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「あ、あ・・・・・・」
恍惚とした表情で、アルツは床に膝をついた。焦点の合わない目が見つめるのは、誰にも見えない彼だけの幻想郷だ。
「成功したようだな、この薬品は。とはいえ、被験者が1人では比較の仕様がないが」
口の端からよだれを垂らしていたアルツの体が、次第に痙攣を始めた。手足が激しく震えているものの、まだ制御は聞くようだ。口元を強く抑えながら、彼は床に倒れた。
アルツが、自分を天使だと言っているのは、彼にとっての事実でしかない。
強い幻覚作用と依存性をもつこの薬を、報酬として定期的に与え、服用させていた。その結果だった。
「そろそろこの男も、使えなくなってきたな──ん、なんだ」
言い終わるより早く、視界の隅に妙なものが映り込んだ。床に落ちたネオンライトブルーの付箋だ。アルツに背を向けて付箋を拾うと、霧牧はしげしげとその文面を見つめた。
付箋には、こう書かれていた。
『騙されたのはお前の方だ。いい薬になっただろ。
苦いおクスリは、煮え湯といっしょに飲み込めよ』
嶺二の筆跡だ。はっとして、霧牧は背後を振り向いた。
先程まで泡を吹いて倒れていたアルツが、虚ろな視線のまま、懐に手を突っ込んでいた。黒光りする銃身が取り出され、素早く銃口がこちらを向く。
「しまった、身体検査はしていない・・・・・・!」
霧牧はとっさに這いつくばったが、それがまずかった。相手と同じ体勢では、命中率は格段に跳ね上がる。
耳をつんざくほどの発砲音がとどろき、左の肩へ銃弾が突き刺さった。鮮血がほとばしり、視界いっぱいに赤が広がる。
「くそ、嶺二の奴め!」
──人間ひとりを消すなんて、あっという間だよ。
──手榴弾でも拳銃でも毒薬でも、簡単に手に入るんだ。
──強い幻覚作用と依存性をもつこの薬。
そして、何よりも──
「あいつは、社内では既に二番手の地位についていた。この薬の存在も、当然知っていたというわけか」
そうして、こっそりと盗んだ薬を餌に、アルツを支配下に引き込んでいたのだ。理解すると同時に、全身の力が抜けていくのを霧牧は感じた。
薬と称した罰を与えているのは自分だと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。
銃を握るアルツの姿が、だんだんぼやけていく。しかしそれとは対照的に、連続して鳴り響いたもう2発の発砲音は、はっきりと鼓膜の奥に残った。
(完)
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