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プロローグ
『秘密』
時にそれは命よりも重いもの。だが誰かが命を賭してまで守りたかった秘密を嗅ぎ分けて暴いてしまうのが警察官の使命…、いや性なのだ。だがそれがいつも正しい行いだったと、誰が言えるだろうか。
今夜、荒波が打ち寄せる高さ30メートルの断崖絶壁からこの男が転落しなければならなかった理由とは一体なんだったのだろうか。
「ーーこれは厄介だな」
暴風雨に晒されながら久我は絶望的な心持ちで断崖絶壁を見下ろした。
悪天候で荒れ狂った黒い海は複雑に切り立った岩場に砕け散り、白く泡立ちながら渦を巻くように引いていく。
その黒々とした夜の海を煌々と照らすはずだった、巨大な投光器すら強風に煽られて設置すらままならない。
「こりゃあ、当分遺体は回収できそうにもないな!」
崖上の待避所に停めた警察車両へと走り込んだ久我は、そうぼやきながら風と共に運転席へと駆け込んできた。
濡れた髪を手で撫で付けながら、後部座席でパソコンを開いていた上司で相棒の瀬尾に振り返った。
瀬尾は落ち着つき払った様子でシートに足を組み、画面から久我へと顔を上げた。
「まあこの悪天候じゃあ無理もないな。明るくなってからでないとこの状況下ではどの方面も動けんだろうからな」
「海上からの引き上げも断念したらしいですね」
「まあそりゃ当然だろう
この様子じゃ風速15メートルもありそうだ」
瀬尾の何処か冷めた視線の先では巨大なクレーン車のワイヤーが風に激しく暴れていた。
今夜ここから転落した男は元々はマル暴が麻薬の密売人として追っていた男だった。だが捜査が進むにつれて小物だと思われていたその男のバックには暴力団ではなく、とある大物政治家が絡んでいるのではないかと言う疑いが浮上した。
そこへ持ってきてここ数日間のうちに既に二人の人間が命を落としていたことで、マル暴だけでなく、瀬尾達捜査一課と政治家がらみと言うこともあって公安との合同捜査となっていた。
崖上の狭い待避所には消防車、警察車両、救護車両。加えて遥か沖では海上保安庁の巡視船の明かりが荒波に上下しているのが見える。規制線の向こうでは遺体を引き上げる瞬間を捉えようとマスコミの車列が待ち構えていた。
コンコンコンコンコン…。
そんな中、雨粒が叩きつける車窓を忙しなく叩いて来る者があった。
見れば髪を風に激しく躍らせた厳つい男が乱れ髪の隙間から鋭い眼光で車内を覗き込んでいる。それはまるでナマハゲのように見えて久我は思わずのけ反った。
「うわぁ!ご、後藤さん?!」
後藤と呼ばれたナマハゲが何やら騒ぎ立てながら車内へと押し入って来た。
「ああまったく、面倒なことになったぜ!容疑者に死んでもらっちゃあ困るってのによぉ!」
体格の良い後藤が息を切らせながら車内に乗り込んでくると、一気に空間は狭くなり、あっという間に窓が曇る。
瀬尾はポーカーフェイスの下で不愉快そうにため息をつきながら座席を詰めた。
「どなたかさんが今の調子でグイグイ追い詰めて自殺に追い込んだんじゃないのか?」
「なにぃ?そりゃあ聞き捨てならねえな!てめぇ俺に喧嘩売ってんのか!」
「冗談だ。そう凄むなよ後藤サン。ただでさえアンタ顔が怖いんだ」
「何をぉ?努力で何ともならねえ事を指摘すんな!いけすかねぇ澄まし顔しやがって!だから俺はテメェが嫌いなんだよ!」
「ははは、それはちょうど良い、好かれようと思ったことなどないが?」
だいたいこの二人が顔を合わせるといつもこうなのだ。一課の生え抜きの瀬尾課長とマル暴のお騒がせ男後藤はいわゆる犬猿の仲と言う奴だ。
こう言う上司達を持つと部下は無駄な苦労を強いられる。雲行きが怪しくなると見るが速いか久我が間に割って入った。
「まあまあ二人とも、落ち着きましょうよ。それよりどうしたんですか?後藤さん。向こうの車両に行かなくて良いんですか?」
そう言われると後藤はニヤニヤと口角を上げながら身を乗り出した。
「あっちの車にはお偉方がいらっしゃってよ、窮屈でかなわねぇや!
いや、そんな事より最新情報だ。まだここだけの話だがな、例の大物政治家の名前が浮上したぞ」
「え、誰なんですか?」
「それがなさっき公安に垂れ込みがあったんだと。この一件の糸を裏で操っているのは民自党のーー」
そう後藤が言いかけた時、後藤のスマホが懐で鳴った。
「はい、俺です。…え?はあ、…はあ。分かりました今行きます!」
そう言うと後藤は舌打ちしながら腰を上げた。
「呼ばれた!今の話はまた後でな!」
そう言うと後藤は吹き荒ぶ風雨の中を再び慌ただしく疑問だけ残して飛び出して行った。
「後藤さんの新情報って何だったんでしょうね」
後部座席に振り返った久我の目に、普段あまり見たことのない表情をした瀬尾がいた。
暗く重く何かをじっと考えているような眼差しで、遠く海原に黒々と霞む島陰を見つめていた。
「…?どうかしたんですか?」
「例の政治家はおそらくは民自党幹事長の五島市蔵だ…。ようやく尻尾を掴めるかもしれないな」
「え?それはどう言う…」
「…お前、あの島が見えるか」
そう言うと瀬尾は、見つめる先の島陰を指差した。
「五島という男はあの島の出身だ。
そして…俺が通っていた高校も、…あの島にあった」
久我は初めて聞く話に面食らった。瀬尾はもっとエリート学校の出身だと勝手に思い込んでいた。
「何という島ですか」
「…鮫人島と言う」
「鮫人島…ですか。聞いた事の無い島です」
「あの島が…と言うか、あの島の学校がちょっとした話題になっていたのはもう二十年も前の話だからな。お前は五歳くらいだったんじゃないのか?」
「騒ぎ…ですか。どう言った騒ぎだったんですか?」
何故か瀬尾は久我の質問に暫く黙り込んでいた。その沈黙に久我はいつもの瀬尾とは違う雰囲気を嗅ぎ取っていた。
その視線は遠く島陰にあり、ややあっておもむろに瀬尾は口を開いた。
「遺体が上がるまで暫くかかりそうだからな。暇つぶしに昔話をするにはちょうど良い。
お前は人魚伝説というものを信じるか」
「…は?人魚…ですか」
あまりに唐突であまりに荒唐無稽な言葉が瀬尾という男に不似合いだった。
「まあ、昔話だと思って聞けば良いさ」
車外ではますます風雨が強くなっていた。車体が風に煽られ、車窓に叩きつける雨粒の音が車内に響いている。
そんな中、昔話だと前置きした瀬尾の語り出した話に久我の耳と意識とが次第に没頭して行った。
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