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あの雨の日から数日が経ったけれど、彼は姿を現さなかった――。ということは、傘を返しに来ることはない。
そんなことを考えながら窓の外へ目を向けると、傘をさして歩いている人たちの姿が目に留まり、充はまた慌てて看板をしまうために店に外へ出た。
きっと来ない――そう思いながらもどこかで会いたいという気持ちがあって、何度も振り返ってしまう。結果はいうまでもなく撃沈で、仕方なく諦めて店の中へと戻った。
――ガチャン――
扉を開く音がして、口角をあげて笑顔を作り「いらっしゃいませ」とドアの方へ向き直ると、その先にいる来客者に、充の胸が静かに跳ねた。
「こんばんは」
「えっ、あっ、の……こんばんは」
目の前には、あのときと同じように優しい顔をして笑って挨拶をする彼がいて、その手には傘が握られている。
「これ、ありがとう」
「いえ……。あっ、好きなお席へどうぞ」
「じゃあ……」
お礼と共に差し出された傘を受け取り、緊張で少し震えがかった声で座席の方へ手を伸ばすと、その手も微かに震えていて、それに気づいた彼がふわりと笑いながら歩きだし、柱で死角になる二人がけのテーブルにゆっくりと座った。
手に持った傘を奥の休憩室に引っかけると、充はコップに水を注いでトレイに乗せ、彼のテーブルへと近づいていく。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「ご注文は?」
「じゃあ、ベイクドチーズケーキのコーヒーセットで」
「ベイクドチーズケーキとコーヒーのセットですね。かしこまりました。少々お待ちください」
そっとコップを置いて通常の接客業務で注文を聞き取ると、カウンターへと戻ってベイクドチーズケーキをお皿へ取り、煎り立てのコーヒーをカップに注ぐ。
それを再びトレイに乗せると、また彼の元へと戻っていく。
「お待たせしました。ベイクドチーズケーキと、コーヒーです」
「ありがとうございます」
目の前にゆっくりとそれらを置いていると、どことなく感じる視線に、ふと顔を上げた。
「あっ……」
目が合って思わず声が漏れてしまう――。だってそこには、真っ直ぐに充を見つめている彼がいたから――。
「手、すごくきれいだね」
「へっ?」
「指も細くて長いし、爪だってすごくきれい」
「あ、の……」
充の手を下から柔らかく包み込むように持つと指を拡げられて、ただでさえどきどきしていた胸が痛いくらい脈をうち、一瞬で身体中に熱を持つ。
だからといって振り払うこともできなくて――ただ握りしめられたまま動けないでいた。
「次の雨の日に、またここへ来てもいいですか?」
そう問いかけられた言葉に、断る理由が見つからなくて首を縦に振った充を見て、安心したように手を解放した彼が微笑むと、ベイクドチーズケーキを美味しそうに頬張った。
触れられていた場所はまだ熱くて、自分の顔もきっとまだ赤いはずだ。
「ごゆっくりどうぞ……」
「ありがとう」
どきどきする胸を隠すように、充はそれだけを言い残し向けられた笑顔に会釈を返すと、カウンター裏へと急ぎ足で向かい、トレイを置きその場に両手を握りながら胸元を抑えてしゃがみこむ。
静まれ――俺の心臓――。
目を閉じて、何度もそう脳内へと信号を送り続けていた。
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