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「本当かい、おきね婆さん」
「ああ本当さ。今うちにいるよ」
と言うのでおていは履き物を急いで履いた。
おきねの部屋で居住まいを正して、差配が来るのを待っていたのは噺家のような恰好をした人物だった。
「えっと、あんたがここに住みたいってお人かい」
おていはしげしげと相手を見た。相手は頷いた。
「わたくし、犬亭犬太郎と申します」
やはり噺家らしい。
「イヌテイ、ケンタロウ?」
聞いたことのない名前だ。
「まだまだ駆け出しでございます。師匠はあの猫亭猫平でございます」
あのと付けられてもその名前も聞き覚えがない。そもそもおていは噺家のことなどよく知らないのだ。
「あんた本当にここに住みたいと考えているのかい」
おていは確かめた。前にも住みたいと言って来た浪人親子がいたが、ふた月も満たずに出て行ってしまった。
おていは毎日、朝晩お稲荷様に手を合わせているのに、長屋の空き部屋はいっこうに埋まらなかった。だからなのか「住みたい」という人が現われても「またすぐに出ていってしまうんじゃないだろうね」と思うのだ。
「もちろんですとも。これは恩返しでございます」
と犬亭犬太郎は真顔で言った。
「恩返し? 何のことだい?」
おていは怪訝な顔で犬亭犬太郎を見た。犬亭犬太郎は開いたままの戸の方を指した。
「あいつですよ」
そこにはイナリがいた。
「え? イナリがどうしたってのさ」
イナリはおきねに撫でられている。
「そいつはわたくしの犬だったんですが、師匠の猫が苦手らしくて、ひょいっと姿を消しちまって。ずっと心配していたら、偶然そいつ、名前はハクベエってんですけどね、ハクベエを見つけることが出来て。とみ吉さんとおいつさんのそば屋台の所でじっとしているじゃないですか。そのとき大工のせん太さんて方がそばを食べながら『イナリ、お前よかったなぁ。おていさんに飼ってもらって』ってハクベエに言ってたのを聞きまして」
と犬亭犬太郎は言った。おていはしかし、と思った。犬は人と違って顔で区別することは出来ない。何をもってイナリをハクベエだと確信しているのだろうか、と。
おていの考えていることが伝わったらしい。犬亭犬太郎はこう言った。
「ハクベエの尻毛ですよ。輪のように丸く円を描いた形。ちょっと珍しい尻毛だと思うんですよ。それから耳に傷があるのは、師匠の猫に引っ掛かれたときの傷です。間違いなくハクベエです」
犬亭犬太郎は自信を持って言い切った。
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