雨音

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
ワイパーがフロントガラスの上をせわしなく行き来し、湿気た臭いが車内に充満している。 何の気なしにラジオをつけて時計に目をやると、雨音を聞きながら2時間ほど車を走らせていたことに気付いた。 空腹であったが何かを食べようという気力が湧かない。 ステアリングを握る手に巻いたハンカチの下で、じわじわと来る手の甲の痛みだけが今が現実であることを感じさせる。 目的地を考える余裕もなく飛び出し、自然と東北の方へ車を向かわせていた。 (どうしてこんなことになってしまったのか・・・) 少しずつ記憶を呼び戻していく。 興信所に嫁の浮気調査を依頼して2週間ほど経った後、嫁はクロだったことが分かった。 俺は依頼先の探偵が撮影した証拠品の写真を見ながら録音した音声を聞いた際に、何か吐き気やめまいを感じた。 浮気相手は嫁の会社の上司で妻子持ちだった。 嫁との不倫関係も1年以上続いていたようだ。 嫁の様子が何度かおかしいと思っても彼女を信頼して裏を探るような真似はしないで置いたが、それが返って自分が惨めな生き物に思えてしまった。 身体から力が抜けていく感じがあったが、しばらくして裏切られていたことにふつふつと怒りが湧いてきた。 探偵からは弁護士を立てて裁判にもっていくよう勧められ、去り際に弁護士の連絡先を書いたメモを渡された。 だが、もらったメモは探偵が去った後にぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱へ投げ捨てた。 嫁が帰宅後、睡眠薬入りの紅茶を飲ませて自宅ガレージで車のトランクに押し込んだのが7時間前。 人気のない山中の展望台駐車場で薄暗い街灯の下、嫁をトランクから引きずりだして後部座席に運んだ。 嫁がようやく目を覚ます。 俺は嫁の隣に座って嫁の様子をうかがう。 「え~、ここどこぉ~?」 「出かける約束してたろ?」 「なんで!?何も約束してないよね?もう夜だよ。」 嫁が俺の違和感に気付いたのか、身構える。 「まぁ、いいじゃないか。それよりも・・・」 俺は助手席に手を伸ばしてバッグを取り、中から封筒を取り出した。 その時嫁は何かを察したようだった。 封筒内の写真を嫁に突き付ける。 嫁の目の焦点が写真に合った後、慌て始めた。 「いや、違う!これは何かの間違いよ!」 ここまで来てもまだしらを切ろうとする嫁には、もう愛着など湧いていなかった。 「もう結婚生活を続けていけない。1年以上相手と関係を持っていたみたいだな。お前を信じて最近まで探りを入れるようなこともしなかったんだけど、俺が馬鹿だったよ。裏切られていることに気付かなかったなんて。」 そこから次々に言い訳を繰り返す嫁に対して適当に相槌をうっていたが、嫁は逆上した挙句罵声を浴びせて来た。 「〇〇さん(上司)はあんたよりよっぽどいい男だもん。私を大切にしてくれるし。あんたは〇〇さん(上司)に負けたのよ。」 「勝ち負けの問題とかじゃないだろ!相手には嫁さんと子供さんもいるんだ。その人たちの幸せも破壊することになるんだぞ、お前は!」 そう怒鳴り返してつい拳を握りしめてしまったが、嫁は調子に乗って挑発してくる。 「何よ、私を殴る気!? やればいいじゃん!DVで訴えてやるんだから!殺せるもんなら、殺してみなさいよ!この根性なし!」 そして彼女の平手が俺の頬に強く当たった。 その瞬間に自分の中に溜まっていた何かが噴出し、気付いた時には俺の両手は嫁の首を強く絞めていた。 「・・・・かはっ・・・・・うぐっ・・・・ぐぇ・・・・・・」 鼻水と涎を垂れ流しながら嫁が苦悶の表情を浮かべた。 そのまま嫁を押し倒す。 嫁の手が俺の手を振りほどこうとして、搔きむしってくる 手の甲を強くひっかかれて皮が割け、血が垂れていた。 その時は怒りのあまり痛みは感じず、一刻も早く目の前の女を殺してやるという強い殺意にしたがって、ただただ嫁の首を絞め続けた。 嫁は口から泡を吹きながら足をばたつかせて抵抗していたが、その両手が力なく落ちた。 ふと我に返って嫁の呼吸を確認したが、もう嫁は息をしていなかった。 両掌がじんじんとしびれて赤く充血している。 引っ掻き傷からは血が滲んできたので、ハンカチを手に巻いた。 嫁からもらったハンカチは汚さないように大事に使っていたが、もうそれすら気にすることはなかった。 (やってしまった・・・・・) どれだけの時間力いっぱい首を絞め続けたのだろうか。 色々なことを考えた。 自分の人生もここで終わってしまうのだと。 自分の両親は何と思うだろう。 嫁の家族にも何て言えばいい。 もう会社に顔を出すこともできない。 警察に自首しようとも思ったが、ふんぎりがつかなかった。 少しして車の外でぽつぽつと雨が降り始め、ぼんやりと雨音に耳を澄ませる中で、ふいに黒い考えが頭をよぎった。 俺は嫁の遺体を抱え上げて車から降り、斜面の方へ向かった。 駐車場に戻った後、からからに乾いた喉に缶コーヒーを流し込んだ。 本当はもう一息つきたいところだったが、素早く立ち去ることにした。 降り続く雨が痕跡をきれいに洗い流してくれるよう願いながら。 そして頭部の重みがボウリングのボウルと同じくらいだったことも、鋸をひいて骨や筋を切断していったあの感覚もそのうち忘れてしまうだろう。 終
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!