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マンションに着いた私は、散らかった部屋の真ん中で倒れ込んだ。スイッチを入れたストーブが、じわじわと部屋と私を暖める。
誰からも連絡のないスマートフォンを眺めて、浅く呼吸をする。時計はいつの間にか夜中を示していて、なんだか少し、泣きたくなった。
温かいものでも飲もうと私は起き上がり冷蔵庫へ向かった。牛乳を温めてココアでも作ろう。私が好きだからと井芹くんが買ってきてくれた高いココアパウダーが少しだけ残っている。
冷蔵庫を開けた瞬間、扉の内側に付いている棚から何かが飛び出してきた。黒っぽい陰が鼻先を通り過ぎて、
――ぐしゃ。
何かが潰れる音がして、反射的に下を見やる。つま先のすぐ側で、ガラス瓶が茶色い液体の中で粉々になっていた。特徴的な酸っぱい匂いがする。ポン酢だ。
「ポン酢って潰れるんだ」
しゃがみこみ、私は見事に跡形も無くなったポン酢を眺めた。中身がたっぷり残っていたから、床に大きな水たまりが出来ている。
「よくも潰してくれたなあ!」
不意に背後からおどろおどろしい声がして、私は飛び上がった。振り返ると、漆黒の忍び装束を着た男が天井から逆さまにぶら下がっている。頭巾と口当てでほとんど顔がわからない。暗殺者、泥棒、変質者。様々な可能性が脳裏を過ぎっては困惑を増長させる。
「――ひっ」
息を飲み後退ろうとすると、彼はくるりと肢体を捻って床に降り立った。
「後ろ、危ないよ」
言われて、ガラスの破片を踏みかけたことに気が付いた。動けずにいる私に、忍者みたいな男はずかずかと近付いて来て目を細める。
「今潰されたポン酢です。どうぞよろしく」
「ポン酢……」
ポン酢って、こんな忍者みたいなのか。私は彼の姿を観察して眉根を寄せた。黒い羽織に黒い袴。足袋も頭巾も真っ黒だ。背はずいぶんと高いようだが情報が少なすぎて年齢は推測出来ない。
「潰されたので、化けてでてみました」
「……ふ、不可抗力です。ポン酢が勝手に飛び出てきたから」
「しまう位置が悪かったんだよ」
「そう言われても」
「まあ過ぎたことは仕方ない。案外俺は懐が深いんだ。それより、片付けた方がいいんじゃないかな? それ」
私は訳がわからないまま頷いて、近くに落ちていた紙を手繰り寄せるとガラスの欠片を拾い集めた。あまりに細かくてほとんど指では摘まめず、タオルを持ってきてポン酢ごと拭き取るようにしてかき集める。
片付けの間、黒ずくめの自称幽霊は「ああ可哀想に」「なんと痛ましい」とぶつぶつ言いながら私のまわりをぷかぷかと浮いていた。
一通り拭き終わると、私は少し悩んで丸めた紙とタオルを空箱に入れてベランダに置いた。掃除機もしたいけど夜も遅いから明日しよう。面倒なことは全部明日に。
私は改めてココアを入れることにした。まだポン酢臭いキッチンで、深い色をした粉に砂糖を混ぜ合わせ、温めた牛乳とお湯を注いでかき混ぜる。
不思議と私の心はすっきりとしていて、この意味のわからない状況を受け入れ始めていた。
「俺の分もある?」
「飲めるの?」
「飲めない。そんな変な臭いのやつ、不味いに決まってるしな」
「じゃあなんで聞いたの」
「気持ちの問題だ。用意してくれるぶんにはやぶさかじゃない」
「ふうん」
私はソファに座って、ココアの入ったカップを両手で抱えた。そのすぐ横にポン酢の霊が腰を下ろす。甘い香りの湯気がのぼっている。一口啜るとやっぱり美味しかった。これを買ってきてくれたときの、井芹くんの大型犬のような笑顔が脳裏に浮かぶ。
何で私、こんな夜中にポン酢の横でココア飲んでるんだろう。
「どうして忍者なの?」
「君はなぜ自分が自分なのか答えられるか?」
「……答えられないけど」
そういう事ではないような気がするんだけど、どうなんだろう。もうどうでもいいか。
ポン酢の霊はソファの上であぐらをかいた。
「君、ポン酢好きじゃないだろ」
「よくご存じで」
「俺、井芹とかいう奴にしか使われたことないからな」
「そもそも井芹くんのために買ったしね」
「焼き魚には醤油、鍋はごまだれ、お浸しも出汁と醤油だもんな。俺は悲しかったよ。めんつゆにさえ笑われる日々だった」
「なにその調味料間での争い」
私はこくりと喉をならした。熱いココアが胃に届いて身体が中心から温まってゆく感覚がする。
この部屋は、井芹くんの形跡で溢れている。同棲こそしていないけど、世話焼きの彼は何かとここを訪れては料理を作ってくれたり、ココアを入れてくれたりした。ココアに至っては、最早自分で入れるよりも彼が入れた方がよっぽど私好みの配分で美味しいのだ。
「井芹はどうして君みたいなのと付き合ってるんだろうなあ」
「……はっきり言い過ぎじゃない?」
「ポン酢好きに悪いやつはいないんだ。井芹には幸せになって欲しいんだよ」
使っていたのが井芹くんだけたったせいか、ポン酢はやけに井芹くんの肩をもつ。私は井芹くんのことを思い出してみて、最近彼の困った顔ばかり見ていることに気がついた。
息を吹き掛けるとココアはくるくると渦をつくる。
「井芹くんは変わり者なの」
「へえ」
「あの人、下の名前が雷蔵っていうんだけど」
「古風でいい名前だ」
「似合わないからってみんなに苗字で呼ばせてるの。恋人の私にまで」
「別段似合わないこともないと思うが」
私は頷いてソファにもたれ掛かった。
まだ付き合い始める前、「結婚したときはどうするの? 奥さんが苗字で呼ぶのは変じゃない?」と私が聞くと、井芹くんはうーんうーんと悩み抜いた後で、ぱっと笑ってこう言った。
「奥さんにはらいぞーくんって呼んで貰います。両親と妹からは呼び捨てなので、くんづけで呼ぶのは奥さんだけ!」
彼の発音はどう聞いても漢字ではなく平仮名の「らいぞーくん」で、その唯一の場所に収まるのは私がいいなあと思った。らいぞーくん。心の中では何度もそう呼んだ。私が彼に「美奈子さん」と呼ばれる度に胸の奥がくすぐったくなるみたいに、私の「らいぞーくん」が彼の心を優しくさせることが出来たらいいのに。
私はカップを置いて膝を抱えた。
「結婚したいよお」
ポン酢がため息を吐く気配がした。
「すればいいだろ。結婚してくれそうな今の内に判子押させとけ」
「だって今結婚したら、井芹くんを逃げ道にしてるみたいじゃない」
散々支えてもらって、やっぱり無理だったからとなんの恩も返せないまま家庭に入って養ってもらおうなんて、虫が良いにも程がある。家事もろくにできないし可愛くもないし年上なのに頼りないし、井芹くんのためを想うなら身を引くべきなんじゃないだろうか。私は彼と、対等な結婚をしたかった。人助けみたいな形じゃなくて。
「物事を悲劇的にするのが得意な人だな。良いように言ってみても、君のそれはただの臆病と傲慢だ」
「……どういう意味」
「そのまんま」
臆病と傲慢。私、臆病で傲慢なの? やっぱり好きじゃない。ポン酢なんて。
ふいに短い着信音が鳴って、私は顔を上げた。すぐに手を伸ばしてテーブルの上のスマートフォンを取ると、通知に「井芹」の文字が見える。
『落ち着いたら連絡下さい。ちゃんと話し合おうよ』
瞬きも忘れて、私は繰り返しその一文を読み続けた。
「良い彼氏じゃないか」
私の手元を覗き込んでポン酢が囁く。
何も言えずに私はただただスマートフォンを見つめた。返事をしなくちゃ。早く、返事をしなくちゃ。
「なんで泣いてるんだよ」
ポン酢はそう言って笑って私の頭を撫でた。幽霊なのに、触れるんだね。そんな下らないことにしか、思考が巡らない。涙がぼたぼたと落ちて、画面が歪む。
井芹くんがこんな風に、静かな言葉を私に送ってくるのは、初めてだった。いつもなら、ごめんねと何度も言って、しつこいくらいに部屋まで押しかけてくるのに。
私は臆病で傲慢だ。ようやくどういうことか、飲み込めた。井芹くんに見捨てられるのを何よりも恐れていたくせに、彼は私にそんなことしないってどこかで信じ切っていた。なんて横柄で、なんて醜いんだろう。
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