潰れた

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 正方形の低いテーブルを三人で囲う。そのうち一人はポン酢の幽霊で、私にしか見えていない。井芹くんは正座をしていた。  真ん中ではぐらぐらと鍋が煮えていて、沈黙が流れている。 「食べようか」  私は思いきって開口して井芹くんに真新しいポン酢を差し出した。自分の方のお椀にはごまだれを入れる。  野菜とキノコを箸で摘まみ、たれをつけて口に運ぶ。熱さと緊張で味がまるでわからない。  少しの間、私たちは無言で鍋を突いた。 「昨日はごめんね」  下を向いて私が言うと井芹くんは首を横に振った。 「僕こそ、タイミングが悪かったです」 「違うの、井芹くんは何も悪くない」  言い淀んで唇を噛む。すると隣に座るぽん助が顎をしゃくって、続きを言うよう促した。胃の奥から息を吐き出すと、信じられないくらいに熱かった。 「私、意地になってた。何も持っていない自分が悔しくて、井芹くんに優しくされると嬉しいのに苦しかった。漫画で成功して、胸を張って井芹くんと付き合いたかった。井芹くんが自慢できるような奥さんとして、結婚したかった」  みるみる声をくぐもらせる私に、井芹くんはカセットコンロの火を消した。ゆっくりとこちらへ寄ってきて、膝の上で握りしめた私の右手を彼の左手が包み込む。 「馬鹿だなあ」  井芹くんはそう言ってふにゃりと笑った。「美奈子さんは馬鹿だなあ」  全くもってその通りだ。なんの反論も出てこない。私は馬鹿で臆病で傲慢だ。 「ごめん」 「……僕も焦ってた。周りがどんどん出世して結婚していくから、不安になったんだ。先走ったことばかり言って、ごめんなさい」 「私、井芹くんの事らいぞーくんって呼びたい」 「結婚してくれるなら、いいですよ」  鼻先を私の肩に寄せて、井芹くんは目を閉じた。男の人にしては長い睫毛が頬に影を落としている。 「してくれるの?」 「美奈子さんとなら、いくらでも」  井芹くんだって大馬鹿だ。私なんかと結婚する気だなんて。 「――よかったなあ」  私ははっとして横を向いた。すぐ目の前に、端正な若い男の顔がある。口当てを下ろしたぽん助が頬杖を付いて笑っていた。  目を見開く。見たことがある。私はこの顔を、見たことがある。  瞬きをすると、ぽん助の姿は消えてしまった。最初から、ポン酢の霊なんていなかったみたいに。  呆然として、私は心臓が押しつぶされる感覚に胸を押さえた。昨日私が潰したのは、ポン酢だけじゃない。私の目の前で潰れたのは。 「美奈子さん?」  井芹くんが怪訝そうにしている。私は立ち上がって寝室に走った。クローゼットを開けて中身をひっくり返し、奥から段ボール箱を引っ張り出す。  大量のスケッチブックやノート、原稿用紙が詰まった箱を引っかき回して大きな茶封筒を探し出した。染みが出来ている封筒を開けると、中には下手くそな漫画の原稿が入っている。最初の数ページに茶色の染みが付いてしまっているこの原稿は、私が生まれて初めて完成させた漫画だった。  中学三年生の時の事だ。少女漫画雑誌の新人賞へ応募するために、私は夢中になって描き上げた。完成した夜は眠れなくて、早く送りたくてしかたなかった。  学校へ行く途中でポストに入れようと思い、リビングのテーブルに置いておいた朝のほんの短い間の事だった。封筒を見つけた父は私を問いただそうと自分の手元に引き寄せて、焼き魚用のポン酢の容器を倒してしまった。こぼれたポン酢は封筒にもしっかりと染み渡り、中の原稿まで汚れてしまった。  リビングに戻った私は取り返しの付かない状態になった原稿を見て泣きじゃくり、父と口論になった。漫画を描くこと自体をよく思っていなかった父は私を怒鳴りつけ、私は学校を休んで泣き続けた。  結局汚れた原稿を送ることは出来なくて、私はそのまま封筒ごとしまい込んだ。捨てられずに上京する時も持ってきて、クローゼットの奥に入れっぱなしにしていたのだ。  茶色くなっている表紙を眺めて、私は唇を噛んだ。表紙で微笑むヒーローは、ぽん助の素顔とよく似た顔をしていた。  あの頃はこれが、最高にかっこいいと思っていた。主人公の先輩で、大人でぶっきらぼうだけど優しくて、でも面白くて頭が良くてスポーツも出来て。思いつく限りの夢を詰め込んだ、誰にも読まれることのなかった漫画のヒーロー。 「キャラ、ぶれぶれだ」  私は笑いながら嗚咽を漏らした。私が潰したのは、ポン酢だけじゃない。  父親に反対されてもポン酢で原稿を台無しにされても学費をほとんど送って貰えなくても、これだけはずっと潰れなかったのに。  潰さないために、私にはもっと出来ることがあった。不可抗力だ仕方ないと、言う前に。  井芹くんは困惑していたけれど、やがて泣き止まない私の肩を抱いた。 「ごめん井芹くん。私、やっぱり漫画、続けたい」 「じゃあ家事を折半にしよう。僕が料理と掃除をするから、美奈子さんは皿洗いと洗濯」 「……料理は私も練習する」  私は鼻を啜って、井芹くんのシャツで目元を拭った。変わらないといけない。私と、井芹くんのために。 「なら僕も、洗濯物は手伝うよ」  胸が苦しくて死んでしまいそうだ。  井芹くんの薄い唇が私のと重なる。少しだけポン酢の味がして、腫れた唇の端っこがほんのちょっとだけ染みた。
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