結界と神獣

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結界と神獣

 何を深掘りしていたのかと尋ねると、井上は顎をさすり天井を見上げてう〜んと唸ってから俺を見た。 「…そうだな。じゃあ放課後にでも話そうか」 「はあ? 何で今じゃ無いんだ」 「見せたいものもあるし、それに…今は…」  井上がそう言った時だった。無情にも始業を知らせる予鈴が廊下に響き渡った。  そう、この濃ゆい展開に今が朝っぱらだと言う事を俺はすっかり失念していたのだ。 「くそっ!飯も話もお預けか!」  悔し紛れに俺は廊下の壁を蹴り飛ばしていた。  鮫人島はほんの小さな島だ。本土からは約7kmの所にあり、連絡船で十分で来られる場所にある。  面積はおおよそ直径13キロ。山手線の内径よりほんの少し大きいほどの広さだ。  島はそのほとんどが手付かずのままの自然が残り、島民と生徒達のために町には小規模な役所と病院と消防署、交番。それに数軒の商店と喫茶店とスナックが一軒づつあるだけだ。  俺達はジョギングをすると言う名目で外出許可をもらった。寮の門限は五時半。今が三時半だから二時間ほどは羽を伸ばせる。  もっとも、二時間も有ればこの島を一周できてしまうのだ。  俺達は、正門代わりの朱塗りの鳥居を潜り抜け、町とは反対方向の山道を歩き出した。  この先には崖があり、そこから見下ろす複雑に切り立った断崖絶壁にはいつも荒波が打ち寄せ、崖の上まで白い波飛沫が噴き上がる。 「昔からあの岸壁の下には小舟も近づけないんだってさ」 「あれ見たら誰も近づこうなんて思わないだろうな。座礁したら絶対助かりそうも無いからな。 で、見せたいものもがあるって何だ。勿体ぶってないで教えろよ」  崖の上に到着すると、潮の匂いのする強い海風に体が持っていかれそうになる。  近くで見下ろせば荒れた海も、視線を馳せれば地平線は丸みを帯びて穏やかだ。  井上は服が濡れるのも構わずに、飛沫が跳ね上がってくる場所に腰を下ろした。 「まあ、そう焦らず新鮮な空気を吸えよ。学校の中ばかりじゃ気分が滅入るだろう」 「ははは!年寄りか!」  そう笑ってみたが、実際、ここ数日の出来事で気分は酷く塞いでいた。恐らく井上も同じ気持ちだったのだ。 「瀬尾君。鮫人島の鮫人って何だか分かるかい?」  そう唐突に井上が切り出してきた。知らないと言う代わりに俺が沈黙すると井上が続けた。 「鮫人って言うのはね、中国では南海に棲むと言う人魚のことを言うんだ。 言わばこの島は人魚島ってわけなんだ」 「へえ?さぞかしロマンチックな由来でもありそうな名前だな」 「そう思うだろう?そう思うのが自然だよね。 なのに、そんな伝説や逸話がこの島には不自然なほど何も無い。というより消されてるんだ」 「…消されてる?」  俺は眉を顰めた。 「各地に残る伝承とか伝説には大概何かしら根拠があるもんだよ。きっとこの島にもあったはずなんだ。 だって、昔はこの地域だって鮫人村と言ったんだ。 鮫人海岸、鮫人峠。鮫人神楽もそうだし、龍神神社も昔は鮫人神社と呼ばれていたくらいなんだぜ?」  小石を拾い上げ、断崖絶壁に放り投げる井上の隣に俺も腰を下ろし小石を拾った。 「飽きちゃったんじゃね?それかもっとかっこいい名前にしたかったとかさ!」  そう冗談気に言って俺も小石を海へと投げ込んだ。 「その土地の名前にはそこに生まれて育って、暮らしている人達の愛着や誇り、安心感、連帯感、帰属感。そんなものが複雑に絡み合ってる。人間のアイデンティティに深く根差してる物なんだよ。 それはあっさりと捨てられるようなものじゃない。そうは思わないか? なのに明治時代の初め頃に突如としてそれまで島中に溢れていた鮫人という名前が消され、その代わりに龍神に置き換わっているんだよ。その時恐らく御神体すら挿げ替えられた。僕はそんな気がするんだ」  こんな突拍子もない事を言い出す井上の顔は真剣だった。 「鮫人神社が本当の名前だったなら、そこには御神体として人魚が祀られているのが自然だ。なのに龍神?おかしいと思わないか?御神体が人魚だと言う事を隠してるようにしか思えない」 「誰が何のために隠すって言うんだ?宮司か?学園長か?」 「分からない。この島には辻褄が合わない事が多すぎる。知りたいんだ。本当の事が」  正直な事を言うと、井上がどうしてそんなにこんな事に直向きになれるのか、不思議だった。  おおよそ一介の高校生にはどうでも良い話に思えたのだ。 「その顔、興味無いって顔だね。もう少し君の興味をそそるような所に行こうか」  井上は立ち上がると俺に手を差し出したが、照れ臭くて俺はその手を掴む事が出来ず一人で立ち上がっていた。  整備された遊歩道のような道を下ってくると、道端に道祖神のような物が立っていて、井上があれだよと指差した。 「この学園の周りにはこうした道祖神や祠がたくさん立っているのは知ってるだろう?その一つ一つに大袈裟なほど立派なしめ縄が巻いてある」 「この意味なら俺にだって分かるぜ?要するにこれは結界なんだろう?」 「そう。結界だ。うちの学校の中にも尋常じゃ無い数の神棚が設置されてる。いったいこんなに沢山結界を張るどんな理由があるんだと思う?」  そう言うと井上は道祖神の前て二礼し、高らかに柏手を打って拝礼した。  そう言う時の彼の横顔は、美少年の海堂にも引け劣ら無いほど端正に見える。 「どう?少しは興味湧いた?」  そう言って俺を見上げた井上の顔には、傾いた陽光が重たく蕩け出していた。 「そろそろ戻ろうか」 「ああ、また寮長に怒鳴られるからな」  そう言って学園に戻る道々、俺達はある場所に寄り道をした。  草木に覆われたひっそりとした場所にある小さな社だ。 「これも不思議の一つさ。普通神社の神獣は狛犬だろう?まあ、犬じゃなかったとしても大抵は牛とか猿とか猪か狐とか、そんな所だろう?でもこれ、何に見える?」  見れば社にかかる鳥居の前には二体の神獣が異彩を放って立っていた。  重そうに垂れた瞼。波を打つように裂けた大きな口。剥き出された無数の歯。こんな動物はちょっと思いつかなかった俺は適当に答えた。 「…雪崩れた海坊主」 途端に井上は笑い出した。 「ふふっ、失礼だなあ君は! これは鯨だよ!変わってるだろう?鯨の狛犬なんて。 日本広しといえど鯨を神獣としている神社なんてここにしか無いよ。 この僕の深掘りが佐々木くんの死とどう繋がるのかは分からないけどね」 「だか緑川は繋がりがあるからこそ、深掘りするなとお前に釘を刺したんじゃ無いのか?」 ガサ…っ  そんな話の途中だった。社の裏手から何か黒い影が林の中へ飛び込んだ気がした。 「だれ?!」  咄嗟に俺達はその黒い影を追いかけていた。
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