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翌朝――。
小鳥のさえずりに目を覚ます。
まだ夜が明けたばかりという時刻だったが、不思議と爽快な目覚めだった。
当然近くにコンビニもないので、やかんに湯を沸かす。
インスタントコーヒーの粉を見るのも、もう十数年ぶりだ。
コーヒーの香りと、木枠にはめ込まれた薄いガラスの向こうから差し込む光にホッと息をつく。
こんな朝は、何十年ぶりだろうか。
もうはっきりとは思いだすこともできない幼い日の残像が、そのとき微かに、ほんの一瞬だけ瞼の裏を掠めた気がした。
今日はいい天気だ。
時間はいくらでもある。
家の手入れなど後回しにして、少し外に出てみよう。
新品のスケッチブックを手に、生まれて初めて買った登山靴を履いて散策を始める。
山の奥まで入ろうというわけではないが、こういった自然豊かな場所を歩くのに、どんな靴が適しているのかがわからなかったからだ。
どこまでが庭で、どこからが山なのかもはっきりしない。
他人の姿などどこにもなく、誰の声も聞こえない。
こんな場所があったのだな――と、しみじみと思う。
私はずっと、こんな場所に来たかったのだ。
死後、白骨になるまで誰にも発見されないのが、僕の理想の生き方だ――。
そんなことを言い捨てて、母を悲しませたこともあった。結局、ある年頃独特の厭世観だったのだと笑い話で済まされたその思いは、実は、今も何1つ変わっていない。
そう、社会に出て家を出て……そうして一人になるまでは、私は家族の前でだけは確かに素直で正直な子供だったのだ。
彼らだけが本当の私を見、そして結局、私を知ろうとはしなかった。
仕事一筋でほとんど家にも帰らず、家庭を顧みることなど無いように見えた父が、酒に酔って暴れながら、叶わなかった夢を語ったことがあった。
俺は大工になりたかった――。
そんな意外な慟哭を聞きながら、まだ幼かった私が感じたものは、たとえ一流企業に入って成功しても、夢を叶えることができなかった人間はこんなに哀れなものなのか。ということだった。
祖父の口利きで大企業に入り、順調に出世して――社会的な地位を得ても、満たされない思いを叫び、家族の前で醜態を晒す。
その姿が何処か恐ろしくて、自分はこうはなるまいと心に決め――しかし、まるで父の粗悪な模倣品のように、結局、私は生きてきたのだった。
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