イナリ

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 大店が立ち並ぶ通りから随分と離れた場所に、桶井川が流れている。桶井川の川沿いには毎年春になるとそれは見事な桜が咲く。  川近くに長屋があった。桜の花が長屋からでも見ることができるということで、桜長屋と呼ばれていた。  桜長屋もこの数年で住人が減った。はやり病で亡くなったり、悪さをしでかしてお縄になり島流しになったり、故郷(くに)に帰ったりと、それぞれの事情があった。 「困ったもんだよ」  差配のおていは昼間から酒を呑んで長屋に居着いている犬に向かって、愚痴をこぼしていた。  犬の名前はイナリ。長屋の奥に祭っているお稲荷様。そこにお供えしていたいなり寿司をくわえていたのをおていが見つけたのだ。 「この子ったら、何て罰当たりな」  いなり寿司を口から取って、犬が食べやすいように椀に崩してやった。 「さあ食べやすくなったはずだよ」  おていは犬の頭を撫でた。犬は椀の中のごはんを食べた。おていは水も犬に与えた。犬はお腹も空かせていたが喉も渇いていたようで、勢い良く椀の中の水を飲み干した。  この日以来犬は桜長屋に居着いた。長屋の子供たちにも可愛がられ、大人たちもイナリを家族のように面倒を見た。  賑やかだった桜長屋が今では閑古鳥が鳴いていた。  今、長屋に住んでいるのは、おきねという老婆とせん太という大工。そばの屋台を引くとみ吉、おいつ夫妻だけだった。  おていは桜町長屋を昔のような、賑やかで楽しい長屋に戻したいと願っている。父親から譲り受けた長屋を失いたくないのだ。おていもこの長屋で育った。いや長屋の人たちに育てられたのだ。 「イナリ。ここは眺めもいい所だろう。店代(たなだい)も安くしてるんだけどね」  イナリはじっとおていの顔を見つめていた。イナリにおていの言葉が分からなくても、おていの気持ちは分かる。おていの気持ちが沈んでいるのなら元気にしてあげたい、とイナリは思った。  おていがイナリに愚痴をこぼしてから三日ほど過ぎたとき、イナリの姿が見えなくなった。桜長屋に居着いたとは言っても、時折ふらりと姿を消すことがあったので、おていは気にしなかった。 「おていさんや」  おきねがおていの所へやって来て、 「この長屋に空き部屋はないかいって人が来てんだけどね」  と、驚いたような顔で言った。なにしろここ最近、桜長屋を訪ねて来るのは、魚売りくらいだった。
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