【第一章】灰色の涙④

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【第一章】灰色の涙④

 嫌な夢を見てしまった。  何度みても慣れることの出来ない悪夢に、舌打ちする。  ぐっしょりとかいていた寝汗の不快感と、過去に捕らわれたままの自分の不甲斐(ふがい)なさに苛立(いらだ)ちを覚えた。  地下水脈から汲み上げた冷たいシャワーを浴びるのが、私の毎朝の日課だった。  お気に入りのこの家をプレゼントしてくれた唯一(ゆいいつ)の友は、もうずっと昔に亡くなった。彼がいかに優れた才能を持っていたのかは、新築の時とほとんど変わらずに美しいこの建物を見ればわかるだろう。決して大きな家ではないが、私の理想と好みを知り尽くした設計。今はまだ美しいこの家も、いつかは()ちてしまうときが来るのだろうか。  深い森の奥に、こんな開けた場所があると……知る人間はおそらく誰一人いないだろう。  木造の小さな家の、ほんのささやかなバルコニー。嵐で何度か壊されたことはあったが、いずれも大した被害ではなかった。  目の前には大きな……青い湖。早朝の霧に(かす)む湖はたとえようもなく哀しく美しく、まるで天上の風景のようでありながら、黄泉(よみ)への入り口のようにも見える。  ここへ来て、もうどのくらいの時が過ぎただろう。  初めてここに来た日から、湖の姿は変わっていない。  人里離れた、深い森の奥。  湖の見える、私の家、私の居場所――。  白い鳥が、岸辺にたくさん集まっている。  遠くで、銀の魚が飛び跳ねる。  清々しい……閑静(かんせい)な美の風景。  どんな芸術家だって、これほど美しい光景を描きあげることは、生涯をかけても不可能だろう。  何の変哲(へんてつ)もない、自然。  しかし、それこそが神の領域なのだから。  どんなに嫌な夢を見た朝でも、その風景を見ているだけで心が安らいでいくのを感じた。  この風景は私だけのもの。  いつか、この湖に溶けるように死ぬことが出来たら……多分、私にとってそれ以上の幸福な死は無いだろう。  この美しい湖に、私は敬意と皮肉をもって"サルマキス"と名づけた。  私の心を虜にした(かのじょ)に……それ以上ふさわしい名はないと思った。  素晴らしい場所に住処(すみか)を置くことができ、私は幸せだったが、問題が全く無いというわけでもなかった。  この場所は、オーガの巣に近いのだ。  オーガとは、いわゆるモンスター……それも、恐ろしい食人鬼である。  体は大柄で分厚い筋肉に覆われており、知性が低く、強暴なのが特徴だ。  姿は人間型ではあるが、一様(いちよう)に醜くおぞましい。  額の上に角を有しており、目は黄色く濁っている。  好色で何故か宝物を収集するという癖があり、オークやゴブリンなどの下等な魔物を従えて村を襲っては、人間を喰らい女を(さら)い、財宝を奪う。まったく最悪の連中だ。  だが、奴らが近くに住んでいるおかげで、この美しい風景が人間たちに荒らされることなく済んでいるのならば、むしろ奴らには感謝するべきかもしれない。  一度、あの澄んだ水の中で思うさま泳ぎ回ってみたいとも思うが……万が一誰かにこの姿を見られたらと考えると、それは到底(とうてい)叶わぬ夢だった。  人は、この私の姿を見てどう思うだろう。  美しい……と、いうかもしれない。  森の妖精……美しき光の種族であるエルフは、みな明るい色の髪と瞳を持ち、男も女も繊細で輝くばかりの美貌を持っている。  しかし、この私はなんだろう。  人間である父の血のために魔力に劣り、母であるエルフの血の為に体力に劣る、何の()()()もない、脆弱(ぜいじゃく)な存在。  まるで()まわしき混血の身を象徴するような、白とも黒ともつかない灰色の髪と瞳。  青白く、不健康そうな肌の色。  貧弱な体つき。  人間にはありえない、長く、尖った両の耳。    そして……。  そして――。  それを思う時、私はいつも軽い眩暈(めまい)と吐き気に襲われた。
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