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そうだ。あの子だ。
「あのとき、両親と離れてお祖母ちゃんちに引っ越してきたばかりだったの。不安でつらくて悲しくて。でも、あのトマトが宝石みたいに見えたから――すごく嬉しくなって」
オレは、忘れていた。その頃のオレはバカみたいに目一杯元気で、何も心配事のない気楽な奴で、毎日の楽しさで頭の中が上塗りされていったから。
もちろん彼女を「可愛い」。そう思ったからこその条件反射に違いなかったが。
その彼女が、どうして。
「このところ、通りかかるたびこの鉢が元気がなくなっているのが気になって。毎日水をあげていた男の子、急に姿が見えなくなって――泊まり込みの合宿だったのね」
「えっ……」
「学校で練習三昧なの、見たから」
「え? ここからバスで30分かかるのに」
彼女は慌てて如雨露に手を伸ばしながら背を向けた。
「ご、ごめんなさい。気味悪いわよね」
じゃああそこを自転車で彼女が通ったのは。
「ただ……ずっとトマトのお礼を言いたくて、追いかけてたの。でもどうやって話したらいいかわからなくて――ついに学校までついて行っちゃったとき、ストーカーみたいだって。そう思い始めたらますます声がかけられなくなって……」
げ。全部見られてた。てか、彼女そんなにしょっちゅううちの前を通ってた。いつも追ってくれていた。全然気がつかなかった――オレは本当に注意力散漫だ。
「だから……差し出がましいけど水くらい、と思って」
彼女は申し訳なさそうに俯きながら如雨露を弄んだ。
気味が悪いなんて。差し出がましいなんて。それどころか何て義理堅いんだ。何て恩に厚い子なんだ。何てけなげで奥ゆかしい。
「あ、あの……な、内緒だったんだ。オレがこんなの育ててること」
「え……あたし余計なことしちゃった……?」
「いやいやいや!」
違う違う違う。そこ、絶対違うから。頑張れ。しっかり説明するんだ、オレ!
「ええっと。あの。だから、このあじさいのこと知ってるのは、オレとキミだけで。2人だけの秘密で」
キミとだけの内緒はキミとだけの秘密。キミとだけの秘密は、――何かの始まり。
「あ、あ、あの! テニス、好き?」
唐突なオレの方向転換に、彼女は目を剥いた。
だって、どうせなら、オレの今の一番得意なところを見せたい。かっこいいって思って欲しい。
「……やってみたいけど」
「お、教えてあげるよ!」
そしたら、彼女は嬉しそうに頬をほんのり赤らめた。
オレの頭の中の収納箱の底の底に残っていた思い出。それを大事に大事にしてくれていた子がいた。その笑顔は、青の空にくっきり浮かぶ雲の白よりも、鮮やかにオレを射抜いていた。
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