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蔵橋光輔
作品展の打ち合わせで、彼と何度か会う機会があった。
彼の態度はいつも紳士的で乙哉を安心させた。
ギャラリーのオーナーから作品の譲渡先を聞き、それぞれに連絡を取り作品を借り受ける許可を貰ったと、嬉しそうに語った。
作品展まであと一月、会場の設営作品の展示の仕様など、彼は乙哉の意見を尊重してくれた。
打ち合わせの後食事を共にする事もあった、彼は常に乙哉をエスコートする様に歩き、食事のメニューにも気を配ってくれる。
最近では彼と逢う事を楽しみにしている自分がいた。
彼との会話も過ごす時間も楽しく、緊張する事も気を遣って疲れる事もなく、別れた後に心地よいときめきが残った。
彼からの申し出て桐谷さんではなく、乙哉と呼んでもいいかと言われつい承諾をしてしまった。
乙哉と名前で呼ばれることなど、母親と父親ぐらいでその二人も今は亡く久しぶりに呼ばれて彼を意識しそうになる。
自分を呼ぶ声が甘く心に響き、呼ばれるたびに胸に淡い気持ちが溢れた。
それと同時に過去の忌まわしい記憶も蘇り、同じ過ちを犯すまいと芽生えそうな気持ちを抑え込んだ。
作品展の開催も翌日となり、全ての作品が揃った。
会場の照明は薄暗く、作品一つ一つをスポットライトで浮き上がらせるような演出がされた。
その中で一番新しい作品の白い壺に赤い金魚を描いたものは、乙哉の1番のお気に入りだ。
この作品の展示にはどうしても拘りたいと、密かに思っていた。
だが、それをあえて自分の口から言うのは憚られた。
完成した会場の中を蔵橋光輔と歩いた、驚いた事にあの白い壺が会場の真ん中で、ガラスケースに入れられて展示されていた。
ケースの中には四隅に照明が置かれ、白い壺が輝いていた、描かれた赤い金魚もまるでそこで泳いでいる様に生き生きと息づいていた。
「蔵橋さん!これは・・・・・」
「如何ですか?僕はこの作品が一番気に入ってます。この作品の気品と優美さを是非皆さんに見ていただきたくて、こちらに展示しました」
「蔵橋さん、ありがとうございます!私もこの作品が一番のお気に入りなんです。そう言っていただけて嬉しいです。」
「乙哉!やっぱり僕と君は感性が同じだ!初めて逢った時そう感じていた、僕の勘に間違いはなかったようだ」
「蔵橋さん・・・・・」
「良かったら、光輔と呼んでもらえると嬉しいんだが、ダメかな?」
「名前でお呼びしても宜しいのですか?」
「もちろん、それと敬語も余計だ!これからは普通に話して欲しい」
「はい!」
「乙哉!俺の名前を呼んで」
「光輔」
「ありがとう!嬉しいよ」
光輔はそう言うと乙哉の頬を撫でた。
驚いた乙哉が後ずさる!
「そうだ、乙哉はこれに見覚えは?」
そう言って光輔が出したのは、小さな小さな陶器のウサギのストラップだった。
「それ、僕のです!何処でこれを?」
「拾った・・・・・場所は今は内緒だ!これは乙哉の作品?」
「そうです、作品の合間に手慰みで作ったもので、うさぎが可愛くて気に入ってたんです。いつの間にか無くなってて・・・・・何処で落としたのか全く分からなかったんです。まさか光輔さんが拾ってたなんて・・・・・」
でも、これを無くしたのは彼に逢う前だった事に乙哉はまだ気がついていなかった。
このストラップは2ヶ月ほど前、バーの入り口でぶつかった時に拾った物だった。
ぶつかった相手が乙哉だった、すぐに拾って後を追って店の外に出た時には姿はなく、彼の印象だけが強く記憶に残った。
まさか、馴染みのギャラリーの作品の中でも、特に気にしていた作品を制作したのが彼だとわかった時、彼にもう一度逢えるチャンスだと、展示会の申し出をしたのだった。
だが、今ストラップを拾った場所を彼に言うのは躊躇われた。
あのバーは普通のバーとは違い客はゲイが多い、そのバーから慌てて飛び出した彼に拾ったのはあの場所だと言い出せなかった。
彼があのバーへ何の目的で行ったのか・・・・・慌てて飛び出したのは何故なのか気になった。
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