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彼は、右腕を咲衣の頭のうしろへ伸ばした。
「あんた、邪魔」
低い声を落とすと、すっと取り上げるように紺色のシャツを握った。さっさと身を引くと、シャツを頭からかぶった。
あやうく心の臓がとまりかけた。咲衣は胸に手を当てて息を乱し、彼を凝視した。
サイズの大きいシャツの丈は高身長にピッタリ合っているが、ウエストは生地があまっていた。
「じろじろ見てんなよ」
「ごめんなさい。だってびっくりして」
彼はカーキ色のズボンの裾をぎゅっと絞っている。
「川に入ってたの?」
質問すると、じろりと見返してきた。あからさまに不機嫌なのでうろたえてしまう。
「えっと……私なんて泳げないからすごいなあって思って」
「泳げない?」
「う、うん」
「泳げないやつはこいつに近づくな。こいつは底が深い。静かなのは深い証拠だ」
こいつ、というのは川のことだ。彼はアゴで水面を示した。
かくん、と咲衣は頭を動かした。それから「ねえ、いくつ?」とたずねた。けれど、彼は答えないので「もしかして高校生?」と質問を重ねた。
咲衣は、この少年が同世代ではないかと思った。この町に公立高校はひとつしかない。
ビーチサンダルを取りに行く彼を追いかける。
「私、芦河高校の転校生なの。来週から通うんだけど、もしかして同級生かもって……」
「よくしゃべるやつだな」
冷静な口調で返されて、咲衣はおとなしくなった。
「あんた病気なの?」と彼はつぶやいた。
「え、病気って?」
「顔白いし、目の下腫れてるけど。このクソ暑いのに長袖着てるし、なんも食ってないみたいに細いから」
(涙袋メイクなんですけど、長袖は日焼け防止なんですけど。君だってじゅうぶん細いし、東京じゃこんなの細いうちに入らないんですけど)
苦しまぎれの笑みで本音を隠す。
「ねえ、あんたさ。俺がここにいたこと誰にも言うなよ」
「えっなんで?」
騒がしいやつだ……と、かすかに唇を動かした直後だった。「うせろ。二度と来るな」と聞こえた。空耳かと思うほどの声量だったが、よほど機嫌が悪いらしい。
短パンのポケットに手を突っ込んで、彼はいなくなった。
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