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ポン酢が潰れたのは、昨晩のことだ。
昨日私は、一体何度目になるのか数えたくもないボツをくらって、酷く落ち込んでいた。今回こそはと練りに練った、力作だった。
私は売れない漫画家をしていた。学生の頃に少女漫画雑誌の新人賞で受賞して、就活をせずに漫画一本に絞って頑張ろうと決めた時に、支えると言ってくれたのが後輩の井芹くんだった。
初めて貰えた連載は瞬く間に終わった。単行本で言うと二冊弱。その後はぽつぽつと読み切りを載せて貰って、気付いたらもう、六年だ。
「今はこういうの、ウケないんですよ」
そう私に告げる担当編集は、いつの間にか年下になっていた。まだ若いんだからもう少し頑張ってみて、と口にする彼女の方が若いのが、おかしかった。
美大を卒業した頃、私の目の前には確かに希望が広がっていた。友人達も私を羨んでくれて、憧れの職業につく自分が誇らしかった。
それが今や漫画家と言えるのかも怪しい仕事量になって、友人達ともなんとなく疎遠になってしまった。
「そんなに辛いなら、休んでもいいんじゃないかな」
社会人も五年目になり、仕事の忙しくなってきた井芹くんは待ち合わせに少し遅れてやってきて、私の愚痴を一通り聞き終わるとそう言って微笑んだ。着始めたばかりの頃はなんだか不恰好だったチャコールグレーのスーツがすっかり板についている。ピンストライプが入った大人っぽいスーツ。もうとっくに大人だから、大人っぽいって言葉はおかしいのかもしれない。
私はちょうど枝豆を口に入れた所で、噛まずに飲み込んでしまい大粒の豆が喉を下ってゆく感覚に顔を顰めた。
この大衆居酒屋は、付き合いだした頃からよく通っている場所だった。ミキちゃんにはもういい歳なんだからデートくらいもっとお洒落なところでしなさいよと呆れられているけれど、私は何が駄目なのかあまり理解できなかった。
――今はこういうの、ウケないんですよ。
編集者の台詞が反芻される。私は六年間、何も変わらずに今日まで辿り着いてしまった。
胃の中で、井芹くんが来る前から飲み続けているビールがぐるぐると回っている。
「……休んで、どうするの?」
「一緒に暮らそう。僕だけの稼ぎじゃ厳しいから、事務の方は続けて欲しいけど、少しのんびりしてみたらどうかな」
私は小さな食品会社で事務員のパートもしていた。今となってはむしろそっちの方が、主な収入源になっている。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど」
泡の消えたビールの琥珀色に、私の情けない姿が映っている。美容院に行くお金をケチっているせいで変な長さまで伸びてしまったショートカットの、くたびれた女だ。
井芹くんは以前から同棲を提案してくれていた。私の住んでいるマンションは狭くほとんどが作業部屋で生活もろくなものではなかったから、家賃を折半して良い部屋に住もうと言ってくれていたのだ。二人で新しく部屋を借りる。それは結婚の準備のようで、彼が私なんかをそこまで想ってくれていることが嬉しいのは確かだった。
だけど私は、何かと下らない理由をつけてはそれを断り続けていた。
井芹くんは疲れた目つきで、黙り込む私の顔を覗き込んだ。
「辛そうな美奈子さんを見るのは僕も辛いんだよ」
私は唇の端っこを噛みしめた。唇を噛む癖がもうずっと抜けないから、私の唇の左端はいつも腫れて膨らんでいる。甘噛みでも、噛み続けたらこんなになるなんて知らなかった。
「井芹くんも、才能ないんだから漫画なんかやめればいいって思ってるんでしょう」
ああ、馬鹿なことを言った。言葉が自分の口から離れた瞬間、全て回収したくなった。井芹くんの大きな耳に届く前に。
残念ながらしっかりと聞いたらしい彼は、丸っこい目をゆっくりと瞬きさせた。
みぞおちが一瞬で冷たくなる。違うの、こんな事、言うつもりなかったの。弁明したい私の声は喉で引っかかって上手く出てこずに、店内の喧騒に飲み込まれてしまった。
「思ってないよ」
井芹くんは私の求めたとおりの返事をくれた。彼は随分と落ち着いた声音を出すようになった。少し派手な色だった髪も、就活を期に真っ黒にして以来ずっと染めていない。私の、ただずぼらなだけの黒髪とは種類が違う。彼の黒髪は、社会で生きてゆくための努力の一つだ。
「嘘」
やめろ、言うな。脳の片隅に追いやられた冷静な自分が、警告を鳴らしている。
「嘘じゃないよ」
「嘘だ」
井芹くんが困っている。困っているだけじゃない。きっと面倒な女だと呆れている。
私は彼の方を見れずに俯いたままぎゅっと唇を噛んで、それから逃げ出すことにした。
「ごめん、一人になりたい。帰るね」
「――美奈子さん」
五千円札をテーブルに置いて席を立つと、井芹くんは私の腕を掴んだ。どこまでも優しい人だと思った。
もう一度「ごめん」と言うと、ゆっくりと手が腕から離れて自由になる。ああもうほんとうに、私は最悪の女だ。
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