潰れた

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 翌朝になっても、ポン酢の霊は相変わらずそこにいた。そのまま寝てしまった私はポン酢臭の充満した部屋で目を覚まして、昨日の出来事が現実だったことを思い知った。  そうしてミキちゃんに連絡をして、一時間だけ、と話に付き合って貰ったのだ。  私は胸焼けを抱えてカフェを後にするとスーパーに向かった。三月とはいえ風はまだ冷たくて、ストールを首に巻き付ける。  スーパーに着いてもポン酢は私のすぐ側に張り付いたままだった。忍者に護衛されているみたいで悪くない気がする。  籠を手に調味料の棚へゆくと、彼は怯えた様子を見せた。 「まさかたった一晩で新しいポン酢に乗り換える気か」 「そりゃあまあ、潰れちゃったんだし」 「使わないだろ」 「……井芹くんが使うかもしれないじゃない」  ふと視線を感じて横を向くと、品出し中の店員と目が合った。このポン酢忍者、他の人に見えないんだった。見えても困るけど。  私はにこやかに店員に会釈をして、新品のポン酢を一つ籠に入れる。  起きてすぐ私は、井芹くんに短いメッセージを送っていた。 『仕事が終わったら、私の部屋に来て』  それに対する彼の返事は『急ぎます』だった。井芹くんは未だに度々敬語を使う。私はその入り交じった関係が好きで、彼に敬語をやめろとは言わない。  急いで来てくれる井芹くんの為に私はお鍋を用意しようと思っていた。料理の下手な私でも、水炊きくらいなら用意できる。鶏肉と野菜を買って、ゆっくり準備をしよう。彼が来るまでの時間を、私はどうにかして埋めなくてはならなかった。  買った物を袋に詰めてスーパーを出る。高い所にある太陽に照らされて、眩しいくらいだった。人通りの少ない道をポン酢の霊と並んで歩く。 「名前でも付けようか」 「俺に?」 「うん。新しいポン酢買っちゃったし、ややこしいでしょ」 「酷いやつだ。俺にとっては持ち主は君だけなのに、君にとってポン酢は俺だけじゃないっていうのか」 「その通りだけど」 「しくしく」  口に出してわざとらしく泣き真似をするポン酢は、コスプレをした大の大人にしか見えなくて笑ってしまう。 「なんかキャラぶれぶれじゃない?」 「そりゃあそうだろ」 「そうなの?」 「君も少しは成長してるってことだ」  わけがわからない。私はポン酢の言っていることが検討もつかず、首を捻った。  両手に下げたビニール袋が重い。いつの間にかあれもこれもと買い込んでしまっていた。好物を買い与えたくらいで気持ちを取り戻せるような子どもじゃないとわかってはいるのに。 「ぽん助にしよう」 「……アラサーでそのネーミングセンスはないだろ。それでも漫画家か」 「どうせ人気ないよ。いいじゃんぽん助。忍者だし」  私はぽん助の顔を覗き込んで笑った。彼がいてくれて良かった。一人なら、きっとあんなに早く井芹くんへ連絡することすら出来なかった。  マンションの部屋に付き、食材を冷蔵庫にしまうと私は大きく深呼吸をした。腰に手を当て、気合いを入れる。 「よし」  まずはガラスの処理だ。それから散らかった部屋を整頓して、掃除と洗濯。明日は事務のパートが入っているから、今日中にみんな片付けてしまおう。  私は部屋を掃除していって、最後に作業机に向かった。  ごちゃごちゃと汚い机の中央に、大きな封筒が乗っている。中身は昨日「こういうのウケないんです」と言われたばかりの、漫画だ。  なら一体、どんなものならウケるんだろう。私にはもうわからない。やめようかなあ。井芹くんに謝って一緒に暮らして、事務の正社員を目指そうかな。 「掃除、しないのか」  暇そうにソファへ転がっていたぽん助が、いつの間にかこちらを見ている。私はその視線から逃げるように俯いた。  作業机の周りだけは片付ける気になれなくてキッチンに移動する。大きな鍋を戸棚から取り出した。二人分よりも大きいこの鍋は、私が景品で当てたものだった。大きすぎるからミキちゃんにでもあげようかと思ったら、井芹くんに止められた。使い勝手は決してよくないのに、彼はこの鍋をいたく気に入っていた。  鍋の季節ももう終わりだな。ストーブも片付けなくちゃ。  春が来ている。希望に満ちたあの頃の私は、今の私を見たらどんな顔をするだろう。 「漫画を描き始めたのって、いつ?」  白菜をざく切りにしてゆく私の横で、ぽん助が口を開いた。ちらりと横目で見やると、空中であぐらをかいて腕を組んでいる。 「いちばん最初は中学生のとき」 「へえ。どんなの?」  私は白菜をざるに移しながら、小さく笑った。 「すっごく下らない話。主人公の女の子は超能力が使えて、幼馴染みの男の子とその秘密を共有するの。たしか、全く完結せずに投げ出しちゃった」 「面白そうじゃないか」 「嘘、ほんとに? ……もしそうなら、昔の方が話つくる才能あったのかも」 「今もあるよ、才能は」 「……やめてよ」 「誰よりもそれを信じているのは、君の筈だ」  手を止めて前を向くと、暗闇みたいな黒色と目が合った。思わず逸らして、私は鍋の準備を進める。  才能がある。そう信じて、私は東京まで来た。引き留める父親を振り切って、希望だけ持って、東京まで。大学にいる四年間の間に少しでも芽が出なければすぐに田舎へ帰ることが条件だった。だから死にものぐるいで四年間、私は漫画を描き続けた。  実家は何代も続く農家で、父は私とミキちゃんのどちらかだけでも実家に残らせて婿を取ることを強く希望していた。けれどミキちゃんは田舎なんて嫌だと言って上京して、見事に都会のサラリーマンと結婚した。私は私で漫画家になりたいなんて言って家を出た。  井芹くん、農家は嫌かなあ。私は随分と老け込んだ両親の顔を思い出して、唇の端を噛みしめた。  カセットコンロを用意してお椀も並べる。時計を見ると七時半を示していた。  そろそろ来る頃だろう。私は鍋を火に掛けて、じっと見つめた。しばらくするとぐつぐつと音がし始める。 「君が潰しちゃったのは、ポン酢だけじゃないよ」  ぽん助は私の耳朶に口元を寄せて、掠れた声でそう言った。 「――え?」  聞き返そうとした私の言葉はチャイムの音に遮られた。慌てて玄関へ走り、ドアを開くとばつの悪そうな井芹くんが立っている。普段は綺麗に整えている髪がふわふわと広がっていて、彼の余裕の無さを感じさせた。それが、今の私には嬉しかった。  いたずらがバレた時の犬みたい。私はしょぼくれた様子の彼を愛おしく思った。 「井芹くん」  どの挨拶もふさわしくないような気がして、私は彼の名前を口にした。  井芹くんは頭を掻いて上目遣いに私を見る。 「鍋!」  不意に後ろでぽん助が大声を出して、私は瞬きをした。 「ああああ!」  急いでキッチンに戻り、コンロの火を消す。吹きこぼれた汁が音を立てて蒸気が上がっていた。  くすくすと、小さな笑い声が聞こえてくる。 「変わらないね、美奈子さんは」  私を追ってきたらしい井芹くんが可笑しそうに目を細めていて、私は頬が熱くなるのを感じた。
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