潰れた

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ポン酢が潰れたの。  なんていうかこう、「ガシャン!」でも「ガチャ!」でもなくて、「ぐしゃ」って音がして、潰れたの。  冷蔵庫を開けたらポン酢が飛び出てきて、そのまんま足下に落ちちゃった。一瞬何が起きたかわからなくて、下を向いたらポン酢のビンが粉々になってた。割れた、でも壊れた、でもなくて潰れたんだよ。  ビンってあんな見事に粉々になったりするんだね。床に広がったポン酢の中でガラスがキラキラ光って綺麗だったなあ。  それでまあ、それからずっとリビングがポン酢臭いんだけど、見えるんだよね。ポン酢の霊が。  テーブルに両肘を付き、組んだ手に額を押し付けて私はごくりと唾を飲み込んだ。手の陰から目の前に座るミキちゃんの表情を伺う。  黙って私の話を聞いていたミキちゃんの皿からは、ガレットが消えている。よくもまあ、こんなに熱く語っている人を前にして食が進むなあ。  二つ年上で私とはまるで違う人生を歩むミキちゃんは、私の姉だ。 「とうとう頭がおかしくなったの?」  たっぷりとした沈黙ののちにミキちゃんは眉と眉を寄せた。まあそうなるよな。我が姉ながら、至極全うな意見だ。 「とうとうとは失敬な。まるで頭がおかしくなる前兆でもあったみたいな言いぐさじゃない」  私は顔を上げて、ミキちゃんの隣に視線を滑らせる。  ミキちゃんの家から程近い場所にあるこのカフェは、住宅街やタワーマンションが周囲にあっていつも混み合っていた。今だって、木曜日の真っ昼間だというのに女性客でほとんどの席が埋まっている。喋り声が反響して、店内のお洒落なピアノの曲がよく聞こえない。 「ちなみに、今もすぐそこにいるよ、ポン酢の霊」  ミキちゃんは私の目線の先を追いかけると眉間の皺を深くした。 「井芹(いせり)くんに見限られてショックなのはわかるけど」 「……まだ見限られたかわからないし」  憐憫がふんだんに混ぜられたミキちゃんの目付きと声色は、私の心を貫いた。もごもごと反論すると男性の低い笑い声が聞こえてきて、私は唇の端を噛む。  ミキちゃんの横で、黒ずくめの男がダークブラウンのソファに腰掛けて頬杖をついている。  いわゆる忍び装束に身を包んだ彼は、アンティーク調の内装の中でどうしようもなく浮いていた。口当てで隠されて目元以外は見えないが、目尻に寄った皺と揺れる黒い瞳から笑っているのはよくわかる。  ほんとうに私にしか見えてないんだなあ。私は彼を睨めつけてため息を吐いた。やっぱり私、おかしくなったのかもしれない。  すっかり冷めてしまった、半分しか減っていない生クリームまみれのパンケーキがテーブルの上で私のことを責めている気がする。お前なんかただ生クリームが乗っただけのホットケーキだよ。私は内心でパンケーキに悪態をつき、口をひん曲げた。  ミキちゃんが言うに、この丸くて甘いスポンジは、豆乳とヨーグルトを使っていてモチモチとした食感が人気のパンケーキらしい。ようするに牛乳の味がしなくてふわふわしてないホットケーキじゃない。そう思ったけど、口にはしないでおいた。適応能力がないのだとパンケーキにまで説教されている気分だった。  私はチョコレートは固い方が好きだし、プリンはとろとろしていないのが好きだ。ポテトチップスは塩味、アイスはバニラ、ホットケーキにはメープルシロップ。それでいいのに。どうしてそれ以上を求めるんだろう。 「――美奈子、聞いてるの?」  なにか話していたらしいミキちゃんが、急に声を鋭くした。正直なところ、全く聞いていなかった。  複雑な香りのするフレーバーティーを前にして、彼女は腕を組んでいる。そのすぐ隣で忍者みたいな男が同じように腕を組んで首を傾げていた。不可思議な光景に吹き出しそうになり、私は神妙な顔をしてみせる。 「なんだっけ」 「井芹くんのこと。あんたには勿体ないような人だったんだから、今すぐにでも全面的に謝罪して来なさいよ」 「……だからこの後話し合うんだってば」  私はなんの変哲もないアイスコーヒーをやけに細いストローで吸い上げた。溶けた氷ですっかり薄くなったコーヒーを飲み干すと、ずこ、と音が鳴る。  井芹くんとは、付き合いだしてもう六年になる。気が付いたときには私は二十八歳という年齢になってしまっていた。一つ年下の井芹くんは二十七歳。アラサーともなると、今までと同じ様には付き合えない。私はそんなことないと思うけど、どうにも世間はそうらしい。 「悪いけど私、もう行かなくちゃ。定期検診の日なの。あんまり辛いなら知り合いのカウンセラー紹介するから連絡して。……今日は奢るわ」  ミキちゃんは静かに立ち上がり、薄手のコートを羽織ると伝票を手に取った。小さな声で礼を言う私に肩を竦めて歩き出す彼女の大きなお腹を、高そうなマタニティウエアが包んでいる。染めたてのグレージュの髪が揺れて、フリージアの香りが鼻腔に届いた。  ミキちゃんは一昨年結婚した。二年間二人きりの新婚生活を楽しんで、三十歳で妊娠。旦那さんは年上で、綺麗な広い新築のマンションに暮らしている。  きっとミキちゃんこそが、いわゆる「幸せ」なのだと思う。  私はナイフとフォークを持ち上げると、細かく切り刻んではパンケーキを胃に押し込んでいった。 「ここ、落ち着かないな。早く帰ろう」  頭上から声がして見上げると、忍び装束の男が空中であぐらを掻いていた。私がポン酢の霊だと呼んでいる彼は、現れて以来片時も離れずに私の側にいる。  辺りを見回して、私は声を潜めた。 「カフェ、苦手なの?」 「どうにも、甘い物と洋風の物とは相性が悪いんだ」  憮然とするポン酢の霊に、私はそりゃあそうだろうなと大きく息を吐いた。
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