雨よ降れ

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***  再び実家に足を踏み入れたのは、大雨の日だった。  こめかみを庇いながら濡れそぼった傘をたたむ。大粒の雨が傘の先端から滴り落ちて、玄関先の石畳に吸い込まれてゆく。その様が何故か、こめかみから垂れる血液が安酒の海の中へ落ちていった、かつての光景と重なって目眩がした。  頭が痛い。  気を紛らわすために庭を覗いてみる。  園芸を好む母が手入れをしていた小さな庭は、荒れ放題だった。伸び放題の雑草、剪定されずに堀をまたぐ梅の花、石壁じゅうを飲み込むように這う蔦……。まるで、両親の現状を端的に示しているようだった。 「やあ葵、早かったね。体が冷えるといけない、入りなさい」  父に促されるまま家に入る。手土産として持ってきた菓子を渡すと、彼は「気を使わなくても良いのに」といいつつ、菓子をしまっている棚に手土産をしまおうとした。皆で食べると言う発想は無いようだ。  仕方がないので私が全員分の紅茶を入れ、持ってきた菓子を各々のデザートプレートに盛り合わせる。家を出た身でこんな事をしなくても良いのかもしれないが、少しでもお茶とお菓子でささくれだった己の心をなだめておきたかった。 「両親に喜んで貰いたかったくせに」と、もう一人の自分がどこかで囃し立てる。「無駄だよ、あの人たちにそんな心遣い通用するもんか」とも。  私の葛藤など何も知らない父はその間、母の近況を事細かに説明した。話の途中で何度も私の顔色を伺い、おどおどと目を泳がす父の態度はこの上なく卑屈に見えて、不愉快だった。  父は父で、私に対して後ろめたく思っているのだろう。  私は不自然にならない程度に相槌を打ちながら、菓子と紅茶をお盆に乗せて母が休んでいるリビングへ向かう。  母の体が衰えてから、トイレやキッチンに近いと言う理由で、父は寝室ではなくリビングに電動ベッドを設置したそうだ。  普段の母は無気力で何もせず、一日の殆どをベッドの上で横になり、過ごしているとの事だった。  サイドテーブルに菓子とお茶を置き、改めて母と目を合わせる。 「……具合はどう?」  良いわけないだろうな、と思いながらも、そう尋ねずにはいられなかった。 「頭、痛いねえ」 「大丈夫? 薬は飲んだ?」 「……」  母は私の問いかけには応えず、よろよろと上半身を起こして私のこめかみに触れようとした。  予期せぬ動作に驚いた私は体を強張らせ、反射的に母の手を叩き落とした。  叩かれると思ったのだ。 「……ごめん、つい」  やっとの事で絞り出した言葉を聞いて、母は悲しそうに目を伏せ、言った。 「……頭の傷は、痛む?」  私は束の間言葉を失った。 「覚えているの? この傷の事」  母はぼうっと私の頭部を眺め、そのまま動かなくなってしまった。一連の様子を見ていた父が小さな声で、 「母さんはもう殆ど何も覚えていないと思う」  と囁いた。  傷が目に入ったから、娘の心配をしたのか。自分が原因である事も忘れて。  随分都合良く年をとったものだ。  例えそれが、老いや病気のせいだったとしても。娘への愛は健在で、自分のしでかした事だけ綺麗さっぱり忘れているのなら、狡いと思う。  もっと、母とぶつかり合いたかった。謝って欲しかった。どうして私に理不尽な仕打ちをしたのか、納得するまで問いただしてやりたかった。 視界が滲んだが、気のせいだと言い聞かす。  母は黙したまま、再びベッドに横になってしまった。  私は、目を閉じかけた母に向けて、やっとの思いで声を振り絞った。 「母さんは、どうして私に辛く当たったの?」  返事など期待していなかった。しかし私は、その疑問を自分だけに留めて、全てを水に流すほどお人好しではないのだ。  母は予想通り、微動だにしなかった。諦めかけたその刹那。 「覚えていない」  時が止まった気がした。 「でも、雨が降ると思い出すの。あんたが痛がってるって。どうしてなのかは……思い出せないけど、雨の日はいつもより物が考えられるからね、次に会う時までには思い出しておくわ」  もう良いよ、と、言おうかと思った。  私は自分のルーツを探ろうとして、解答に出会い損ねたのだ。母の病状から察するに、きっと永遠に知る事はないだろう。まるで、振り上げた拳を下す先が無くなってしまったかのようだった。喪失感と、母への同情が頭の中を搔き乱す。  そんな私に構うことなく、頼りない声音で母が続けた。 「あんたが立派な大人になってくれてよかった。これで安心できる。ありがとう」  それを聞いた途端、まるで天啓を受けたかの如く、点と点がつながったように感じた。  母はずっと不安だったのだ。  だからといって彼女の愚行は許されないが、私にきつく当たったのも、浪費に依存してしまったのも、経済的に追い込まれた不安感によるものだったのかも知れない。  母は残忍な化け物などでは無かった。理由があってずっと苦しんでいた、ただの人間だったのだ。  決して母を許したわけではなかった。全てを水に流すつもりもなかった。  けれど不思議な事に、両親の弱い部分を見たことで、全てを許せずとも、受け入れられずとも、穏やかに会話は出来るのではないかと思えたのだ。  失望する事もあるだろう。過去を思い出して途中で激してしまうかもしれない。それでも――。 「雨がもっと降れば良いね。そうしたら、母さんの惚けた頭もしゃっきりするでしょうよ」 「あんたは言葉がきついわね、親の顔が見てみたいもんだ」 「鏡をどうぞ、お母様」  雨が降る日は古傷が痛む。  ずっと、降り続けば良い。  私ははじめて、この痛みを愛おしく思った。
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