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梅雨が明け、あれから飯柴さんの姿を見ることはなくなっていた。
それでも、雨が降ればふと思い出す。
彼はどうして俺に会いに来たんだろう?
いや、本当は全部夢だったんじゃないかと思えて仕方がない。
だけど、確かに彼はそこにいた。
今でもはっきりと思い出せる――。彼の優しい笑顔も、触れた指先も、抱き締めたあの感覚も――。
そして、また鬱陶しい季節がやってきたある梅雨の日。
あの日と同じように、降り始めた雨で店の外に立て掛けてある看板をしまおうと店を出たら、店のひさしの中に駆け込んできた男の人。
見上げた瞬間に見つけたその姿に、充は一瞬で心を奪われた。
見間違いなんかじゃない――。
俺は、再び彼に出逢った。
「飯柴さん……?」
「えっ、どうして僕の名前……?」
「飯柴健さん……ですか?」
「健は僕の年の離れた兄です」
「お兄さん……?」
「もしかして、西崎充さんですか?」
「はい」
「良かった。やっと会えた……」
「へっ……?」
まるでずっと誰かを探していてようやく見つけたというような安堵した表情に、どう反応していいのかわからないでいると、目の前の彼が優しく目尻を下げて笑った。
その顔を俺は知っている――。
「僕の名前は、飯柴倫といいます。兄さんが、ずっとあなたのことを気にかけていたので、探していたんです」
「あの……すみません。飯柴さんと俺って……?」
「あっ、そうですよね。15年前の雨の日に、自転車とぶつかったことは覚えていますか?」
その質問に、あの雨の日の出来事が思い出される。
まだ幼かった充が飛び出した瞬間に起こった事故――充を避けようとしてハンドルを切ったその人は、スピードが出ていた乗用車と接触して飛ばされてきた。その人は自分のことよりも、隣で泣きじゃくる充へ声をかけ続けてくれていた。
怖くならないようにずっと――。
「覚えています。俺があの日、飛び出したりしなければ――」
「あれは事故です。たまたま不幸が重なっただけで、西崎さんは悪くない」
「だけど……」
「兄さんは、ずっとあなたが幸せで過ごしてくれていることを願っていました。亡くなるその日までずっと……」
「それって……もしかして、飯柴さんが……あの日の男の人って……こと?」
「そうです。でも、どうして兄のこと?」
「友達になったんです。この店にも来てくれて……」
充の言葉に、弟である倫さんは信じられないというような表情で目を大きく見開いた。
「兄がですか?」
「はい」
「ここへ?」
「はい」
「そんなことが……あるんですね」
「えっ?」
「奇跡って本当に起こるんだ……」
「奇跡……?」
倫さんはとても嬉しそうに微笑みながら、雨の降る空に向かって顔を上げた。
「西崎さん。あなたは今、幸せですか?」
「はい」
「良かった。兄さんにもきっと届いているはずです」
「それって……」
「兄は、昨年亡くなったんです。ちょうど梅雨が明ける頃に」
「じゃあ……飯柴さんは最後に俺に会いに……?」
「信じられないけど、そうみたいですね」
「そんな……」
また会いたいとどこかで思っていた。
会える日が来ると信じていた。
だけど、彼にはもう会えない――。あの優しく笑う顔を見ることは叶わないんだ。
静かに頬を伝う涙に、充は気づいていなかった。
その涙に気づき、そっと親指で拭ってくれたのは、今目の前にいる弟の倫さんだった。
「僕たち、友達になりませんか?」
「けど……」
「せっかく出会えたこの奇跡を、二人で信じてみませんか?」
真っ直ぐに見つめられたまま問いかけられた言葉に断る理由なんて見つからなくて、充は倫を見上げたまま頷いていた。
雨が降れば必ず会えるという奇跡は、もしかしたら新しい出会いを繋ぐために起きた奇跡だったのかもしれない。
そして、そこには充が恋をした優しくて包み込むような柔らかい笑顔をした健にそっくりな倫がいて、そっと充へ手を差し出している。
充がその手に向かって自分の手を差し出すと、どちらからともなくぎゅっと握り合う。
その手がとても温かくて胸の奥がつんとした。
握っている方とは反対の手を胸に当て深呼吸すると、充は雨が降る空を見つめて、思いきり笑った。
その空に、彼のあの優しい笑顔がふわりと浮かんで消えた気がして、「ありがとう」と小さく伝えると、握っている手に少しだけ力をいれる。
それに答えるように、倫も握り返してくれた。
雨よ、降れと願った恋が今、新しく形を変えて動き出す。
ずっと忘れないよ――あなたが守ってくれたこの命、必ず幸せになるから――。
あなたが最後まで忘れなかった優しさのおかげで、俺は今、とても幸せだから――。
Fin
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