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「ハクベエの面倒を見て下さった御恩に報いたく、今日よりこちらへ住まわせて下さい。それからわたくしにも弟子がひとりおりまして、蝶亭葉之介っていうんですが……あ、駆け出しに弟子? って思われてますね」
おていはこくりと頷いて、
「弟子ってのは偉くなってとるものじゃないのかい」
と訊いた。犬亭犬太郎は応えた。
「師匠が出て行くならひとり連れて行けってことで、そういうわけですので、何卒よろしく頼みます」
犬亭犬太郎は手をついて深々と頭を下げた。
桜長屋に新しい住人が入った。
犬亭犬太郎と蝶亭葉之介の稽古の声が聞こえる。稽古といえども聞いていると面白い。
いつの間にか、
「桜長屋では毎日、無料で落語が聞けるらしい」
という噂が広まった。
「毎日が寄席かい。そりゃいい。引っ越そうじゃないか」
という具合で、このところ桜長屋に住みたいと言ってくる者が増えた。
だがおていは誰でもかれでも住まわせるつもりはなかった。
犬亭犬太郎と蝶亭葉之介の稽古聞きたさの人は断った。それよりもイナリが可愛いのでイナリと一緒の所に住みたい、と言って来た人を受け入れた。
気が付けば桜長屋の部屋は全て埋まった。
おていがお稲荷様に手を合わせていると、イナリが傍に寄って来ておていの頬を舐めた。
「優しいね、イナリ」
イナリを撫でる。とそこへ、
「ごめんください」
と人の声。しゃがれたその声の主は猫亭猫平だ。飼っている猫は一緒ではなかったのでイナリは安心した。
「おお、ハクベエ、久しいのう」
とイナリに近付いて撫でる。
おていはしゃがれた声にぴくりと反応し、そしてその姿を見て目を丸くした。
おていが噺家に興味を持たなかったことには理由があった。父はいい年齢して突然、
「若い頃の夢を叶えんことには、死んでも死にきれん」
と言って長屋をおていに任せ、自分は噺家の修業に出て行ったのだ。勝手な父に腹を立てつつも、父の残してくれた長屋は守り通すことを決めたおてい。
よもや猫亭猫平が父だったとは。
「お父つぁん、何やってんのよ」
おていの双眸が涙であふれそうになった。泣くもんか、と心で唱えた。
「おてい。桜長屋をよく守ってくれた」
「当たり前でしょう」
涙がこぼれてくる。
「わしはまだ戻って来れんが、たまに弟子の様子を見に来るからな」
「お父っつぁん」
「そうだ。春になったらここで寄席をしよう。桶井川の桜を背景にしてやるんだ。長屋のみんなも喜んでくれるだろう」
「そうだね、お父っつぁん」
イナリは親子の再会を見上げていた。
それから間もなく、桶井川の川沿いの桜が満開になった。
「もうじき始まるよ」
おていはイナリと一緒に、お稲荷様の近くに坐った。
これから桜長屋の寄席が始まろうとしていた。
(了)
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