ユリシス

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 とある山間の寂れた村の、一番はずれにあるタダ同然の空き家を購入し、私はそこへ移り住んだ。  一人暮らしには広すぎる家だが、これまで住んでいた狭いマンションでは保管しきれなかった本の山を収納するには、ちょうどいい広さといえるかもしれない。  しばらく住む人のなかったというその家は、少々の手入れを必要としたが、私はできる限り、自力でそれを行うつもりでいた。  荒れ果てた庭を手入れをし、花でも植えてみよう。  黄色く甘い実をつけるあの植物は、なんという名前だっただろうか?  慰めに、猫の数匹でも飼ってもいい。ここなら自由におもてを歩かせても、誰の迷惑にもならないだろう。  そういえば、いつだったか父は「大工になるのが夢だった」と語っていたな。  もう70歳を越えた老人だが「今度、家の手入れを少し手伝って欲しい」と声をかければ喜んでくれるのかもしれない。そうすれば、実際その「今度」が永久にやってこなかったとしても、多少の親孝行にはなるだろうか?  ふと、そう考えて私は苦笑を漏らした。  幼いころ、私は工作が好きだった。  夏休みの宿題で毎年賞をもらえるぐらいには、得意だったと言っていいだろう。  そんな小さなエピソードを膨らませて面接を突破し、私はそこそこ大きなものづくり企業に就職した。  そこを就職先に選んだのは、単に交通の便がよかったというだけで、いわゆる「御社の製品」にも「企業理念」とやらにも、これっぽちも関心など無かったのだが。  血は争えないものだ――。  おそらく、自分の最後の城となるだろう古家を見回して、私は小さく嘆息した。   「このたびこちらに越してまいりました、牧本と申します。どうぞよろしくお願いします」  村長宅と、()()といえるのか甚だ疑問な距離にある家々に挨拶周りをし、私は自らの職業を「画家」だと名乗った。  少々人付き合いの悪い変わり者であっても、芸術家という肩書があれば受け入れやすいのではないかと思ったからだ。  実際、子供の頃は絵描きになるのが夢だった。  使い終わったカレンダー、裏が白紙の広告などが、私の最初のキャンバスだった。  やがて「自由帳」を手に入れ、時間があれば常にそこに絵を描くようになった。  描くものは、決まって空想の世界だった。  絵本で読んだ物語のお姫様、オリジナルの怪物……絵を描いているその間、いつも私の心は自由であり、他のすべてを忘れられた。
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