる気はしないが、多分コンパクトSUVというやつだろう。
色は? と返信すると、『燻んだカーキ』と返って来て、どんなのだろうと考えていたら『サンドカーキ』と更なる情報が来た。
駐車場に行くと、なるほどサンドカーキだった。カーキに砂を混ぜて燻した感じだ。
「お疲れ」
助手席のドアが中から押し開けられたので、素直に乗り込んだ。見ればやっぱり了で、やっぱり運転なんかしている。本当に大人になったのだ。
「迎えありがとう。車持ってたの?」
「馬乗るのに必要で、最近買った」
「馬に乗るために車に乗るなんて……ええと、おしゃれだね」
「絶対思ってねえだろ。乗馬クラブってのは大抵遠くにあるんだよ」
言われてみれば、新車の匂いがした。
余計な小物などは置いていないが、後部座席には大きな荷物がいくつかあった。
「了、後ろにギターがある」
「ああ、預かり物。先輩の」
「事務所ってミュージシャンの人もいるの?」
「いない。うちの事務所あるあるなんだけど、やけにバンドマンの役やる奴が多くて、よく勢いでバンドが結成される」
「役か。了もやった?」
「やった。俺なんか三回もやった。やるたびに楽器が違ったから面白かったけど」
「カッコいい役?」
「三人ともクズ男だった」
「……うそ、絶対観たい。サブスク入ろ」
了が手配したレンタルスタジオは、オフィスビルの中にあった。受付は価格設定が高めのカラオケのようだった。とても静かだという点を除けばだが。
「何これ、素敵が過ぎる……」
部屋に入った途端、雛は思わず声を漏らしてしまった。グランドピアノの色がダークマホガニーで、恥ずかしながらテンションが上がってしまう。大きな時計に吸音パネル。真横に設置された鏡。
どれもピアノの弾くための設備なのに、無機質ではなく細部がいちいち凝っているのだ。
「ホラ了、座って! 椅子の調節してあげる! ちょっと、どうして笑うの?」
「いや、思いの外喜んでるから」
「だって見てよこの椅子も……了? なんか髪が短かくない?」
「いや、会って何分経つよ……びっくりしたわ」
「車の中暗かったし……ひょっとして、櫂?」
美容には疎いし、さほど立派な審美眼も持ち合わせていない雛だが、弟の仕事は何となく分かるのだ。
「そう。会いに行ったら切られた」
「あの子ったら何してくれんのよ。了の仕事知ってるくせに自由過ぎない?」
「別にいいんだけど。どっかで一度切ろうと思ってたし。当分休みだからまた伸びるだろ」
「だって、高校生みたいになっちゃったよ?」
「……だったら高校生役やるから」
「この前までは気難しい芸術家風ジゴロだったのに」
「どんな奴だよそれ」
雛はキャスティングディレクターの気持ちになり、すっかり可愛くなってしまった了を眺めた。演技のことは分からないが、了のこういうナイーブそうな雰囲気は、魅力的だと思う。
「椅子ってこのくらい?」
「あ、ペダルに足かけて。うん。それで良さそう」
「背もたれある椅子じゃないんだな」
「トムソン椅子ね。私はあれの方が弾きやすいけど、この椅子も素敵だよ。脚にほら、彫刻みたいなのが」
「今時はこのタイプなのか?」
「どっちが主流なんだろうね。ベンチタイプはドレスのとき裾の捌きが楽だったりするけど。ところでどう? 弾いてみた?」
了は楽譜のコピーを取り出すと、右手だけでメロディを弾いた。問題なくつるりと弾いている印象だ。
「やっぱり思ったより弾けるんじゃん……両手でもやってみた?」
「一応……で、一箇所腑に落ちなかったんだけど」
両手で弾く音を聴いて雛は感心した。右手だけのときも思ったが、拍子感が抜群に良い。
「グルーヴ!……って感じ」
「何だそれ……ここだよここ」
急に止まって顎で譜面を示すので、雛は指を動かしながらそこを見直した。
「えーと? あ、ごめんこれ採譜ミスだわ。休符ひとつ抜けてた」
「ああ、それなら分かる」
休符を書き足す間に、了はまた演奏を再開し、予め言っておいたところまで弾き切った。
「宿題きっちりやるタイプだね。つまんないくらい弾けるじゃん」
「この曲序盤の方が簡単だろ」
「実はそう。でもやっぱり凄いよ」
「……もうひとつ訊いていいか」
「どうぞ。私先生でした」
「ここ───好きで何回も聴くところ。おまえの弾き方がいいんだけど、なんか上手こといかない」
「いや、別に同じように弾かなくても」
「先生なんだろ」
「……ええと、どんなんだっけ? ちょっともう一回弾いてみて?」
何回も聴いたなどと面と向かって言われると、さすがに照れてしまう。相手には褒めている自覚も無さそうなのに。
了は数小節手前から弾いて、ここだよこことばかりにガンを飛ばして来た。人のことを照れさせておいて態度が悪い。
「どうしよう。言語化……言語化が待たれている」
「待ってる。頼む。頑張れ。取っ掛かりをくれ」
「前との繋がりと……あと何だろ。この辺、息止めちゃってないかな」
「息か。あんまり気にしてなかった」
「分かんなくなってきた……難曲だね」
「おまえが言うなよ」
譜面を指で辿り、自分自身の演奏を思い出してみる。
センスがありそうな了には真似などもったいない気もしたが、彼の思い通りに弾くヒントはあげたい。
「ちょっと私が弾いてみようか」
「頼むわ。そういやこの部屋、他に椅子ないんだな」
「いいよ座ってて。このまま弾くから」
「いや俺が立つよ」
「いやいいよ」
雛としては立ったまま右手だけ弾こうと思っていたのだ。お互いに譲っているとタイミングが変になり、雛は了の右側に座ってしまった。ギリギリ座れないこともない。
「実は二人掛けじゃないんだよね、この椅子」
「そうだな……並んでみて分かった」
了は一度立ち上がったが、雛が弾き始めるとまた椅子に戻った。斜めに座って雛の左手が動くようにしてくれたが、どうしても肩が少し重なってしまう。やはりそもそもが狭いのだ。
「ちっちゃい子供なんかは二人で座ったりするけど……あ、下が届かない」
低音側に手が伸びずに音が飛ぶと、了が笑った。
「ちゃんと聴きなさい。面白がってないで低いとこ弾いてよ」
「脇腹がこちょばいんだよ。肘が当たる」
「なんか連弾みたいで楽しいねえ」
「多分こういうのじゃねえだろ、連弾は」
「了───教えるなんて言って、日本語下手でごめん」
「問題ない。汲み取りかけてる」
久しぶりに楽しかった。
けど、楽しければ楽しい程、そのことが切なくもなった。思えばずっとそうだったのだ。
環がいない日々を過ごすのが、だんだん苦しくなっていた。
悲しみは飼い慣らせた。だからもう滅多に泣かなくなったのに、苦しさだけは増しているようだ。
曲は了が言っていた箇所を通り過ぎたが、それでも左手の助手は参加してくれている。単なる戯れなのに、二人で同じ譜面追っていると苦しいのが少し和らぐような気がした。
「さっきから全然分からん。おまえ何食った?」
「え?」
「果物の香りがすんだけど……梨?」
雛が思わず左を見上げると、額と了の鼻先が数センチの距離にあって、もの凄く驚いてしまった。
「───おい」
雛が反射的に仰け反ると、了が背中を支えてくれた。そのまま両手で腰を引き寄せられたので変な声が出てしまった。
「うあ、何この格好……放して?」
「放すとおまえがケツから落ちるんだよ」
「あ、そうか」
床に足をつくと了が手を離してくれて、問題なく立ち上がることが出来た。
「やっぱり二人で座る椅子じゃねえな」
了はまったくのマイペースで、当たり前のことを感心したように言う。雛は思わずクリアファイルを手に取り、了の肩をペコペコと突いた。
「何しやがる」
「先生をからかうからでしょ! 人の口臭なんか嗅がないの! 」
「口臭じゃねえだろ、梨だろ」
「違う、ライチ! 」
「ライチか」
雛はもう、自分が何が原因で赤面しているのか分からなかった。
「ライチかじゃないでしょ……辱められた」
「人聞き悪いな。息がどうのって言ってたから手本にしようとしたんだよ」
「嗅がなくてもいいじゃない」
「不可抗力だろ、あれだけ近かったんだから。でも近いとよく分かった。比べると俺、相当力んでたな。で……呼吸は何気に緻密にコントロールしてるっぽいから参考にする」
その言葉に雛は、了のいる世界を垣間見たような気がした。身体ひとつで何かを表現してきた人間は、身体で何かを掴もうとするのかも知れない。だからといってこの仕打ちはないと思うが。
「じゃあ、先生にごめんなさいは?」
「ええと……先生……嗅いで? ごめん 」
「うん」
「嗅いでごめんて初めて言った……」
こっちだって初めて言われたわと雛は思った。
◇◇◇◇◇
翌日土曜日の午後に、櫂からメッセージが来た。夜に家で飲もうぜと言う。
この時期の飲み会は毎年恒例になっていて、カロリーナのお疲れ様会も兼ねている。その実態は炭水化物解禁祭りなのだ。スーパーモデルも人の子。そして弟の妻。
「よく来なすった。ひなーっち! 」
カロリーナのハグは上から降って来るので、雛は学んだ対処法として下から迎える。腕同士が上下に噛み合うスタイルだ。
「おかえりなさいカーリー。お土産にパスタ打って来たんだよ。それとこれ、ドライフルーツいっぱい」
パスタはもらった明太子を練り込んであるので、熱いうちにバターと絡めるだけで美味しいよと説明すると、カーリーは大喜びした。
「いたれりつくせり! 櫂と憲は買い出しに行ってるんだわさ」
「そう。何か手伝うよ」
「ほんだらエビを剥いて何とかしてアレしてくれん?」
「分かった。何とかしてアレする」
カーリーは父方の祖父が日系人だったので、幼少期に少し日本語を覚えたのだという。その後台湾に移り住み、そこで日本の某女性アイドルグループにハマった。独特なテキストを用いて独学で日本語を磨いた結果、彼女流ハイパージャパニーズが編み出されたのだ。
日本語を覚えたカーリー──カロリーナ・エリシュカはアイドルになるのを夢見てこの国へやって来た。
身長179cm。燃えるような赤毛とラピスラズリを溶かしたような青い瞳。
まるでスーパーモデルになるべく用意されたような容姿は、悲しいかな、アイドルには不向きだった。
「もっとめんこく生まれだかっだだ」と泣いて周囲を困惑させたカロリーナは、立ち直ったのち次なるキャリアへと進み、そして今日の成功をおさめたのである。
雛は二人が付き合い始めた頃から「すごくいい人なんだよ」と聞いてはいた。その櫂らしからぬ説明不足さ加減に、雛は却ってほのぼのとしたものを感じていたのだ。
いざ彼女に会ってみるとその見た目に度肝を抜かれたが、少し話してみたら櫂の素朴な説明こそ的を射ていたのだと分かった。なにせ性格が良い。そして可愛い。甥の憲を産んでからも、ランウェイの第一線で活躍し続けている自慢の義妹なのだ。
「このエビどうしようね。フライ、アヒージョ、エビチリ、天ぷら」
「天ぷらにはちゃんこいさあ」
「そうかもね。アヒージョなら殻付きが良かったかも……エビチリにする?」
「しなすって!」
「よし、そうしようか」
櫂とカーリーが使うキッチンは、調理台もコンロ台もワークトップが高い。雛は高過ぎる台でエビを処理し、にんにくを剥いた。ネギや生姜も切った。
「櫂が点鬼簿の了さんにも声かけたんじゃけど、用事がありなさるって。残念無念だわさ」
「あれ? カーリーって了と面識あったっけ?」
「この前来てくれたんよ。櫂が髪さ可愛ゆくした」
「ああ、そのとき」
「ドラマはなんぼか観てたんよ? 元々ファンやったけどホンモノはごっつ良きやった……推せるわあ」
「カーリーテレビ好きだもんねえ」
雛はここのところ起こったあれこれにより、自分の知らない間に色々な話が進んでいる事態に慣れてきていた。今日も、今この瞬間も世界は動いていて、清々しいことに雛にはどうすることも出来ない。エビの殻をしっかりと始末することくらいしか。
料理は順調に進み、これで櫂が帰って来たら全員で一気に仕上げようねと話していたところ、インターホンが鳴った。鳴らすということは櫂ではない。
「あらまあ、おっ義母さん! よく来なすった!」
「カロリーナさん、パリコレお疲れ様です」
雛の母、花梨が大量のパンを持ってやって来たのだ。けれど、すぐに帰らなければと言う。
「お母さん久しぶり。元気? 事件?」
「久しぶりねえ。元気よ。あなたは? そうなの事件なの。今そこで連絡が入っちゃって」
普段あまりにも会わないので、会話が交互にならず、交錯してしまう。雛はパンを受け取り、カーリーと袋を覗き込んだ。
「課の若い子にここのパンが美味しいって聞いたのよ。炭水化物がいいのよね」
「そうっちゃ。おっ義母さんご馳走様でおます! コロシじゃろか、デカチョー」
実際よりずいぶん下の階級で呼ばれたが、花梨は笑ってお招きいただいたのにごめんねと言った。
「気をつけてね、お母さん」
「お気張りなすって、ホシを挙げるよし!」
賑やかに見送ってから間もなく、櫂と憲が帰って来た。ちょうどご飯も炊けたので、祭りの開催だ。
六歳になった憲は、すっかりお腹を空かせていて、エビチリに大喜びした。
ベニスに死すの黒髪バージョンかよと言いたくなるような顔で、食欲はえげつない。まさに育ち盛りだ。
大人組はゆっくりと食べ、飲んだ。
話題は専ら了のことだったので、雛がピアノを教えていると話したら、大騒ぎになった。
「カーリー! 大変だよ、ひなが了に会ってるって!」
それの何が大変か分からず、雛は黙ってイチジクが入ったおしゃれパンを齧った。
「ふんぎゃー! 幼馴染の再会やで……エモ散らかしとるなあ、なあ! 」
「別に散らかしてないよ」
なぜか興奮するカーリーに雛は「美味しいよこれ」と言ってパンを勧めた。それ以上あれこれと訊かれるのは、気恥ずかしかったのだ。了に会ってからこっち、泣いたり取り乱したりと散々だったから。
それからすぐ、お腹いっぱいになった憲が眠いと言ったので、櫂が寝室まで送った。
大人たちは食べ続け、そこそこ酔っ払い、炭水化物も恐ろしいほどに摂取した。
「もう食えん……休憩」
櫂が根を上げたのを期にざっと片付けた。それからまったりするかと思いきや、その日は違った。
「これぞ最新作なんよ」
「何の?」
カーリーがリモコンを操作し、ドラマを流し始めた。
「ひょっとして了の?」
「ん。主人公のバディ役っちゅう立ち位置だけんど、ウチに言わせりゃほぼダブル主演じゃ」
「そんなに映るの?」
雛はなんだか緊張してきた。了がそんなに有名人なら一緒に煮魚なんて食べてて良かったのだろうか。しかもピアノを教えるなんて。
「これ、ひとっつも内容が分からないんだけど」
「いきなり最終回やもんな」
「そうか……この人は、警察の人?」
「いんや探偵。ちな、了さんも探偵役。ついでにそこの彼女とお爺さんも探偵や」
「探偵多いな……あ! これ了だよ! 」
「んだ」
なにせ雛にとっては初見だ。出演していると分かっていても、つい驚いてしまう。
ドラマはさすが最終回と言うべきか、いかにも大詰めっぽい。やたらと台詞はあるし、やたらと走るし、やたらと殴ったり殴られたりする。危ない。
雛は弟夫婦の前でついつい大きな声を出してしまい、そのたびに笑われた。
「アッ痛っ……! これ、ほんとに殴られてないの?」
「当て方とかはあんじゃね? 顔が腫れたらこのあとの撮影出来ないじゃん」
「ならちょっとは当たってるんじゃない…… 」
「大丈夫やあ。最終回やけ、丸くおさまるで」
子供の頃の了は表情に乏しいタイプだった。なのに急に色々な顔を見てしまい、雛は混乱した。
「待って了、ダメでしょ! 知らないお嬢さんにキスなんかして!」
「恋人役の人だよ」
「えーもう……疲れる……情緒が乱高下する」
「はー。了さんのこの役、ほんまええわ……要所要所に色気が散りばめられてん……制作側なあ、需要分かっとるなあ」
「需要? ……あ、もう終わり? 終わった?」
「終わったよ」
強烈だった。
内容がほぼ分からないので雛としては了の姿を目で追うしかなかったわけだが、そのせいか却って細部まで目がいってしまう。変なところで「知ってる」と感じてしまうのが気まずい。例えば耳の形とか、肘にある古傷とか。
それになんと言っても声が生々しいのだ。
「ひなおまえ、顔赤過ぎだろ」
「騒いだら酔いが回った」
「休んどったらええじゃ。穏便なの流すわ」
カーリーはそのままの画面で動画サイトを検索し、インタビューらしきものを流してくれた。
おそらく映画かドラマの宣伝用に撮ったものなのだろう。了は今より少し若く、椅子に座って質問を受けていた。
『そうですね、スッと役に入れる方ではないですし、抜けるのも遅くて。あまり役者としては器用ではないと思います』
───理詰めで考える方ですか? プロフィール見て驚いてしまったのですが、東大のご出身だとか。
『いえ、中退ですので出身では……でも考え方の特徴には好きだった分野が現れていると思います。感覚に頼れなくて色々調べてしまったり』
───そのあたりは粘り強いと。
『と、言うか執念深いです』
───俳優になったきっかけを教えてもらえますか?
『何度か訊かれたことがあって、そろそろ上手いこと答えたいのですが……そもそも初めてのときは友人のピンチヒッターでエキストラを演ったんです。アルバイトで』
───俳優を目指していたわけではなかったんですね。
『その時点では。でもそのとき……野次馬のひとりという役だったんですが、その場で台詞をいただいて』
───そうなんですか? やっぱり監督の目にとまったのでしょうね?
『背が高いから目についたんだと思います(笑)。とにかくその場でひとこと言うだけのことが、闇雲に面白かったんです』
───闇雲に!
『全くままならない感じが良かったですね。それまで経験のない感覚で……』
こんなふうに了を客観的に見てみると、とても魅力的だった。視線、仕種、間の取り方にまで独特の色気がある。
雛としてはカーリーに問い質したかった。これのどこが穏便なのだと。十分過ぎるほど刺激的で、むしろドラマより恥ずかしい気がする。
───最近デビュー当初より若返っていると言われていますが、御本人としてはどうですか?
『え、そうなんですか? 前はそんなに老けてました?』
───(笑)そんなことないです。やけに大人っぽいなとは思いましたけれど。影のある役どころが多かったですよね。
『多分、背伸びをしたかったんだと思います』
───何か理由が?
『理由ですか(笑)、そんな年頃としか。ああ、でもどうやっても子供扱いされてしまう相手がいて、そのせいだったかも知れません』
───点鬼簿さんを子供扱い……面白い方ですね。
凄いと思った。とても芸能人だ。見ていると口が開いてしまう。
雛のそんな様子を見て、カーリーが大笑いした。櫂までぷるぷると身体を震わせている。
「何見てるの? なんかおかしかった?」
「───ひなさあ、了のことちゃんと大人扱いしてやんなよ」
「したらええ。するべきだえ」
「何の話? 今はちゃんと大人扱いしてるし、昔は……え? 二人ともこれ私のこととか思ってるの?」
二人があまり笑うので、雛は不安になった。
まさかそんなことは有り得ない。そこまで彼に何か影響を与えていたなんて絶対思えない。
「なんも分かってないんさあ、ひなっちはあ」
「明らかにひなのことだろ……信じられない」
「私だって信じられない。そんな言いがかり」
「知らないだろ。了なんて俺にはけっこう甘えただったよ? ひなの前ではカッコつけてたけど」
「嘘だよ」
「だから、ひなは知らないんだよ」
「えーなんそれ、甘酸っぱい……唾液が出てまう……身近にこんな推しカプ爆誕とか」
「やめてよ。そんなこと聞いたら今度会ったとき……」
そこまで言って雛は言葉を失った。
今度会ったときどうなるのだろう。
了の顔を見て笑ってしまうのか、照れ臭くて困ってしまうのか、自分でも予測出来ない。
「ヤダヤダ! こんなの見るんじゃなかった。なんか日記を盗み見した気分」
「了ならそのあたりは割り切ってるだろ。見られてなんぼの仕事なんだから」
「了さんさぁ、つくづく今日来たら良かったんに」
「ヤダよ。来なくて良かった。今日は了、なんかのジムでなんかの師範にボコされる予定って言ってたよ」
「へえ、役者も大変なんだな。探偵のアクションすごかったもんな」
「またなんか観っか? 了さん祭りすっか?」
「もういいよ……なんかお腹いっぱいだよ」
そう言いながらも雛は、ひとりになったら了の出演作品を観まくってしまうだろうなと思った。
ひとりじゃなきゃ観られないけれど。
◇◇◇
それから雛は夜な夜な了の出演作を観た。サブスクで拾える作品だけでもかなりの本数があったのだ。
木曜日にその了からメッセージが来た。日時と場所、それから添付地図。都合が悪かったら教えてくれと一言だけ付け加えてあった。愛想っ気のカケラもない。
「……どこよ、ここ」
地図の場所は、ライブハウスだった。なぜまたそんなところで。
仔細は分からないが、やはりメモした。土曜日。駅。迎え来る。良し。
「だから、なんでうちのピアノを使わないのよ」
そう思ってみても、クライアントの意向には沿うしかない。
その日、雛が待ち合わせ場所に着くと、すぐに了が見つけてくれた。雑踏の中はぐれそうになるといちいち上着のフードを掴まれる。雛はまた犬の気分を味わった。
歩き出すとすぐ、通りの向こうにライブハウスが見えた。雛はこれならひとりでも行けたのになと思った。いちいち迎えに来てもらうなんて、大層な先生ではないか。
聞けば事務所の先輩のバンドがライブをやったのだという。趣味が高じた結果そんな活動をしているらしい。
「待たれよ……今日がライブ?」
「だったの。終わったから袖に置いてあるピアノ貸してもらった」
「そもそも了は何しに来てたの?」
雛としても根掘り葉掘り訊きたいわけではないが、あまりにも分からないことだらけなのも落ち着かない。
「基本は裏方。ツインギターにしたいって曲だけ弾いた」
「……犬の気分からバンギャの気分に」
「バンギャは断じてそんなんじゃない……どうかしたのか?」
「どうもしないよ」
「ふうん?」
了の質問が終わる前に被せるように答えてしまい、怪しげな答え方になった。本当にどうもないのだけれど、バカみたいだが前よりも周りの目が気になった。
「───落ち着こう、私」
「何か言ったか?」
「ううん」
落ち着くべき。
雛は心の中で自分にそう言い聞かせた。
なぜなら誰もが見ているのは了のことだ。ここは心して空気になるべき。幸い得意技なのだから。
そんな気持ちで歩いていると、了の手が伸びて来て、上着のフードを被せられた。
「何?」
「気になんのかなって」
だからこそ対処中だったのに、おかげでフードを目深に被った通り魔風(偏見)人間になってしまった。その上肩を抱かれて連行されるなんて、怪しいにも程があるではないか。
了は極めて普通の格好だった。Tシャツにカーゴパンツ。だが普通すぎて一般人との差が際立つのが問題なのだ。そもそも了の顔は表に出っ放しなので、なんの解決にもなっていない。
「待ってこれ、却って怪し……」
「歩け。取り敢えず。裏口こっち」
「───うん」
ライブハウスは近くで見ると、そこそこ大きなところだった。
まだ舞台の方で人が数人動き回っている。撤収はほぼ終わっている様子で、間もなく皆引き上げるのだろう。
「いいだろこれ」
舞台袖と聞いていたが、ピアノはもっと奥まったスペースに置いてあった。味のあるアップライトだ。
古いお屋敷の居間に似合うような、木目が美しいデザイン。譜面台の彫刻が和柄で可愛らしい。
「これまた素敵な……」
「調律はしてあるって。ライブ手伝ったから頼みやすかった」
「すごい……ほら了、トムソン椅子だよ。綺麗だねえ。張ってあるこのビロードとか……」
「弾く?」
「弾くのはあんたでしょ」
雛と了はこそこそと言葉を交わした。
古いものの前では、なぜか声を潜めてしまう。
「印刷した楽譜ね、ペラペラのままだから、これあげようと思って」
雛が楽譜用のファイルを渡すと、了は意外なほど喜んだ。
「サンキュ。こんなのあるんだ。挟むやつ? こう?」
「そう。そのまま捲れて、そのまま書き込める」
了がファイルに紙を挟んでいると、四十がらみの男性がやって来た。
これが先輩とやらなのか。雛は了の他には芸能人に会ったことがないので、緊張した。
「了、今日はありがとな。ええと、こちらは、カノ…………いや妹さん?」
彼女かと問われる前に首が取れるほど横に振ったら、先輩は意を汲み取ってくれた。しかし妹とは聞き捨てならない。
「いいえ、姉です」
雛が勢いでそう言うと、了に耳たぶを引っ張られた。
「ややこしい嘘吐くな。先輩、こいつは雛です。幼馴染で、今は俺のピアノの先生」
「───すみません、本当は幼馴染です。了がお世話になっております」
改めて丁寧に頭を下げると、先輩は笑った。
「日高です。ゆっくり弾いていってください。了、あと頼むな。オーナーには言ってあるから」
ライブハウスの鍵なのだろう。束になっている魔女が持つようなジャラジャラを受け取って、了は御礼を言った。
「ありがとうございます。急に変なお願いしまして」
「全然いいよ。休みだったのにリハから出てもらったんだから。じゃあまたな。雛さんも。良かったら今度ライブ見に来て」
「ありがとうございます。ピアノお借りします」
後ろ姿まで格好いい先輩にぺこぺことお辞儀をしながら見送った。優しい人で良かった。
「誰が姉だ」
「え、まだ言う? 妹って言われたら訂正したくなっちゃうでしょ」
「なんでそうなる」
「いいからもう! ちゃんと弾いて来たの?」
「言われたところまでは」
了がファイルを広げ、頭から弾き始めた。
リズムやテンポの感覚もいいが、耳もいい。ちゃんとピアノの音を聴きながらタッチを微調整している。
基本だけ習ったと言っていたが、よほど真面目にやったのだろう。指遣いも姿勢も全くブレない。身体能力の高さが演奏に及ぼす影響をこうまで目の当たりにすると、雛自身も体幹くらい鍛えなければと反省する。
了が弾き終えると、雛は思わず拍手をしてしまった。
「すごくいい。完成度高い」
「篭ってたからずっと練習してた」
了が家に篭っていたのは、先週のジムでボコされて顔が腫れていたからだと言う。シュートボクシングというものをやっているらしいが、雛には立ち関節技というものが理解できず、了の説明は空振りした。
「……顔かあ。痛そう。いや、治って良かったよ」
「まだアザある。こことか」
了が顎や目の縁を向けて来たのでよくよく見てみると、微かに治りかけのアザがあった。
「で、ハイ。概ね良く弾けてます」
「───それはどうも」
「拍子感があって粋なんだよね、了が弾くと」
「でも、だろ?」
「でも……ここかな、少し気になったのは」
少し聴いただけでは気づかないくらいな、地味な転調があり、そこでリズムも変わる。雛の耳に引っかかったのはその後の数小節だった。
「正確なんだよ? 音もいいし。困ったな、うまく言えなくて」
「メロウだよな、そこのメロディ」
「そう。まさにそう。だからね、ここのメゾフォルテからディムってくときに、もう少しメロウっ気と……あと湿り気が欲しい」
「メロウで湿っぽく……湿度か、難しいな」
「ベシャベシャじゃなくていいから軽く」
「水撒くんじゃねえんだから……いわゆる情緒的ってやつ?」
「多分それ。偉い了。多分それだそれ」
「多分なのに大丈夫なのかよ。情緒的ねえ……」
了は軽くその箇所を弾き流しながら、考え込んだ。
「指遣いが複雑で、意外と難所なのよ。だからほんの少し、運動神経で乗り切ってる感じが出るのかも」
「まあ情緒と言われて本気出さないわけにもいかないしな……一応役者だし」
「何か知らんけど出すといいよ」
了の構想が固まりかけているようなので、雛は応援した。情緒、メロウ、ロマンチックと標語のように繰り返して洗脳を試みる。熱血ピアノ教師作戦。
「やめろそれ……メロウっ気が吹っ飛ぶ」
「そうか、ごめん。難しいもんだね」
雛は苦手なことに挑戦したことなど、大人になってからはなかった。だから教えているのは雛の方なのに、まるで真っ新な自分を委ねているような気持ちがする。相手が了だからこそ安心して出来ることなのだろう。
「……ぼちぼち行くか」
「是非とも」
「本気出すからそっち向いて座ってろ」
音だけ聴けという挑発なのか、了は椅子を持って来て、自分の椅子と背中合わせに置いた。
そのまま見ていたいような気もしたが、雛は言われるままそこに座った。
椅子の背越しに僅かな熱を感じると、了が集中しているのが分かった。
人前であんなことやそんなことまでやってのけるのだから(ベッドシーンなども含めて色々観てしまった)、その度胸と経験を活かして欲しい。
雛はカーリーが見せてくれた了のインタビュー動画を思い出していた。ままならないから面白いと言って俳優になってしまうなんて、了は変態だ。変態過ぎて尊敬してしまう。
目を閉じて背もたれに身体を預けて待つと、了の背中が動いた。
(あ、ダメだこれ。持って行かれる)
曲が始まってすぐにそう思った。序盤からもう、頬の側面に鳥肌が立った。
『circle』は環へ向けたメッセージだ。
雛の宙ぶらりんになった想いや願いがそのままの形でそこにある。大好きな気持ち込みで、良くも悪くも中途半端だ。
追い切れなくて、忘れることからさえも逃げて、行き場を失った音。苦しそうに聴こえるであろう部分も随所にあり、結局それが本音なのだと突きつけて来るような曲だった。
なのに了が弾くと、悲しいのにとても優しくて、どこか余裕さえある響きになる。
「なんか、だいぶ違ったな」
弾き終わった了が呟いた。
雛の弾き方とかけ離れたという意味だろう。
「でも凄く良かった。内側から何か出そうとすると、どうしても色々伴うから、それがなおさら、凄く良かった」
雛なりに精一杯褒めたくてそう言うと、了は少し笑った。
「出るもんだな」
「出せるのが凄いよ。了はいい役者さんなんだねえ。ヤクザとか足軽とか探偵とかヒモとか…バンドマンのも観たけど」
「───節操なく観たな。どのバンドマンだよ」
「ベーシスト。わっるい男」
「まだマシな奴だったわ。セーフだな」
「あれがセーフなの? いやもう……何の話よ。とにかく、凄く好きだった。いや、バンドマンじゃなくて演奏がだよ? 」
練習はきちんとするし、僅かなヒントからでも何かしら掴んでしまう。こんなふうに生きてこんなふうに仕事をして来たなんて、了は立派だと思った。
「ああ、なんか本っ当に感動しちゃった」
雛が背を向けたまま言うと、了がまた笑った。
「了、もっかい弾いてよ」
「いいけど。泣いてんの?」
「泣いてない。先生の言うこと聞きなさい」
すると小癪なことに、また音が違うのだ。雛のために弾いていると、はっきりと分かる音を出すのだ。
こういう甘やかし方をするなんて、まかり間違えばとんだ罪作りになると思う。
「───やな子だ」
「子って言うな」
弾き終わった了は椅子のまわりを半周し、雛の目の前に立った。
「───私がいなくても弾けるくせに」
顔を覗き込まれそうなのを避けながらそう言ってしまった。この曲はやっぱり、好きだけど辛くもあるのだ。
情緒不安定。大人気もない。雛は了が呆れるか気を悪くするだろうと思い、すぐに何か言って取り繕おうとした。だが開きかけた口は、了の手に塞がれた。
「教えてもらった甲斐はある」
了の驚くほど甘い声に、雛は自己嫌悪に陥った。何をこんなにぐずぐず言ってるのだろう、情けない。この曲を深掘りするのが辛いのなら、始めから引き受けなければ良かったのだ。
雛は了の手を口から引き剥がし、勢いよく立ち上がった。
「よし。了、今日は帰ろう。お代はいらないから」
「───突然どうした」
「本当にごめんだけど、とにかく帰る」
雛はまた改めてと言って了の横をすり抜けようとした。一時退却するのもやむなしと思ったのだ。
その日の雛はもう、了のためになるようなレッスンは出来そうになかったから。
「雛」
了の少し苛立った声に振り向くと、次の瞬間腕を引かれ、身体ごと向きを変えられた。見上げるとアザの名残りが目に入った。
「───泣き切りたいなら胸貸すけど」
「泣いてない。それにそんなもの借りられない。畏れ多い」
「じゃ、いい加減何があったか話せば? 今なら利用されてやるから」
「そういうことしたくないよ。あんたには」
「なんでだよ。そんなに子供に見えてるわけ?」
雛の頬に再び鳥肌が立った。子供になんか見えているわけがない。いくらそう思い込もうとしても。
「了のこと子供扱いなんて、してないよ」
「してる」
「してない」
「してるだろ」
「してないったら」
確かなのは、今のこのやり取りは子供の喧嘩だということだ。
雛と同じタイミング了もそう思ったのだろう。不満そうな様子ながらも矛を納めてくれた。
「送る。近くに車停めてあるから」
「いいよ。電車で帰るから」
「却下」
どうしても許してもらえず、揉める元気もなく、雛は根負けして車に乗った。
前は気にならなかった車内の距離感と閉塞感。一度意識してしまうと、了の顔も見られない。
「了、気まずいついでに提案なんだけど」
雛がそっぽ向いたまま切り出すと、了が気の抜けたような声をで答えた。
「ガッツあるなおまえ」
「これ続けるなら、やっぱりうちのピアノ使おうよ」
「…………家に招くとか、そこまでの仲じゃないだろ」
「ふざけないの。私が迂闊だった。了は有名人なんだし、一緒にふらふら外を歩いたりしたらだめだよ。恋人には見えないにしろ、噂なんか尾鰭がつくものだし、精度の低い伝言ゲームじゃん」
「恋人には見えないねえ……まあいいけど」
「分かったの?」
「はいはい」
了は運転しながら、とても不真面目な返事をした。
「───環のことなら、あんたに話す謂れはないと、思わないでも、ないんだけど」
「ある。レッスンのたびに先生がどっかに魂飛ばしてたら捗らない」
「飛ばしてない。でもまあ……そこまで言うならざっくりと話す」
ざっくりと語るには相応しくない気もしたが、経緯だけを話そうとしたのだ。そのときは。
◇◇◇
「なんで富士山の画像つけるの?」
あれは大学を卒業する前くらいだったか。環が突然そう訊いてきたのだ。
彼女は雛が新しく配信した曲を聴きながら、いまさら訊くのもアレだけどと笑っていた。
「フリーの素材にいっぱいあるし。おしゃれ動画作るセンスなんてないし。富士山ならみんな好きかなあと思って」
「雛自身が富士山ファンだってこと?」
「富士山ファンだよ。カッコいいし……みんなも好きだと思い込んでた…え、富士山ってそういうもんじゃないの?」
「雛の凄いとこだよねえ。私富士山が好きとか嫌いとか、考えたこともなかった」
「ピアノに合わないかな……富士山じゃ象徴みが強いか。お花とかがいいのかな」
「変えることないよ。それより、登らない?」
「富士山に? 唐突だなあ。でも楽しそう!」
登山があまりにも環のイメージに合わなくて、雛はケラケラと笑った。けれど誘ってくれて凄く嬉しかった。
そうは言っても日本一高い山だ。うっかり登りに行ってはいけないだろうと、二人で色々調べ、予算を組んだ。
お互いが確実に時間を合わせられるのは朝だけだったので、早起きして身体を動かした。
どう備えれば富士山に耐えられるか分からないし、ツアーは夏でずっと先だったので、わけも分からず毎日走っていたら二人ともふくらはぎがムキムキになった。
「ほら雛、行くよ」
走りに出るときにはそう言って髪を纏めていた環。雛は今でも、その笑顔を思い出す。
そうして雛と環は、就職して初めて取った夏休みを利用し、富士登山へ出発した。
天気にも恵まれ、登りながら二人でずっと笑っていた。
「ねえ、環。登れる推しとか、最高だねえ」
「ほんとだねえ。そんなにヘロヘロなのにニヤニヤするんだ」
「ニヤニヤするっしょ。凄く嬉しい」
「あはは、雛の富士山が愛炸裂してる」
夜中に山小屋を出発してご来光を見ると、問答無用で泣きそうになった。富士山、恐るべし。環と一緒に見る景色がどれも、様々な運や巡り合わせの結び目に思え、雛は言葉を失くした。
下山してそのまま帰る予定だったが、なんと環は雛にサプライズを用意していた。
「ご褒美コースだよ」
そう言って環が案内してくれたのは、きれいな温泉宿だった。
二人して疲れた疲れたと言いながら温泉を堪能し、布団を並べて寝んだ。くたくたなのに、とても楽しかった。
「雛、足のマメどう?」
「平気。ギリギリ潰れなかった」
「よかったねえ」
社会人になり、いつまでこの生活を続けていけるのかと一度も考えなかったわけではない。雛も環も。
お互い何も言わなかったけれど、他人からはあれこれ言われていたのだ。余計なお世話だが。
将来どうするの? 一人暮らししたくないの? 友達とか彼氏とか呼べなくない?
風の強い夜だった。
木々の揺れる音が窓越しに聞こえて、部屋の壁に映った影が揺れていた。
環が「手、繋いでいい?」と言ったので、雛は不思議に思いながら手を差し出した。
並べた布団はちゃんと手が届く距離で、環の指に触れるとそっと握られた。
「雨降るかなあ」
「降るかも。風が湿気ってるから」
雛の意識はゆっくりと沈んだ。とても心地よく、安らかな眠りだった。
そして雛が翌朝目覚めると、環はどこにもいなかった。
◇◇◇
了はずっと無言だった。雛が話すだけ話してしまったら、車はちょうど家の前に着いた。
「ありがとうじゃあねおやすみ」と、言い逃げる気満々で言うと、了にシートベルトのバックルごと手を掴まれた。
まさに降りようとしていた雛の身体がベルトをロックし、車内に硬い音が響いた。
「了……阻止の仕方が手慣れ過ぎてる。クズバンドマンぽい」
「誰がクズだ。話の続きは?」
「───ないよ。終わりだよ」
「掻い摘むと、友達が急にいなくなったって話になるけど」
「そうだよ」
雛は了の手を振りほどくことも出来ず、回らない頭で逃げ道を探した。
言わなけれ良かった。言わなければ、暴かれることもなかったのに。
「そうだよじゃねえだろ。俺なんか数回会ったっきりだけど、でも分かるよ」
「数回会っただけなら何も言わないで」
雛は了の口を手で塞ごうとしたが、それも阻まれた。了が片手で雛の両手首を掴むので、ちょっとした修羅場なようになってしまう。口で勝てない上、腕力でも負けるなんてあんまりだ。
「言わないで」
「却下」
フロントピラーが街灯の光を遮り、雛の視界が陰った。
「あの人は、おまえに惚れてたよ」
「……なんであんたがそれをサラッと言うわけ」
「サラッとも何も一目瞭然だったろ」
「私は何も、言われてない。環には」
「じゃ、言われたらなんて答えた?」
「そんなの分からないよ」
「今ならなんて答える?」
「そんなの…………」
───ずっと同じ場所にいた。答えの出ない七年間。
気づかない振りをしてしまったのだろうか。
知らずに貴女の気持ちを踏みにじっていたのだろうか。
ずっと同じ場所で、ずっとそのことを考えていた。
「で、整理するとだな」
「なんであんたが整理すんのよ」
「あれだろ、友達のままではいられないってやつ」
「ムカつく……頭いいわりには陳腐なこと言ってくれちゃって。手、離して」
「あのなあ、このままじゃおまえ、七年が八年になってそのうち十年にもなるだろが」
「分かった。分かったから、手を」
一発で仕留めて来た。平気な顔をして急所を突くなんて、悪どい。殺し屋か。
雛は了がやっと離してくれた手を握り、震えを隠そうとした。
「言葉を選ばずに言うと、償おうとしても無駄だ」
「少しは選びなよ」
「なぜ無駄かと言うと、おまえに責任はないから」
「───そんなわけない」
「自分のせいだとお前に思わせて、そのまま放り出した時点でもう終わりなんだよ。人間関係としては」
もしかして、なんて思ったこともあった。
このままここに留まっていられたら、環が帰って来るかも知れないなどと。
終わりなんだよと言い切った了は、雛の顔をじっと見ている。
「なにその顔。泣かせにかかって来てるでしょ」
「さあな」
「それって、でも……了の感想だよね」
「論破厨か。おまえの好きとあの人の好きは違ったってことだろ」
「違ってたって良くない?」
「───寝れんの? あの人と」
ズバリと訊かれ、雛は息を呑んだ。
思わず考え込んでいたら、了にまた耳を引っ張られた。
「それやめ、くすぐったいんだったら!」
「ったく、イライラするな。そこらへんにワンチャンあるかもとか思ってんじゃねえだろうなおまえ、ああ?」
「違……でも、やってみないことには」
「は? なんでそう肝心なところで大雑把になるんだよ。何が『やってみないと』だ。バーカバーカ」
「バカって言った方がバーカバーカ!なんでそんな、めっちゃくちゃセンシティブなところで口出しされなきゃならないのよ」
「うるせえな、何がおセンシティブだ。そこは俺の死活問題なんだよ」
「なんで……」
始め雛は了の顔が近づいて来たなと思っていた。するとあっという間にその腕に囲われた。
シートベルトはしたまま。逃げられず、身動きも出来ない。
ゆっくりと助手席側に身体が倒れて来て、視界が奪われ、それから額が了の肩に触れた。
カーリーとするような密着ハグではない。
緩くて、熱だけを分け合うような抱擁。了の息遣いが近くて、強く抱き締められているわけでもないのに息が苦しかった。
「雛」
耳元で名前を呼ばれて、僅かに残っていた曖昧さが吹き飛んだ。それほどはっきりと、熱っぽい響きを持った呼び方だった。
次の瞬間、了は雛のシートベルトを外し、身体を離して運転席に戻った。
「───何、今の」
「宿題にしといてやる」
「バカなの? こんなの、ダメじゃないの。了は、ほら……だめなのよ?」
「そんなに真っ赤になりながら、子供扱いされても困るんだけど」
拗ねているような呆れているような、なんとも言えない表情を浮かべ、了が言った。
いきなりあんなことをしておいてその態度はないだろう。雛はそう思ったが、言葉には出来なかった。そもそも顔を隠すのに必死でそれどころではない。
こうなったらこのまま逃げてやろうとドアを開けると、了の声が追い討ちをかけて来た。まるで言い聞かせて来るように。偉そうに。
「次は、おまえのピアノで」
雛には一瞬意味が分からなかったが、すぐにレッスンのことを言っているのだと思い当たり、そのまま黙って車を降りた。
◇◇◇
了に送ってもらったあの日から、雛は家にいる間はほとんどピアノの前に座っていた。
ネットに上げている作品たちは譜面としても保管している。五線譜に書き込みながら作曲するわけではなく、弾いたものを録音しつつ作業を進める。完成したら頭から演奏して、それを後から採譜するやり方だ。効率は悪いがそれが癖になっている。
楽譜を綴じたファイルを捲ると、音符の書き方は変わっていないのに、筆跡の方はかなり変化していた。五線譜の隅に書き込んだあれこれを読むと、雛自身も覚えていないことが多かった。
二十一番。環が朝によく聴いていた曲。
六十番。環がジョギング中に聴いていた曲。
百四十五番。 環が風呂で口ずさむ曲。
三番は環のどのプレイリストにも、必ず入っていた曲だ。
頭の中で曲が流れると、思い出がどんどん蘇った。話したこと、話せないままになったこと。
どの思い出がどこから零れた欠片なのだろう。美しいピースたちは見事にバラバラで、それはもう、戻らない。もう二度と元の場所で綺麗な形を作ることはない。
忘れられないのに、色褪せる。
色褪せるなどと言えばロマンチックだが、結局記憶が劣化するのだ。一丁前に傷痕だけは残して。
二百と五七曲プラス『circle』
その全てに彼女がいる。
───だからこそもう、待ってはいけないのだろう。
雛の中ではとうに分かっていたからこそ、分からない振りをしていたことだった。
雛は『circle』の楽譜を引っ張り出し、頭から弾いてみた。
───悔しい。ここ、了なら余裕で弾くのに。
そんなことを考えながら指を動かす。
適当にアレンジを加えて遊んでいるうちに、指は滑らかになり、どんどん乗ってきた。
「うーん」
雛は『circle』を別アレンジで書いてみるのもアリかなと考えた。
もっとこうしたいとか、了の手ならもっと和音を豪華にしようとか、アイデアがどんどん浮かぶ。
「circle デラックス……強そう。circle part2じゃつまんないよね……サークル、サークル」
タイトルを考えるうちに、いっそ連弾譜にしようかと思い付いた。了はもうすぐこの曲を完成させてしまうだろう。だからこそ、最後に遊んでみてもいいような気がする。
形にして、名前をつけてしまった曲なのだから、思い切り愛したい。もう逃げたくない。
「来るってからには、来るんだろうなあ」
今日にも了から連絡があるだろう。
かなり気まずいが、またレッスンをするのだろう。
了のことを考えてしまうともう、日常生活に支障が出るような気がして、雛はひたすら曲作りに励んだ。
ここは優しく、ここは軽く。
この音はどうしよう、了の指なら届くかな。
ここは腕がぶつかるかも……交差させる?
「あぁーーーーー」
雛は手を止め、顔を覆った。
だって了が悪い。
「なんであんなこと……」
あんなこと、了にとっては何でもないことなのかも知れない。冗談半分で誰にでもするのかも知れない。からからかっただけなのかも知れない。
(それこそ私の知らない、もう大人になった了なんだから)
そうやって「かも知れない」を積み重ねていると、自分がとても情けなくなった。
「───多分本気なんだよなあ、肌感としては」
了はあれほどはっきりと熱を向けて来た。
子供扱いするなと言って、あんな声で名前を呼んで。
「いやでも……私ってことなくない?……単なるお隣さんで、幼馴染で、六歳も年上だし……そもそも了の周りにはほら、煌びやかな人たちが……」
これまた情けないことに、今度は釣り合わないであろう点を挙げて、動揺したり落ち込んだりしてしまう。往生際が悪い。つまりもう重症なのだ。
そうこうしている間に、了からメッセージが来てしまった。いよいよ次のレッスン日が決まるとなると、覚悟を決めなければならない。
「───だめだ。そろそろちゃんとしよう。本気でちゃんとしよう」
そして、レッスン日はあっさりと決まった。予め場所が決まっていたので、メッセージ二往復のみでスケジュールが確定した。
日付と時間。場所は自宅。メモ良し。
◇◇◇
「悪い、遅れた」
その日のレッスンは夜の八時からだったが、了が到着したのは九時を回った頃だった。
「いいよ。連絡くれてたし。なんでまたスーツ?」
「ちょっと人に会ってた」
相手はお偉方だったのだろうか。
普通に振る舞うだけでいっぱいいっぱいだった雛はそれ以上のことは訊けず、休み中だというのに色々あるもんだなと思った。
「あ、上がって? 凄いね……ちゃんとしたサラリーマンに見えないところが」
「ちゃんとしてないサラリーマンて何だよ」
雛としては褒めたつもりなのに、うまくいかなかった。若かりし日のジュードロウが改心したような素敵さだと言い直したが、何の映画を観たんだと呆れられた。
あれは何という映画だったか。了の出演作を漁っていたときに、勢いで他の作品も楽しんでいたのだが、タイトルは忘れてしまった。会話が続かない。
「ええと、ずっと外にいたの? ごはんは?」
「後で食べる」
「お腹減ってないの?」
了はその質問には答えなかった。と、いうことは空腹なのだろう。
「ラザニア食べない? さっき作ったんだけど」
そう言ってハンガーを渡すと、了はジャケットを脱いでから食卓に着いてくれた。
雛はキッチンに行って、まずオーブンを予熱した。
リビングに引き返すと、了がテーブルの上にあるものを物珍しそうに見ていた。
それで良し。とても良い子だ。そのまま卓上のスパイスラックを見ていなさい。
見た目は物凄い違和感だが、昔は珍しくもない光景だったのだ。家の中に了がいる、それだけのこと。
雛はそう考え、自らを励ました。
「何だこれ?」
「あ、そっち見てたの? パスタマシンだよ」
「麺好きなのは知ってたが……行き着くところまで行ったか」
「最高の趣味なんだよ。作ってると無心になれるし、後から食べられるし」
「作曲はどうなんだよ」
了はパスタマシンをひっくり返して観察している。そういえば昔からメカメカしいものが好きだった。雛がラザニアも作れるしうどんも出来ると説明したら意外にも感心してくれた。
雛はオーブンを覗き込みながら作曲について考えた。あれも確かに趣味だが。
「───作曲は無心どころか、私の場合はかなり煩悩まみれでやるもの」
「禍々しいな」
「しかも好不調の波がある。その点麺はいつでも美味しい」
「よりけりってことだな」
「まあそうだね」
予熱を含めるとそこそこ時間がかかってしまうので、何か出さねばと思いエリンギを炒めた。雛にはそんなつもりはなかったが、了が育ち盛りだという感覚から抜け切れていないのだ。
「これ、エリンギのバター醤油……と、残り物で悪いけどコールスロー。ラザニアはあと五分くらい」
「美味そう……悪いな。いただきます」
雛が向かいに座ると了が無言で包みをくれた。
「どうしたのこれ」
「もらいもの」
「わあ……お菓子だ。ありがとう」
白海老の煎餅というものだった。空手で家に来ないのが了らしい。
「悪かった。この前」
食べながら突然言われ、雛は咄嗟に表情を消した。
何について言われているにしても、適切な反応が出来そうになかったからだ。
(ほんと、何について? この前? どれ? やばい、耳が熱くなる)
「いや、聞けよ」
雛が耳を隠したのを見て拒否反応だと思った了は、声のトーンを上げた。
「環さんのこと。あれこれ勝手に言い過ぎた」
「…………」
「どうにもならないこともあんだよな、実際。言葉が足りなかった」
「了……」
「つまり、黙って消えたのはフェアじゃなかったってこと。でもあの人を責めてるつもりもない」
雛は頷いた。環のことを恨む気など微塵もない。ただ自分は環を苦しめただけの人間で、今でもそうなのかなと思うと胸が痛いのだ。
雛がラザニア出すと、了はそれも平らげた。しかしもっと何が出そうとすると、断られた。
「ほんとに? お腹いっぱいになった?」
「なった。美味かった。落ち着け。俺は成人で、そんなに食べる方でもない」
「そうか、分かった……ごめん。量加減が分からなくて」
「いや、実家でもこうなるから慣れてる」
雛は早速とばかりに、了を防音室へ案内した。了曰く一応最後まで弾いて来たとのことだが、彼の一応はレベルが高いので、曲の完成は予想より早まるかも知れない。どうかすると今日がその日かも知れない。
「よし、やろうか」
「懐かしいな、このピアノ」
曲は頭から弾いてもらい、行きつ戻りつ細かいところを調整した。
思いもよらないような始まり方だったが、雛はこのレッスンを引き受けて良かったと思っていた。了が勝手に上手になるのを早送りで見ていただけのような気がしないでもないが、それでも雛にとっては見る景色が一変するような出来事だったのだ。
了は通しで二回弾き、仕上げにネクタイを外してもう一回弾いた。
そこにはもう了の作る世界があった。
「いい曲だねえ」
雛がしみじみ言うと、了は「だろ?」と言って笑った。
「泣きそうな顔しなくなったな、これ聴いても」
「私? そんな顔してたかな……」
了にそう言われるとずいぶんと心配をかけていたのだなあと実感した。
「打ち上げする? 飲もうか」
弾き終わったタイミングで雛が提案すると、了は一瞬硬い表情になり、そのあと大きなため息を吐いた。この期に及んで初対面とは言わないだろうと思い、誘ったのだが。
「ほんとに、何つうか……変なガッツあるよな、おまえ」
「なんか用事あった? それとも車?」
「送ってもらったから車じゃないけど」
「了がアウトだと思うなら断ればいい」
ボケているわけでも、この前のことを忘れているわけでもないと伝えたくて、雛は声に力をこめた。
「満更考えなしってわけでもないんだな」
「私だって考えるくらいする」
「ほんとかよ……なんか方向性違ってないか?」
「違わない。合ってるはず」
ビールはある。
白海老の煎餅もある(お持たせ)。
チーズやらナッツもある(カーリーがくれた)。
雛が次々とつまみを出し、缶ビールも持って来ると、了は観念したように席に着いた。
「では、circle完走おめでとうございます」
「おかげさまで」
間抜けにも乾杯してから「グラス出してなかった」と言うと、了は洗い物を増やすなと言った。やっぱり了は了で、雛の知っている幼馴染だ。
「了といるとき楽しいかどうかなんて、考えたこともなかったけど」
「なんて言い草だおまえ」
「でも楽しいんだわ」
「───それはどうも」
雛は考えていた。このままがいいと言えば、了は引いてくれるのだろうかと。それはやっぱり逃げなのだろうかと。
「お代わり持って来る」
「待て」
「なんで?」
人のことを引き止めておいて、了はしばらく何も言わなかった。雛が口を開こうとしても、目で制された。
「息はしてもいいのよね」
「当て擦るな。おまえは人の心が分からないのか」
「分からないのは了のことだけど」
そんなに見詰められても雛にしたら息が苦しいだけだし、そもそもそんなに見詰めないで欲しかった。
了の方さえ見なければいいと思っても、意思に反して目が泳ぐし、身体が自由にならない。わざとだとしたら卑怯ではないか。こういうのを実効支配と呼ぶのでは、知らんが。
「雛、変なこと考えてないでこっち見てくれ」
「絶対イヤだし変なことなんて考えてない」
「なんだってこんなに緊迫してるんだ」
「そんなのこっちが、」
言葉の途中で雛は息を呑んだ。了がまた耳を触ったからだ。
「また耳……!」
「顔赤いな」
「飲むと赤くなるの。面白がらないでよ……なんで耳なの」
「───どこまで許されてるか、探るしかない相手だっているんだよ」
「探……これが?」
「いつもなら普通に同意くらいとる」
「私にもとってよ! 同意は大切……だいたいいつもって」
「分かった。いっそルール敷こう」
「了……あんたこそ変な方向に行ってない?」
「行ってない。これで合ってる」
これまで雛は、了は冷静なのだと思い込んでいた。少なくとも自分よりは。だがその仮説も怪しくなって来た。
了がスマホで何か検索している間、雛はうるさく話しかけた。変な空気を一ミリでも日常方面へ引き戻したかったし、相手は朝比奈雛なのだと思い知って欲しかったからだ。どうかすると家族を巻き込んで一生気まずい思いをしなければならないのだから。
「了、聞いてる?」
「聞いてる……あった。これだ」
「どれ?」
「ドラマで見たことないか?『真実か挑戦か』」
「知らない……王様ゲームみたいなもの?」
「少し違う。こういうルーレットがあって……設定と、プレイヤー人数……二人」
「……怪しい。そんなルール持ち出すなんて怪しい」
「バカにしたもんでもないんだよな。目を逸らせない作りになってて、何気に抉ってくる」
「抉られたくないよ」
「ぶっ壊さなきゃ話が進まんだろ」
「穏便に行きたいのに」
ルーレットを回し、質問者が「真実か挑戦か」と問いかける。
質問された側はどちらかを選ぶ。後から真実と挑戦で乗り換えをしてはならない。
そう説明されてもイメージが掴めないので雛も自分で検索してみた。妙なことになったと思いながら。
「質問に答えられなかったら……ああ、そういうことか。正直に答えるか、何かに挑戦するかってことだよね」
「そう」
「やな予感がする」
「パーティゲームだ。肩の力を抜け。ああ、おまえビビってんのか?」
「は? ビビってないし!」
了が天才煽り魔なのか、雛が単純なのか。多分両方だろう。
「まずは回すんだね……なにこれ英語か。あなたが、これまで見た最も、奇妙な夢は? ハイ、真実か挑戦か」
了はふーんと言いながら片頬杖をつき、真実を選択した。
「奇妙な夢な……ああ、足の臭いが測定できる装置があって」
「のっけからそんな装置が……」
「奇妙な夢だからな。その装置をもらって、なんか、足の臭いの世界大会みたいなとこで審査員やらされるって夢」
「そんなバカな…それは、臭い方が勝つの?」
「当然だろ。じゃあ次おまえな。ええと、あなたが最後に泣いた映画はだってよ」
「え……ええと、挑戦……は選んだらどうなるんだろ……酷い? エグい? 死ぬ? 」
「死なないだろ。せいぜい酒飲めだの踊れだの脱げだのキスしろだの」
「酷いじゃん。じゃあ真実……映画『Rock you』」
「俺も出てるやつ? あれ学園ラブコメだろ」
「泣くよ。長尾くんがめっちゃいい奴で当て馬で。私なら絶対長尾くんにしたよ……」
「長尾は俺だが」
「だから言うの恥ずかしいんじゃない! 次! ハイ! あなたの、最大の後悔は、何ですか?」
「──────真実はパス。挑戦する」
「なんでよ!」
「これがルール。ええと……一番古いセルフィーをインスタに上げるんだな。手元のライブラリでいいか」
「やるんだ。芸能人怖い」
了はさっさと(十代前半の頃のものと思われる)画像を公式のインスタにアップした。全く恥ずかしくないようなセルフィーだが、事務所に無断にやると相当怒られるやつみたいなので、雛は溜飲を下げた。うんと怒られるが良い。
さすがパーティゲーム。お酒が進むと楽しくなるように作ってあるが、楽しくなってお酒を飲んでしまう側面もある。油断がならない。
「次。目の前の人に一番望むことは?」
「了にってこと?」
「そうなるな」
雛は困った。了に望むことなんて、ないような気がする。
「あるだろひとつくらい」
「……正直に言うとつまんないよ?」
「正直なら良し」
「───元気でいて欲しい」
「孫か俺は」
了は平気な顔をしているが、雛にはじわじわ来ている。たかがゲームのルールなのに、真実という言葉は重い。真実を担保に言わないことを選択するのも、それはそれで重い。「なんとなく」とは対極にある、純度の高いやり取りなのだ。
その中で雛は、自分が抱いていた了への気持ちを、そのままの形で突きつけられた。
「なるほど。抉って来るね。次、ええと、訳しにくいな……同性か。同性とキスしたことは?」
「真実。ある。仕事で」
「即答かい」
「次………あなたの足は臭いですか?」
「なんで足の臭い繋がりになるのよ! 陰謀?」
「ルーレットは公正だ。嗅いでやる」
「冗談じゃないよ! 挑戦する」
「挑戦ね───服を脱げってさ」
「クソゲームだ! 人権に配慮しなさい」
「分かった。ここだけ遡及選択させてやる。人権にも配慮する。つまり、脱ぐのは俺にして、嗅ぐのはおまえの頭にする。選べ」
「絶妙な譲歩しよって……悪どい」
「分かった任せろ。俺が全部脱いでやる」
了が平気な顔をしてシャツのボタンを外すので、雛は悲鳴を上げた。
「ギャー!やめてよ! ……頭かあ……臭わないとは思うけど……」
「大丈夫だもう嗅いだ」
「ギャー!」
きっともうダメなのだ。
だってものすごく楽しい。こんなに笑ったのはいつ振りだろう。楽しくて、酔っ払うのさえもったいない。
寂しくない。怖くもない。彼女はもういないのに。
「そんでもって、次は、ホワットイズ……ライ? あなたが相手に対してついた、最初の嘘は何ですか?」
「最初の嘘……雛にか…………じゃ、真実」
「どんな嘘こいたのよ、了少年は」
「2007年8月12日」
「具体的すぎて怖いよ。やだ、聞きたくない」
「───可愛くないって言った」
「…………………は?」
いつも人のことを見透かして、いつも落ち着いていた、年下の幼馴染。
その了が急に切った舵に、雛は完全に足をすくわれた。
「覚えてるか? 浴衣を着た雛に、俺がそう言った」
「やめよう了。待って、何これ」
思ってもみなかった角度からやられ、雛は額を覆った。自分の視界を遮りたかったし、了の視線からも逃れたかった。
覚えている。あの日はお祭りで、友達と出かけるために浴衣を着せてもらったのだ。了に貶されてムカついたが虫の居所が悪かったのだろうと受け流した。あまり深くは考えていなかった。元より、一筋縄ではいかない少年だったのだ。
雛の目から耳へと熱が広がり、あっという間に顔全体が熱くなる。酔いも一気に回った。
伸びて来た手が耳を掠め、雛の側頭部を包み込む。
これが了の敷いたルールだったのだろうか。
妙なゲームで、自分の気持ちから目を逸らせないようにして。
顔が近づいて来ても、目を逸らせなかった。了が見たこともない目をしていて、ギリギリのところで耐えているのが見て取れて、泣きそうになった。
「同意なら目、閉じて」
「待って、無理。恥ずか死ぬ」
「じゃ、あのときの感想、ここで言い直すけど」
「絶対だめ! これのどこが同…」
文句を言い続けてみたが、唇が触れる前に目を閉じてしまった。
◇
よし片付けようと了が言い出し、二人でキッチンへ移動した。そうは言ってもそんなに洗い物はないし、既にほぼ全部が食洗機の中だ。
了は水を飲んだグラスとチーズを盛った皿を手洗いしながら「でかい食洗機だな」と言った。
「それも家賃に及んでるからねえ。あ、それこっちで拭くよ」
「頼む。なるほどな。エアコンもでかい」
「引っ越すよ。ちゃんと」
「そうか。じゃあ俺帰るわ」
「あ、はい。うん……」
驚くなかれ、この了はついさっきまで雛にキスをかましていたのだ。それも雛が完全に逆上せて、了の胸を叩くまで何分も。
促されるまま一緒に片付けをし、帰ると言うので上着だのネクタイだの渡す流れになっているが、雛としては狐につままれたような気分だった。
「了」
「ん?」
「ピアノは続ける?」
「教えてもらえるなら」
「それは勿論だけど」
靴を履く了に話しかけても、普通過ぎて何もなかったかのようだ。
このまま見送るのも引き止めるのも、それが果たして相応しい行動なのか全然分からない。第一何と言えばいいのだろう。さっきから目も合わないのに。
「そんなに困った顔すんな」
「困ってはいない。ええとじゃあ……お構いもしませんで」
「どこまでやらかすか、自分でも分からないんだよ。このままここにいると」
「ええと? うん。そうか」
理解出来るような出来ないような了の言い分に、頷いてみた。とにかく帰りたがっているのだろうと。
「───分かってるのか、おまえ」
「めちゃくちゃ分かってると思うけど」
了の怪しむような目を見て、雛はさらに良く分かった。これは何度もされたことのあるやつだ。了が「ほんとに分かってんのかよおまえは」と言いたいときの。
「仮に、俺がここに残るとする」
「仮にね。はい」
「そうすると、今この場から、おまえに『いいか』って訊き続ける」
「いいかどうか訊くの?」
「訊いて近付いて、触って、ベッドの中でもずっと。何度でもイエスって言わせないと」
「───了」
「気が済まないと思う、今夜は」
凄いことを言われ、雛は頭がぐらぐらした。
「───落ち着けって思ってるだろう」
「いや……そうかもだけど、ええと、」
どう反応すべきかと迷っているうちに、引き寄せられ、抱き締められた。あまりの勢いに一瞬足が浮いた。
「自分の積年の想いで……自家中毒気味で」
「───なんでそんなことに」
了と呼びかけても返事はなく、その腕には更に力が込められた。大きな手で腰と肩を掴まれているので、ほとんど身動きが取れない。
あの了が息を乱し、加減が出来ずにいる。
「…………」
「え、何?」
髪に顔を埋めたまま喋るので、了の言葉が聴き取れない。耳に向けて言って欲しい。なぜに頭蓋骨に向かって言うのだ。
「……ずっと好きだった、雛」
やっと聴こえたと思った瞬間、腕が解かれていた。
言い終えた了は、芯から疲れたように息を吐いた。
雛は俯き、片手で顔を覆った。だって、どう答えるのが正解なんだろう。こんなのは。
「う……承った」
「そうか」
「何度でも……私は頷くつもりだけど…………頼むから、あまり恥ずかしいことは訊かないで」
「───こっちも承った」
顔が熱い。
具体的に何について訊くつもりなのか、想像してしまいそうになる。良くない。
「じゃ、ほんとに帰る」
「うん。あ、了」
「?」
「好きだよ」
またの機会というのも変な話だと思ったから、夢中でそう言った。だが不評だった。
「───居酒屋で追加注文するみたいなトーンで言ったなおまえ」
「ケチつけないでよ」
「じゃあな……」
「はいはい。気をつけてね」
ドアが閉まってから数分、雛は施錠も出来ずに佇んでいた。するとまたドアが開いて了が顔を覗かせた。
「鍵閉めろ」
「あ、うん」
「聞き間違いじゃないよな」
「了……髪がぐしゃぐしゃだよ」
髪が乱れているどころか、顔も少し赤かったが、それは指摘出来なかった。
言えて良かった。
環のことは傷つけてしまった。それどころか、あのまま一緒にいたらもっと酷く傷つけてしまっただろう。
でも、大好きだった。環自身にも奪われたくない、大事な友達だったのだ。
恋をしないままでいたら、そんなことも分からなかったなんて、バカだったなあと思うけれど。
◇◇◇
仕事をして、部屋を探して、作曲をする。
雛の生活自体は前とほぼ変わらない。
あれから二日経ったが、現実感が全く追いついて来ていない。了に何を言われたか、自分が何を言ったか、諸所諸々を整理しておきたいのに、思い起こすと刺激が強過ぎて、すぐに放り出してしまう。
放り出して、雛は環のことを考えていた。
自分には何も出来なかったのだと、割り切れないまま思い知った。何をしても、何をしなくても、結果は変わらなかったのだろう。
そして諦めた。この先二度と会えなくても、ずっと会いたいと願ってしまうのだろうと。
そうならばいっそのこと安心できた。
今は連弾のために『circle』を編曲している。
椅子を動かしながら、自分のパートと了のパートを行ったり来たりして進めているが、思っていた以上に愉快な曲に仕上がりそうだ。
次のレッスンはいつになるのかなとふとカレンダーを見たときに、着信が入った。
「───了」
「今いい?」
「いいよ。日程?」
「いや、それは来週以降になると思う」
「何かあった?」
「ない。どうしてるかと思って」
用事のない電話だった。
「どうだろう……つつがなく、過ごしていました」
「何よりだけどよ。目が泳いでるし、逃げ腰だし」
見えてないくせに文句を言われた。
逃げ腰なのは仕方ないと思う。すごいなあ、百戦錬磨感あるなと圧倒されていたのだ。やっぱりある程度は女慣れしているのだ。それなのに長年の片想いを拗らせるなんて、どうかしていると思う。
「レッスンな、ぼちぼち仕事が入って来てるからより一層不定期になりそうなんだよな、悪いけど」
「構わないよ。都合がいいときで。撮影があるの?」
「それはまだ。ここ最近は事務所に駆り出されてる。毎年やってるチャリティーイベントなんだけど……雛、バイトしないか?」
「あんたそればっかり…バイト斡旋業者か」
「違うけど、頼みがある」
頼みなら普通に頼めばいいのにと先を促すと、件のチャリティーイベントで合唱の伴奏をして欲しいのだという。
「合唱…子供の?」
「そう」
「伴奏なら練習すれば大丈夫だと思うけど」
「バンドの方もピアノで入ってくれる?」
「バンドもあるの? やること増えてるんですけど……何曲よ」
「セットリストまだ決めてないから分からんけど。要するに事務所のミニコンサートみたいなもん。身内でやってくれる人がいたらありがたいんだよ」
「───了も出るんだよね」
「まあ色々と」
雛としては手伝えることがあるならそうしたいが、出しゃばるのも嫌なので、躊躇してしまう。
予定しているお客さんは招待客ばかりで、所属タレントのファンクラブ会員枠や、協賛企業、福祉団体、などなど。マスコミも雑誌が一社入るだけだという。
「会社の忘年会に毛が生えたようなもんだ」
「毛が生え過ぎだよ。出る人間が悉く派手なんだから」
隅っこでピアノを弾くだけならば、なんとかなるかなと想像していたら、話が了の本業のことに変わった。
「予定としては配信ドラマの告知イベントが再来週にあって……そういや新しく役ももらったわ」
「やっとそういう報告してくれた。何の役?」
「こんな髪でいたら高校生役が来た」
「おもしろい」
「最後の方でチョロっと出演するだけだけど。チャリティーの後で撮影に入る。それから来年の春まではそんなには仕事入れないと思う」
「めちゃくちゃ情報入って来る。やれば出来る子ね」
「子って言うな」
「来年の春に何かあるの?」
「再来年の大河の記者発表」
「へえ。そんなに早………………え? 大河?」
「大河なら観てくれっつっても、格好つくかなって。主役じゃないけど」
雛としては言いたいことも訊きたいこともたくさんあった。だがまずは落ち着くために、熱を持ったスマホを耳から離した。大河。それは多分大河ドラマ。
そのオファーが来て初めて自分から報告したのか。知ってたけど。奴にはそういうところがあると、知ってはいたけど。
「もう少し、刻んでよ。なんでそう極端なの。意地っ張りなのにも程がない?この…」
「いや、おい……なんで泣くんだよ」
「うるさいわね。誰の役さ、大河は」
了は雛に、とある武将の名前を教えてくれた。主役がどの人物を演じるかも訊いて、雛は今度こそおいおいと泣いた。その時代、その人物を中心に描く物語ならばおそらく了は出ずっぱりになるからだ(受験は日本史B選択)。
「すごい、了のばか、すごく、頑張ったんだねえ」
「泣くか怒るかどっちかにしろよ」
「嬉しい……もうファンクラブ入る」
「絶対やめてくれ」
「絶対入る。カーリーと。特典ももらう」
泣きながら言うと、了は耐え切れなくなったように爆笑した。
「雛」
「そうやって笑ってなさいよ。人が泣いてんのに」
「そっち行ってもいい?」
「…………なんで? もう遅いじゃない」
「会いたいから」
これ以上正当な理由があるかと言わんばかりの口調に、涙が少し引っ込んでしまった。
「やだ」
「どうして」
「泣いたから」
「だから慰めに行くんだろ。俺が泣かせたんだから」
「あんたに泣かされたわけじゃない」
「でも俺のために泣いた。多分初めて」
「だめ。やだ。来な……」
あっ! と叫んだとき、もう通話は切れていた。
◇
「マジで来た」
「大丈夫だ。すぐ帰る」
了は玄関先にとどまり、靴も脱がなかった。
意外に思いながらも、雛はまずお祝いを言った。
「───改めて、ご出演おめでとうございます」
「ありがとう」
「り、立派になって……あんな、足軽で、すぐ死んでたのに」
「まだ泣くのかよ。別に足軽から出世したわけじゃないだろ」
「馬にも乗れるよ。練習してきて良かったねえ。きっと格好いいだろうねえ」
「だから、おまえの孫かよ俺は」
「孫より可愛いよ」
「一切意味が分からねえ。あと一応言っとくけど発表まではこのこと誰にも言うな」
「分かった」
「親にも言ってねえんだからな」
「分かった。家族にも言わない。そのレベルの箝口令なら私にも言わないで欲しかったけど」
「可愛げのない……まあそういうことで」
慰めに来たと言うわりに、了はずっと突っ立っていた。そして再会したときのようにハンカチを貸してくれた。
こんな夜にはいい子にしててやると偉そうに言うので、雛はそうかそうかと言いながら泣き続けた。
◇◇◇
それからというもの、雛は急に忙しくなった。
イベントの方は、了が早め早めにと楽譜を渡して来るので、必死でピアノの練習をしている。
連弾用の曲は一応編曲が出来上がり、細部を手直ししている。レッスン中に了も色々提案してくれるので、上手くいけばその場で楽譜を直せるのだ。
手が四本。そのうちの二本はかなりのリーチがある。それが思っていたよりも曲の自由度を上げてくれたので、作るのも弾くのも楽しかった。タイトルは『circle for four-hand 』ひねらずに普通につけたらこうなった。
仕事をして、曲を作って、ピアノを練習して、教えて、部屋探しもやっている。
了の事務所のチャリティーイベントは、昔から続いている伝統で、なんともうすぐ四十年になるらしい。想像以上に大掛かりなもので、雛の立ち位置でも打ち合わせや締め切りが発生する。実はこれが最近の忙しさの最大の要因だ。つまり、本当に忙しいのだ。
「雛、おまえ今マネージャーが必要な状態になってるぞ」
了にはそう言われるが、雛にはマネージャーがいない。バンドと合唱。どちらも人が集まってやるものなので、とにかく集まりがちなのだ。いよいよどこかでダブルブッキングか遅刻をやらかしそうだと頭を抱えていたところ、櫂からも連絡が来た。何か知らないけど断る。弟よ、あんたは後回しだ。
「ひな、髪どうするの? 全然切ってないけど」
そう言われて初めて気づいた。
寸分違わずという表現が当てはまるほど、七年間髪型を変えなかった。万一会った際に、別人かもと思われたくなかったからだ。もちろん環に。
「忘れてた」
「そんなバカな……分かった。ひな、了と何かあったな」
「なんでそうなるの?」
「まあいいや本題はね、母さんが表彰されたからお祝いしようって相談なんだけど」
「そうなの? 凄いね」
「ええと、警察なんとか賞……章? だって。よく分からないけど凄いらしいんだよ。本人は何も言わないから検索したんだけど」
「よく分からないまま検索したの?」
「だから結局分からなかったんだけど」
めまぐるしい。
だけど引っ張り出してお祝いしないと本当に何も言わない人なので、ここは家族として何かしたい。
櫂から情報を引き出しながら雛が検索すると、調べれば調べるほど凄いものだと判明して来た。長年の功労に対するご褒美らしいが、誰でももらえるものではなさそうなのだ。
「これ、お母さん、式典で制服着るやつだよ。肩に紐とかつけて」
「まじか。紐がつくとなるとヤバいな。店とか予約するか?」
「まずはお母さんの確保が大変だから、ちゃんと相談しよう。私今からちょっと出かけるから。あ、髪……髪ね。近いうちに切りに行く」
「うん。じゃあそのときに」
そんな具合で、電話一本かかって来ただけで、タイミングによっては時間が押してしまうのだ。
やることが多いと時間は加速度的に進む。そして、本番が容赦なく迫って来ていた。
◇◇◇
「生まれて初めてto do リスト作った……」
雛がスケジュール管理アプリと手書きのリストを照らし合わせて唸っていると、了が通りすがりに覗き込んできた。
「あ、言い忘れてた。この日衣装合わせだぞ」
「そんな恐ろしいものがあるの? 」
考えてみたら何を着てステージなんぞに上がれば良いのか分からないし、プロにお任せするべきなのだろう。
「着るものが決まってから髪切りに行けばいいから、櫂んとこ予約入れるならここかここか……この日だな」
「あんたがマネージャーかい」
衣装が決まってから髪を決めるという発想からして、雛にはついて行けない。しかしついて行けないことに関しては意見すらないので「そうなんですか、そういうものですか」と流されて、ここまで来てしまった。何たること。
本番が迫るうちに気づいてしまったのだが、練習が必要なのは素人とバンド組で、残りのプロの人はそこまでしなくても大丈夫なのだ。これから組む予定の女声ボーカルユニットまであるくらいなもんなのだ。なにせ立っているだけで場がもつスターがわんさかいて、それがゴロゴロ出て来るイベントなのである。
「こちらお願いします〇〇さん」
「オッケー。これ歌えばいいのね」
───なんてやり取りだけで済むのだから、芸能人はすごい。バンドの練習を除けば了もそのクチなんだから、これは多分はめられたのだと思う。
了とは毎日のように顔を合わせているが、レッスン、打ち合わせ、バンドの練習と、慌ただしくこなし、じゃあまたと別れ、一時間後にまたバッタリと会ったりする感じだ。
先程も去り際に何か言ってたが、雛には聴こえなかった。ここは了の事務所の廊下なので、無視しておくに越したことはないので良しとする。
「あなたたち本当に付き合ってるの?」
後ろから声をかけられ、雛は飛び上がった。
こんな廊下で何を言ってくれるんだと思ったが、了の事務所の社長だった。
初対面のとき、雛の頭にはまず『女傑』という単語が思い浮かんだ。強そうで、落ち着いていて、話が端的な人だ。
「───お疲れ様です」
「こんにちは。雛さんも打ち合わせ?」
「終わったところです。あの、最近は一生バレない気がしています」
「あなただけ見てればそうなのよね。でも点鬼簿がああまでデレデレしてるんですもの、そのうちバレるわよ」
「いやだなあ……」
了が(付き合っていることを)事務所に報告すると言うので雛も了承はしたが、結局あまり意味はなかった。
入籍するならそれなりの発表をするが、その際も雛のことは『かねてからお付き合いしていた一般の方』という形にするのだという。
万が一付き合っていることをすっぱ抜かれた場合は、選択肢が二つあると教わった。ひとつは事務所は関与しないパターン。『プライベートは本人に任せています』というアレだ。もうひとつは入籍発表に準じた『一般の方』作戦。
面白いものだが『幼馴染』という関係は比較的好カードなのだという。ファンのショックも少しは和らぐと、誰だか調べ情報があるらしい。しかし真偽は定かではないので雛は全然信じていない。
とにかくそんなこんなで、to do リストはなんとかチェック済み項目で埋まっていった。
◇◇◇
イベント当日は出番さえこなせば良いので、雛としてはむしろ気が楽になっていた。
どうもイメージが掴めないうちに本番となってしまったが、始まってすぐに理解した。これは一種のファン感謝デーなのだ。会場にいるお客さんは、とても楽しそうに贔屓の本業外活動を眺めている。
了の先輩俳優日高は、バンドの面倒を見ているばかりではなく、総合演出とスタッフを兼ねたような役割をこなしているようだ。楽屋で会ったとき、業者のような姿だったので、雛は挨拶し損ねそうになった。
衣装似合ってるよと言われ、初めて日高だと気づいたのだ。
雛が着ているのは何の変哲もないリトルブラックドレスだが、合唱の邪魔にならずバンドでも浮かないデザインだ。そこを一発で決めてくれたスタイリストはまさにプロだった。
「お疲れ様です日高さん、お着替えまだなんですか?」
「実は出番はそんなにないんです」
了に教えてもらったのだが、裏方にいる日高を見に来るのがファンとして『通』たる楽しみ方なのだそうだ。深い。
「お忙しいですね」
「何だろうねえ。うちの事務所けっこうホワイトなんだけど、このチャリティーイベントのときだけは搾取しにかかって来るんだわ。身内で賄おうとする意思が強い」
「賄い切れるのがまた凄いです」
それにしても人の出入りが激しい。雛はMCの声を聴いて、出番だけは間違わないようにと身構えていた。
合唱の伴奏のあと、続けてバンドの曲を何曲か弾いて、最後の方で女声ボーカルユニット(四日前に結成)の伴奏をして、アンコールの前に逃げて来ればいいはず。
頭の中で段取りを復習しながら、ひとまずひとつのことが終わる実感を噛み締めた。緊張はするが、やれば終わるのだ。さぞかしほっとするだろう。
日高が行ってしまうとすぐ、合唱の子供たちの引率者が雛にまで声をかけてくれた。いよいよだ。
やれば終わるのだ。
◇
予想通り、弾き始めればあっという間だった。
合唱はとても上手だったし、バンドの皆さんは言うまでもない。むしろ本番の方で力を発揮する人たちなのだ。
了も日高も他のメンバーも、とても楽しそうだった。因みに了はベースだった。演奏が全部終わり、楽屋に戻ってから震えが来たのには笑ってしまったが。
「お疲れさまです」
「あ、お疲れ様です。ありがとうございました」
この段階で出番が終わったのは助っ人で来ていた人間ばかりだ。こんなにいたのかと驚くほど、楽屋は知らない者どうし、素人どうしで溢れかえっていた。スターたちはアンコールで更なるファンサービスをしているのだろう。
雛は空いている椅子に座り、ようやくほっとした。
疲れた。かなり疲れた。
「おい雛、頼む。来てくれ」
そんな一般人がひしめく中に、突然了が現れた。孔雀でも舞い降りたかのように不自然で面白かった。ギターとベースとなぜかマンドリンを抱えていて、それも面白かった。
「どうしたの?」
「へらへらしてないで助けてくれ。 うちの大御所が着替えに手間取ってんだよ」
見ず知らずの方の着替えを手伝うのはハードル高いなと思ったが、了の頼みはそれではなかった。
「頼むからピアノ前で待機しててくれ。日高さんと俺で何分か繋いで、それでもだめなら連弾するから。OK?」
全くもってOKではない。
「いやだよ」
「マジで頼む。初心者にひとりで弾かせるのかよ」
「ヤダ。なにその大御所様、どんな服着てたわけ? 」
「着ぐるみ」
「絶対変よあんたの事務所」
人前でずっと気を張っていて、やっとスイッチを切ったところなのだ。ご無体にも程がある。昔から、了と一緒に何かやると大抵雛だけが困る羽目になる。即応力に差があり過ぎるのだ。
しかし揉める時間も惜しい了は、いきなり前髪を下ろして表情を変えた。瞬時に若返る。ここでも即応力で押し切るつもりなのか。
「頼む、雛」
「うわ、ひ、卑怯な」
目下の最推し『長尾くん』だ。一言でそうと分かる了の演技力も怖いが、そうと分かってしまう自分も怖い。
ただでさえ壊れかけのところに長尾くんに泣きつかれ、雛は折れてしまった。
こっそりとステージ下手側からピアノの前へ行き、隠れるように座る。
了と日高はさすがに場慣れしていて、こういう改まった場でも自然なやり取りをしていた。イベントの内容やこれまでの活動について説明し、ちゃんと笑いも取っている。しかも、観客にはこれがアクシデントによる場繋ぎだとは気付かせていない。
「───しっかし今年は忙しかったよねえ、了は」
「そうですね。お陰様で色々な作品に参加させていただきました」
「今挑戦してみたいことってある?」
「うーん、仕事で言えば……最近なぜか高校生役をいただきまして」
「知ってる。高校生役久しぶりだよね」
ここで拍手があり、了は「あ、どうもありがとうございます」と笑った。
「何でもやってみたいですけど……今度は年齢が上の役とか、あと……そうだ刑事ですよ刑事」
「皆さん、探偵役は四回もやってるのに刑事になれない点鬼簿君です」
「点鬼簿です。そろそろ安定した職に就きたいです」
譜面台の横から覗くと、笑って盛り上がる客席がよく見えた。
弾いている間は見渡す余裕などなかったが、老若男女、様々な層が楽しんでいるようだ。親子連れも目立つので、着ぐるみはさぞかし喜ばれただろう。
「そういや了は最近ピアノ始めたんだって?」
「そうなんですよ」
「今日の演奏はベース参加だったけど、弾いたらよかったのに」
「勘弁してください、初心者なんですから」
「ちょっと弾いてよ。ねえ皆さん、聴いてみたくないです?」
拍手が起こる。日高、許すまじ。
持って行き方としてはよくあるものなのに、二人とも俳優なので、何の違和感もない。
先輩後輩は弾くの弾かないのと微笑ましく揉め、それから了が温かい拍手を受けながらこちらへ向かって来た。そしてピアノの前で雛の背中を軽く叩き、席に着いた。
持って来たハンドマイクで「では最近練習している曲を。初めての発表会です」と言ってはにかみ(絶対わざと)、踵を小さく鳴らしてから息を吸った。これで雛にも曲に入れと言うのだから横暴だ。なんとか入ったけど。
繰り返す主題は原曲そのまま。連弾バージョンは転調や和音が多く、楽しげな仕上がりになっていた。実際弾いていてワクワクするのだ。通しで録った音を初めて聴いたとき、雛はそのきらめきぶりに大笑いし、了は転調地獄だと大笑いした。
それは、あの人に届けたかった曲。
振り返ればキラキラと眩しい、だが当事者にすればいっぱいいっぱいな、あの頃を謳っていた。
終盤にさしかかった頃ステージ袖から合図が来た。どうやら着ぐるみが脱げたと伝えてきているらしい。
(おめでとう私よ。これで撤収出来る)
メロディは希望に満ちたまま疾走し、曲は終わった。
「───雛?」
そのとき、拍手の音と了の声が遠ざかり、雛の目は客席に釘付けになった。
まるでスローモーションのように、その人が一足先に席を立つのが見えた。
「……客席に環がいる」
「本当か」
「どうしよう。帰っちゃう」
「こっち回れ。非常口の手前からロビーに出られる。早くしろ」
了がすぐに最短ルートを教えてくれたので、雛は「ありがと」と言って走り出した。
あまりにも鼓動が速くて、息が苦しくて、指先が冷えた。
去って行く背中は確かに環のもので、静かな歩き方も、綺麗な髪も、あの頃のままだった。
会場の外のロビーにはまだ人気がなく、見下ろすと距離的には追いつけそうなのに、目の前の急な階段に阻まれた。
「待って、環!」
その背中が、雛の声に反応してくれた。
階段を降りてゆっくりと近づく。
あと五メートルのところで「雛」と呼ばれ、足を止めた。環が振り返っていた。確かに環の声だった。
「ごめんね、雛」
姿をちゃんと見たいのに、涙が溢れてしまう。雛は喉が詰まったようになり、ただ首を振った。
環に会えた。
もう会えないかと思っていたのに。
「た、環、環……たまきい」
「雛。ごめん、泣かないで」
それ以上は近づけなかった。
一度だけ、このときだけの願いが叶えられたのだと分かっていたからこそ、動けなかった。
「環、げ、元気なの? 」
「うん。雛は?」
「うん……ちゃんと寝てる? 環、眠りが浅いから」
「うん」
「食べてる? 環、いつも年末に風邪引くし、それに……」
こんなことしか言えない。
もっとあるのに。伝わるのなら、この気持ちをそっくりそのまま渡したいくらいなのに。
「環……」
そう呼んだきり言葉が続かなくなった雛に、環は言った。
「うん。私も愛してる」
元気でねと言った声が、たとえようもなく優しかった。
雛はしばらくぽかんと口を開け、顎から滴る涙を拭っていた。そのまま去って行く環を見送りながら、気持ちが全部伝わったのだと感じていた。
会話はほんの少し。あんなに願っていた再会だったのに、あっさりと別れた。
何分そうしていただろう。気がつくと横に了がいた。
「───来てくれたよ」
「だな。ダメ元で招待状送っておいた」
「うそ、あんたが?」
「一週間前に住所が分かったんだ。ここに来なかったらおまえに教えるつもりだった」
なるほど。
素人に人探しは無理だと言っていたくらいだ。了はこのために人を雇ったのだろう。
「なんでそんなことしたの?」
「大河ボーナスを自分のために使っただけ」
了の異論を許さない口調に、今はそのことには触れないでおこうと思った。了には了なりの思いがあったのだろう。
「生きてた、よかった……環……」
めそめそと泣く雛に了はまたハンカチを貸してくれた。これで三回目というか、三枚目というか。
「送らないから。今日は」
「そんなことはいいけど。了、帰るの?」
「何だよ。ハンカチ貸したんだから十分だろ」
「怒ってるの?」
「怒ってない。ひとりになりたいだろうと思って」
そう言って踵を返しかけた了の手を、雛は咄嗟に掴んだ。今の彼の気持ちがそう単純ではないことくらい分かっていた。だが、分かった上で止めてしまったのだ。
「待って」
「断る。いいか。俺は打ち上げは行かない。このまま真っ直ぐ帰る」
「……私も行ってもいい?」
いくら雛でも、了とデートもしたことがないことくらい気付いていた。それどころかあれからずっと忙しくてゆっくりと話す時間さえなかったのだ。
十秒待っても二十秒待っても、了は黙っていた。振り向きもしない。彼が拗ねているのか照れているのか、そんなことさえ雛には分からないのだ。
なので、後ろから顔を覗き込もうとしたら頭ごと抱えられた。
「速っ……ヘッドロックってこれ?」
「どっちかってとスリーパーホールド。案ずるな。締めてない」
「行ってもいいの? ダメなの? 嘘吐き、締めてるじゃない」
雛はそのまま了の家へ連行された。
終われば終わるなどと思っていたが、すっかりすっきりというわけでもない。
引っ越し先も未定だし、花梨警部の祝賀会も決まっていない。
明日に繋がり、次に持ち越し、ひとつひとつを自分でやらねばならぬ。
そんな当たり前のことが嬉しかった。
「了の家って初めてだね。そういえば」
「おまえはもう少し俺に興味を持て」
「持ってるよ、ちゃんと」
「嘘だ」
「持ってる」
その日は風が冷たくて、少しだけ冬の匂いがしていた。
最初のコメントを投稿しよう!